よく知る・・・てのは、難しいけど、刺激的で楽しい・・・

より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:「総合知」が重要な陰謀追及(陰謀研究、国際秘密力研究)と「道」を探求する古来の伝統的学問の共通性

〇久しぶりに自己紹介文を更新しました。よろしくお願いします。
「日本及び日本人の立場からの国際秘密力研究(特定の外国や宗教の立場の言説が多過ぎるので日本人としての主体的な陰謀追及を目指すという意)。日本及び東洋の先哲に学ぶ。戦前陰謀研究の継承と発展。純正愛国者=独立的思考者と定義し、そうあらんと努力したい。陰謀追及とは真実探求の道。「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ。」

〇付加した文の解説。「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」。「古来の学問」とは江戸時代までの学問を指す。儒学・国学・仏学・老荘学その他諸々。荻生徂徠は「道」を「統名」とした。統名とは学問探求の対象の総体を呼ぶ名称という程の意味と解釈。つまり「真実」の総称とも解釈出来る。

〇「陰謀追及とは真実探求の道」。様々な重要事実を調べ分析し世の中のあるべき方向性をも考察する陰謀追及は真実探求の道だという意味。真実=道とすると古来の学問にも通ずると考えた。古来の伝統的学問では「道」は探求すべき真理の名称であると同時に、探求の過程自体をも指す名称として使われた。

〇「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」と書いた事に対し、「真実を探求するのは近代的学術も同じではないか?」と思う人もいるかもしれない。確かに近代的学術も事実や法則を探求するという点では真実探求の営みだが、いかんせん細分化しているので、トータルな認識に乏しい傾向がある。

〇陰謀追及では個々の事物事象の解明も大切だが、世界の権力構造など物事の全体像を把握する総合知が非常に重要になる。そういう意味で陰謀追及は、蛸壺的に細分化した近代的学術よりも、「道」という「統名」で物事の全体や根本を認識・体得しようとした古来の伝統的学問に性質が近いと考えるのである。

〇個々の分野では一流の専門家が大勢いるのに日本がこの状態なのは、物事の全体像や構造を把握する総合知が普及していないからだと思う。例えば、特定の分野に精通する専門家が惑沈を頻回接種してボロボロになったり、逆に惑沈問題に精通している研究者が特定の勢力(参政党など)に取り込まれたりする。

〇よくない言い方だが「専門馬〇」という言葉がある。これは特定分野には精通していても総合的な思考・判断力に欠ける所がある状態を指すと考える。その点、総合的な思考・判断力を磨く事を重視するのが、昔の「道の学問」だと考える。その点が全体の構図理解が重要な陰謀追及に通じると思うのである。

〇荻生徂徠の定義によれば「道」とは「統名」。統名とは様々な要素を包括する全体を表す名称。したがって「道」の認識は物事をトータルに把握する「総合知」という事になる。陰謀追及では世界の全体像や構造を把握する総合知が重要なので、昔の日本で学ばれていた道の学問をそれに比定した次第である。

〇江戸時代の学問は「事又は気(事実・現象)」と「理(道理・法則)」という枠組みで物事を考察した。これが当時の知の枠組み、今風な表現で「パラダイム」である。その中で「事」を重視する学派(古学・国学など)と「理」を重視する学派(朱子学)があった。そのいずれもが「道」という統名を用いた。

〇江戸時代の学問は総じて「事実(事・気)」と「道理(理)」という2つの基準に沿って物事を考える思考方法を持っていたと見る。この思考方法は物事をシンプルに整理して明晰化するのに役立つと思う。それら事理の総体(事実と道理の全て)に付けられたのが「道」という統名だったのだろうと考察する。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/1741536464134115329


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抜粋終わり

個々の分野では一流の専門家が大勢いるのに日本がこの状態なのは、物事の全体像や構造を把握する総合知が普及していないからだと思う。例えば、特定の分野に精通する専門家が惑沈を頻回接種してボロボロになったり、逆に惑沈問題に精通している研究者が特定の勢力(参政党など)に取り込まれたりする。

