住職のいい話。 あるいは妄想に生きて死滅する日本人への弔辞。
より
上記文抜粋
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いま、あらためて仏教徒にもとめられること
(今年4月27日投稿分と同内容であることをお断りいたします)
混迷を深めるこの時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事跡に則り考えてみたい。
①世間の通説にとらわれず自ら考える
お釈迦様は、紀元前六世紀インド北部の小国釈迦国の王子として生を享け、出産時に母を亡くし継母に養育された。そんなこともあってか、幼少の頃からよく物思いにふける方であったと伝えられている。気がつくと木の下に佇み目を閉じて黙想ないし坐って瞑想されていた。中インドの大国コーサラ国の属国として釈迦族の置かれた現実を思い、自分の立場をわきまえつつ、生きるとは何か、なぜ苦しみ多き人生を人は生きねばならないか、どうあるべきかと、沈思瞑想に耽られたのではないか。
出家された時のいきさつを語る伝説に四門出遊という物語がある。ある日西の門から城を出て街を周遊すると老人に、また別の日に南の門から出ると病人に出会い、若さや健康への傲慢な心が消滅したという。また西の門から出ると死者の葬列に遭い、自分も死によって人生が突然終わることを知り、北の門から出たときには出家者に遭遇し、その清々しい姿に憧れ俗世間を捨てて苦からの解放を目指す道に歩むことを決意されたとする。そして、ヤショーダラー妃に子息が生まれ、跡取りができたことを確認して城を出て出家なされた。
私たちもお釈迦様が思索されたように、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きずらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、問い続けることが大切であろう。この一年コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。症状のない気道感染症とはいかなるものか。そもそも検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士がウイルス感染の判定に不向きとしたPCR法が使われるのか。PCR陽性者はなぜ感染者とされるのか。無症状感染者からの感染があるとして全世界でマスクを強要するなら、徳島大学大橋眞名誉教授が指摘されるように、なぜその実証実験の一つもなされないのか。色々と疑問に感じるであろう。そうした疑問を新聞テレビの報道を鵜呑みにして受け流してしまわずに、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を集める、思索するということが何よりも大切なのだと言えよう。
②祈りではなく真実を知る
そして、お釈迦様は、当時人々が神々の世界を信じ、神の意向によって人々の禍福が決定すると考えられ、ヴェーダ聖典に規定されたとおりに祭祀儀礼を間違わずに盛大に厳粛に勤めねばならないと考えられていた時代に、祈りではなく、この世の中の真実、真理を悟ることによって智慧を生じ、開悟された。ある経典によれば、深き禅定に入り初夜に自らの過去世を回想し、中夜に他者の業による転生を、後夜に苦を導く煩悩の生滅を如実に知見して解脱されたとする。
私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように消滅したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。今の世の中の恐怖や不安も、この事態に至る真相、真実を知ることによってしか解決されないであろう。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。
そのためにはこのパンデミックはいかなるものなのか、自然発生のものと言えるのか、米国の医学者ジュディ・マイコヴィッツ博士が指摘するような計画性はなかったのか、その目的は何か。なぜ安倍総理は昨年春にこの感染拡大こそ第三次世界大戦であると語ったのか。戦争とはそもそも何か。世界経済フォーラムが今年のアジェンダとするグレートリセットとは。すでにワクチン接種が進行しているが、その必要性や中身、副反応や死亡についての情報はほとんど開示されないのはなぜか。などと考えを進めていかねばならないだろう。多くの人がこのコロナ騒動の真実に気づくことなく、祈りだけで事態が収束することはないであろう。
③お釈迦様を人生の理想とする
悟りを得たお釈迦様は、この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考え、法を説くことを逡巡される。がその時、インドの最高神である梵天が現れ、「法が説かれなければこの世は破滅してしまう、汚れの少ない者もあります、尊師よ法を説かれよ」と懇請されて、お釈迦様が天眼により世の人々を改めて見渡してみると、確かに、蓮が水中で育ち、水の中にあって咲くもの、水面で咲くもの、水面の上に伸びて咲くものがあるように様々な生命があり、煩悩薄き者たちは説法により解脱に達することができるであろうと考え、法を説くことを決意なされた。
これを梵天勧請というが、つまりお釈迦様は、説法した人に最高の悟りを得て欲しいが故に法を説かれたのであり、それらの記録が経典である。その経典を読誦し思惟する私たち仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを最高の理想として生きる人々であると考えられよう。人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが願われていると言えようか。
