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着眼大局・着手小局


命占は、長期の「流れを見る」のに役に立つ。て本当に思う。

でもまあ、個々人でその「現れ」は変わってくるので、補正してみても良いと思う。

あと

例えば、健康の部分について「ちょっと違う…」と書いておられましたが、命からみるとそうなんですよね。本来の種子の種類、車種については丈夫としても、その時の状況によってどの部分がでるかが変わったりします。

これだけど、話はかわるけど、それだけ「ストレス」の身体に及ぼす、大きな負荷をってのを改めて認識させられますね。

それだけストレスが無かったら、私ももっと動けていた・・て思います。

が、それだけ弱りながらも50近くまで生きれているのは、結構「生命力」がある・てことに思う。

あと、よく見分するのは「過度なストレスがかかることで、癌になる」ってのを良く見聞きする。健常者を一気に「がん患者」に作り上げてしまう「強烈なストレス」ってのの凄さがわかる。

そんな意味で「心身の医学」はとても重要。

だけど、まあ日本の医療でそれを十全に求めるのは、子供に高山を上るのを要請するようなモノ。期待してはいけない。



命占で長期の展望を見て、

卜占で、目先の状況の対処法を考える・・


のが、無難な方法に思えます。


まさに「着眼大局・着手小局」でもないけど、そんな感じ。


ちなみに、命占での占星術はユングも嵌っていた。

共時性の共同研究者のパウリに、「なんで、星なんだよ」って呆れられていたとか。

ちょっと過激だが、結構面白い論考

「実験するユング本人の占星術への
ひいき目(期待感)が、その通りの現実
(実験結果)を招いたという、
これぞまさに
共時性でしょ!?
そしてこの、実験する側のひいき目(期待感)
が、その通りの現実(実験結果)を招く、
というそこにこそ、量子物理学の
「観測問題」があるわけでしょう。それを
忘れて何言ってんですかあんた」

「占星術が当たるのではなく、占星術が当たったかのように思えるような共時性」

てのが有る面では「本体」だと言われる。


が、「星と人間って無関係なの」ってのを厳密に「無関係」と証明するモノも無い。

帝網重々の世界で、共時性も働く。そりゃ、「関係無~いて言えん」し、「当たってしまう可能性がずば抜けて高い」のなら「観測問題」+下駄をはかせる何か?をって考えても間違いではない。

帝網重々の世界で、いくら距離があれど時には「太陽よりもでかい天体」が、多少也は、影響を与えない事も無いはずもない。とはいえそれを打ち消す様々な他の星や地球上の物質・人間の要素もあるけど、「打ち消す」ってのは「打ち消す」のに地球上の物質や人間の要素も消耗してしまうって意味でも「多少の影響は必至」とみても大過ない。

ただね、星の象意自体は、多数あり、「言葉が一つの意味でなければ、そんなの鳥の鳴き声と、人間の言葉は、違いがないよね」{荘子}っていうように、厳密に「星の言うとおり」ではない。


「往亡の日なら、行って敵が滅びる。で正しいのだ」ってもなる。


そういう意味で命占も、卜占とおなじ、見るモノのセンスと倫理観や識見に大きく左右される見方でもある。

とはいえ、まだ卜占 よりは、見方がある程度固定されているので「楽」

だかその「楽」に落とし穴がある・・・

同じひまわりの種が二つあっても、日当たりや雨の度合いによって、どこまで伸びるか変わってきます。後天的要素は、ざっくりは命にも出ますが、細かいところまでは読み切れません。それにその時の本人の自由意志でも変わってきますしね。
それに、あまりに「私には財運がないから」などと命の結果にこだわって、せっかくのチャンスが来ていて自分もやってみたいのに、商売には全く手を出さない、とかたくなになるのもかえって自由度が下がります。その都度のイベントでの細かい方向性までは命占では読み取ることができません。
ですから卜占と組み合わせるといいですね。

てそれの典型と思う。

王陽明が

「易を立てることは、理を見極めるものであり、理も易を立てることによって見極められるのだ。
天下の理のなかで、易による卜筮によって見極められる以上に大きい物はない。
後世の人たちは、易を占った時の卦の上のできごととしてしか見ないために、卜筮を小手先の技であると同じだと勘違いしている。
現代の師弟の質疑応答や《「中庸」に説いている》「博く学んで、審らかに問い直してみて、慎み深く慎重に考えて、明らかに弁別して、篤実に実行する」などのことは、すべて易の占筮と同じなのである。
つまり、易を立てるということは、自分ひとりでは疑いや迷いを払拭できない場合に、自分の心を神明にすること以外のなにものでもない。
易とは、天に判断を請うことである。
人は疑いを持ったとき、自分自身の判断力を信じられないから、易によって天に問いかけるのである。
人間の心は、変動してやまないが、天には作為やごまかしが入る余地がないからである。」

て言っているけど、これが一番「まっとう」な感覚と思う。

自分の判断を確かめ、磨くためのモノ・・


てな感じ。


東京五輪の世界からの「不信感・疑念・不満」は、日本のマスコミは封殺している。

下手に競技中に死人が出たら、一気に爆発しかねないと思う。

仮になんとか「閉幕」しても、会期中に問題が詰まっていると、いつ爆発して、日本が「犠牲の羊」にされるのは、必至。


戦争も止めれず・諫早湾干拓も止めれず・第二次東京五輪も止めれなかった・・帝政日本が「途中では止まれない」のは、「誰も責任を取らない」ていう「政治・国家」の構造にあるのは必至。

なんせ「天皇」が「敗戦の責任」を一切取らなかった。

戦後は「無責任で、庶民を殺して穴埋めか、下っ端に詰め腹を切らせる」でごまかしてきた。

で、この五輪もそれで誤魔化す算段だろうが、なんせ日本人が「詐欺王天皇」を信仰しているので、国内での解決はほぼ無理。

やはり、日本の好戦派を煽って戦争を仕掛けさせて、カウンターで首都壊滅の日本降伏天皇抹殺まで、もっていくしかないのかもしれない。

そんな意味で「東京五輪は、日本という国家の葬儀のはじめ」て思えて仕方ならない。


上手く纏めれ無くてすいません。






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