同感。

悲しい・・・

私の考えでは

1・天皇による日本人家畜化

2・職人文化と通俗道徳による「自分自身の道具化」~良くも悪くも{生涯一捕手 ていった野村克也氏}などその例かな・・・・・・・。

なんか愛が足りないのだよ・・・自分や世界に・・・



より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:陰謀追及の方法論について;組織化された集団行動に潜む危険・全国津々浦々に独立的思考者の抵抗線を構築するという戦略・国語による独立的思考の重要性


〇初めまして。自分なりに考えた解決策を記事に書きました。「両建の認識の浸透」です。また、ヘーゲルは私の論理ではなく裏権力側の論理です。それを客観的・対象的に分析し批判しているのです。昔の日本人がキリシタンを分析・批判した事を南蛮被れと言う様なもので暴論過ぎ。
「初めまして。さて、あなたはいつものように両建論を展開しています。もしそのように裏でグルだとして、あなたはどんな解決策をお持ちでしょうか?私からすれば、ヘーゲルを持ち出している時点で西洋かぶれの域を出ていないかなと思います。」
※カッコ内は質問者の発言。以下同様。

〇ここも公共の場なので表です。ネットと現実情勢を二元論的に峻別するのは道理に合わないと思います。良くも悪くもネットの情報や言説が現実情勢に影響を与え、逆に政争や戦争などの現実情勢がネット上の論争や情報戦を惹起します。答えるまでもない質問と思われたのでしょう。
「もう一つ質問です。あなたは表では活動しないのでしょうか?ネットの中だけでで吠えていても何も変わりません。ちなみに、あなたの「盟友」であるよーすけさんに同じ質問をしましたが、彼は何も答えませんでした(笑)」

〇陰謀追及では裏権力の思想分析も重要である。その為には「敵」に内在する論理に分け入って、その正体を暴く必要がある。それは「敵」の思想・論理に「被れる」事とは違う。あくまで対象を客観的に観察・分析する事だからである。敵の思想論理に取り込まれ、己の論理にしてしまう事を「被れる」と言う。

〇確かに思想分析は「ミイラ取りがミイラになる」ように分析対象の思想に影響を受け、その論理に取り込まれる危険を伴う。故に取り込まれないだけの耐性が必要である。耐性を身に付けるには自分の中で物事を判断する際の基準を確立しておく事が重要であると思う。個人的には事実と道理を判断基準とする。

〇「敵の思想論理に取り込まれ、己の論理にしてしまう事」の例としては、「猶太批判をしている内にいつの間にか日猶同祖論者になり猶太を選民視するようになる」「NWO批判をしながら『良いNWOもある』と言ってワンワールドを肯定するようになる」といった事が挙げられる。裏権力の援兵になる現象である。

〇「ネットで吠えていても何も変わらない」と言うが、ネットの情報を見ているのはあくまで生身の人間なので、ネット言論は現実情勢への影響はあると思う。だからこそ裏権力側は膨大なコストや人員、AIまで動員してネット言論の締め付けをしているのではないか。ネット言論に力が無いなら放っておくはず。

〇街頭で声を上げる事なども意味があると思うが、そうした行動を主宰する団体・集団・グループは紐が付いている事が多いと思うので、十分な注意が必要である。容易に特定の団体に関り個人情報を取られないようにすべきである。ソロス一味はそうした「制御された反対派」の集団行動を組織するプロである。

〇個人的には集団行動に参加する事よりも純度の高い独立的思考者を増やす事の方が重要だと考えている。自分で物を考え、騙される事のない独立的思考者がいる場所は思想侵略や情報工作が無効化する領域。全国津々浦々にそうした純度の高い独立的思考者がいる事は、日本の最後の抵抗線になると考えている。