仏教徒とはお釈迦様の悟りを最高の理想として生きる人のことである。そう思えるならば、何があっても、どんな時代になったとしても、目標を失うことなく生きることができる。体温を計られ、マスクをつけさせられ、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。さらに昨年7月に成立したスーパーシティ法が今後施行され、個人情報が断りなく情報統括機関に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。
しかし、そうして、たとえ自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代となっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。今生で解脱することがかなわないならば何度生まれ変わっても仏教と出会い、お釈迦様の教えを頼りに悟りを目指すことを生きる目標にすべきではないか。だからこそ私たちは故人に成仏を願い、法事でも何回忌の菩提のためにと供養をささげる。
④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す
お釈迦様は、生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方を対機説法という。法を説く相手に相応しい説き方をされた。農夫なら農夫の分かりやすいように、学者ならそれに相応しく、また楽器を演奏する人ならその楽器について説きながら理解が深まるように話をされた。それぞれの個性を重んじ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。つまり仏教はみな同じと捉えることなく、それぞれの人の考え、それぞれのやり方、生き方を尊重する立場といえる。仏教徒は、自らの考えをもち、生き方を持つものとして扱われ、誰々が言うからではなく、みんなそうしているからではなく、人と同じようにしていたら良いというのでなしに、自らの考え、他者の個性や意向を尊重する教えである。
すでに、検査を拒否したり、飲食店などの時短命令に服さないものには罰則を科すというところまで社会がいびつになってしまったが、より寛容な姿勢が望ましいのではないか。全くウイルス予防に効果がないとされるマスクが半強制のごとくにすでに社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。医療機関にもよるのだろうが、厚労省が自己の判断に任せるとしているのに、医療関係者でワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。他者の考え思いを慮ることのできない社会になりつつある。単一の価値観、思想しか認めないような、風紀がすでに漂う。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあるということを知らねばならないだろう。故に仏教徒ならば、そうならないよう他者の考えを認め合う寛容な社会を形成することを目指すべきであると考える。
⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる
最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と言い残された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに常に説いた不放逸という教えのことであるという。普段何かをしていても、そのことに心はなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し、未来を都合よく想像し妄想する。「今日の感染者数は・・・」、と毎日耳に入れていれば、怖い恐ろしい方向に妄想して自らを追い込んでしまうこともあるだろう。
いずれにせよ、今ここにない過去や未来に心を放逸に遊ばせるのはよくないこととされる。お釈迦様は常に、この瞬間にある現実の行為思考に正念正知であれと教えられている。自分が今の瞬間にしていることを、心の中で言葉で確認しつつ妄想を断ち切る事を心掛け、放逸な心の習慣を止めることが肝要である。仏教徒は、そうして常に冷静な心で生活することが求められている。もちろんそれはそんなに簡単なことではないが。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道からも解放され、周囲に惑わされることもなく、自らの考えをもち真実なるものを探求しつつ、これまで通りの生活様式を生きることができるだろう。
以上仏教徒として今という時代にいかにあるべきか、何を大切に生きたらよいのか、何がもとめられているのか述べてみた。もう一度まとめると、①世間の通説にとらわれず自ら考える②祈りではなく真実を知る③お釈迦様を人生の理想とする④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す⑤妄想の中に生きるのでなく、今の現実を生きる。これら五つのことを心において生きることで、付和雷同せずに、真実を見極め、自らの見方考え方を大切にして、精進の日々を過ごすことができるであろう。世界中の仏教徒が、お釈迦様の生きざまからこの五つの指針を受け取り、自覚しつつ生きることによって、人々が昨年から続くこのつくられたパンデミックから救済されることを念願するものである。仏教を信奉する者としてお釈迦様の事跡から導き出した指針ではあるが、他の信仰を持つ方々にも当然同様な教えが導き出されてもおかしくない、ともどもにこの時代に相応しい生き方によりこの時代の難局を乗り越えてまいりたいと思う。
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抜粋終わり
天皇という妄想に生きる。
それが明治以降の日本人である。
今はそれに「米英」がつけ足された。
学術は、戦前からの天皇のタブーに追加し、医療も731部隊のために、深刻なタブーと医療人つぶしが蔓延している。
仏道も、捨て去ったのが、明治以降の日本。
いや、儒学も捨てている。から、体罰が横行している。
体罰は、米軍が新兵に対して行った日常的な殺人訓練(洗脳)で人類の最大のタブーを克服したことと、まったく同じ意味と効果を持っていたのです。
それなら日の丸君が代の強制や憲法9条改正、『日本軍は悪くなかった』と主張する石原慎太郎など右翼が全員例外なく体罰肯定なのは偶然の一致ではない。
憲法9条敵視と体罰の間には密接すぎる相関性があり、『体罰大好き』発言の橋下徹や義家弘介、石原慎太郎など右翼の理論的帰着である。
日本的な右翼思想と体罰の親和性は、何の不思議も無く当然だったのである。
教員など公務員イジメが大好きな橋下徹ですが、これも同じ理由で自分がいじめる対象から報復されないから行えるのです。
幾らいじめても公務員が少しも抵抗しないから好き放題、やり放題となるのは必然である。
日本も先進国並みの公務員のスト権など基本的権利を認めれば、この問題は簡単に解決する。
簑島高校の尾藤公監督は、大切に育てた農作物が自分の思いどうりに育たないからと踏みつけたりする農家は一人もいないと、体罰の不当性を説明していますが至言ですね。
全くその通りです。
そもそも日本の教育は君子の学問である儒教の影響があったので体罰は無かった。
日本の教育が体罰で汚されるのは明治以降の軍国主義の影響であることは間違いないでしょう。
敗戦以後は随分と体罰は少なくなったが、今でもスポーツ界では横行しているのですが、これは安易な勝利至上主義であるとか、指導者の能力不足が大きく影響している。
大学山岳部のシゴキによる死者までが出る戦後とは違い、
アルピニズムは貴族のスポーツなので敗戦までは逆に旧制大学では他のスポーツとは違い山岳部だけは体罰が無かった。
儒学を捨て、人倫も捨てて、体罰で、日本人を家畜にする。
仏道を捨て、正気も捨てて、妄想に行きて死滅する。
そもそも神道は、儒学・仏道で、ようやくまともな形になっていたのに、それを捨てて、キリスト教それもそれのカルトのカトリック・新教をベースに天皇真理教に替える。
"江戸末期以降の神道系宗教の名前を見るとキリスト教系と区別できないことがある。
『古事記』では神道を「本教」等と表現。
偽国学者でクリスチャンな平田篤胤の『本教外篇』は本教=和風キリスト教にしたもので、
国家神道=天皇一神教や大本教という和風キリスト教の手本。"
"国学はキリスト教の隠れ蓑。
平田篤胤(✝。『本教外篇』で本教=和風キリスト教)
→大国隆正(平田篤胤門下。本教本学を提唱)。
→福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)、
玉松操(岩倉具視の腹心。大国隆正門下)。
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇。"
”天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教という意味での神道は捏造。
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教は仏教(創造神否定)。
なので明治天皇以前の天皇は伊勢神宮(反逆者の宗教施設)を参拝しない。
土着の信仰を隠れ蓑→革命→宗教と王をすげ替え→伝統を捏造。”
”「神道」も「天皇」も道教用語であり神道用語ではないです。神社なんて単なる地方土着の祭壇で天皇に影響力なし。
#日ユ同祖論 も聖書が根拠のキリスト教に見えないキリスト教思想。仏教徒の天皇を否定し、神道とキリスト教の関係を隠す為に紐付き陰謀論者✝が布教。”
”神道に教義や教典がないとしたのは、単なる土着の信仰だったのでそもそもそんなものがなかったのを隠す為。超古代や明治以降を強調し仏教国教時代を無視。神仏習合は神と仏が対等だと思わせるデマ。本地垂迹説は寺が土着の信仰を管理支配する為。神宮「寺」や別当「寺」。”
”18世紀初頭、四史攸編(聖書中国語訳でGOD=神が初登場)
1806年、本教外篇(平田篤胤。本教=和風耶蘇教=神道)
1813年、新遺詔書(GOD=神と訳す)
神を伝統だと強調する朝鮮・欧米支配の神道勢力。”
"knznymmmy@knznymmmy
ボットでも流してるけどさ
神道の教えでは日曜日の神様は
アマテラスオオミカミなんだよ
これは日ユ同祖論ネタになるけど
ユダヤ教の聖日は土曜日
だけどアマテラスっていう大事な神様が
日曜日の神様なら、、、、
まるでキリスト教じゃんwww"
つまり、実際の「武士がいなくなって」から生まれた『武士道』は、「失われた日本固有の精神」を蘇らせようとしたものであり、「日本民族の道徳、国民道徳」(「忠君愛国道徳」!)を形成しようとして「武士」に仮託されたものであり、実際の武士の存在形態や価値意識とは、まったく異なるということだ。(リンク)
偽伝統を捏造した勢力=今の支配層の先祖は、主流にはなれず、衰退したものばかり。
なので、大したことないのに特別な存在だとか重要だとか学校で洗脳して、テストで洗脳されているかをチェックします。
主流派だった国教の仏教、仏教徒の天皇、仏教徒の藤原氏、天台宗、
本地垂迹説(神の正体は仏。神の実体を否定)など
を無視して、
✝神道、神社、真言宗、現人神などを強調したりします。
本地垂迹説は神の正体は仏とするので、現人神に実体なしだから仏教国教時代なら不敬表現ですよ。
まあ、普通に、外道鬼畜のシマになりますは。
天皇と言うカルトを信じて、亡くなって滅びゆく、日本人への弔辞かもしれない。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す