〇追及者は団体を作る事にも慎重であるべきと思う。どんなによい目的・考えのもとに集まっても、その団体が目立つようになると、裏権力側が工作員を送り込み、破壊又は乗っ取りを仕掛けてくる可能性が高い。彼らはその手の破壊工作のプロ。素人は太刀打ち出来ない。そういう領域で戦うのは得策ではない。

〇団体は中枢が潰されたら終わりである。素人が団体を作って裏権力に対抗するのは、少数ゲリラが正規軍に野戦を挑むようなものだと思う。その点、どこまでも個である所の純度の高い独立的思考者が全国至る所にいるという状況は(裏権力にとって)厄介なはずである。「中枢」が無い為、潰しようがない。

〇裏権力の本体は「思想」であるという考え方がある。これはその通りであると思う。逆に追及者にとっても、陰謀追及の鍵は「物の考え方」だと言えるのではないか。「両建」という捉え方にしろ、事象を捉える・分析する枠組み・観点が普及する事で、裏権力側が謀略をやりにくくなる状況が作れると考える。

〇それは見解の相違ですね。大東社系左翼など旧来型の政治運動論に固執する人々はその見方に賛同すると思います。しかし、もはやネットと現実情勢を峻別する前提自体が私には時代錯誤のように思えます。現状、政治闘争の主戦場は街頭よりネット空間に移ったと見る事も可能です。
「先の引用RTで述べたことに補足。日本における親パレスチナデモの主催者は到底支持できる連中ではありませんが、それでも外に出て行動している点ではるかにましです。いくら素晴らしいことを言っていてもネットに引きこもってる時点で、「…」となるかな、と。」

〇あなたはあなたの信じる道を行かれたら良いと思います。私はネットで発言するも街頭で活動するも、個々人の自由であり、どちらが「正しい」「価値が上だ」とは思っておりません。ただし、デモ活動等に参加する際には主催団体の背後関係に十分ご注意下さい。
「ご返信有難うございます。この部分ですね。ただ、この程度の認識は私も持ち合わせています。いずれにしても、私はあなた方のようなネットでしか吠えることのできない人間よりも現実世界で行動を起こす人を支持…いや、私自身も何か行動を起こさなければと考えています。」

〇抵抗線という言葉で決して特定の団体に組織化されない独立的思考者が全国津々浦々にいて、それぞれがそれぞれの場で独自の考えに基づき発言したり行動したりする状況をイメージした。身近な人を説得するだけでも立派な行動。誰かの独立的思考の一助になればと思い、自分なりの情報発信をしていくのみ。

〇いつも「自分で考える事が大事」という結論になるが、表現自体は月並みでも非常に大事な事だと思う。「自分で考える」は「自分のいいように恣意的に考える」事でないのは言うまでもない。独立的思考とは何らかの説得的な基準に基いて思考する事だと考える。個人的には「事実」と「道理」を基準とする。

〇「基準」は自分の思考自体とは異なる。基準に則って思考するが、思考自体が「基準」である訳ではない。事実と道理を基準として思考する場合は、その思考が事実や道理そのものなのではない。もしそう考えるなら単なる独善である。少しでも事実や道理に則って思考しようとする姿勢が重要なのだと考える。

〇江戸時代の学問は生き方の真実を「道」として立て、その「道」の探求を最大の目的とした。そうした学問では、思考の基準としての事実や道理を「道」と呼ぶかもしれない。「道」という基準を立てる事で、先人達の独立的思考は独善を免れたと言える。陰謀追及が真実探求の道ならば同様の事が言えよう。

〇特定の対象の思想の論理を分析するには、その対象に内在する思想・論理に即して考察する事が重要だと考える。裏権力(国際秘密力)の思想・教義は日本や東洋の文化圏とは異なる所に淵源があるので、こちらの文化圏の枠組みを当てはめるだけでは不十分である。それどころか実態を誤認する危険性が高い。

〇例えば、東洋の伝統的な政治哲学でいう「王道・覇道」(王覇の別)という概念を用いて、「西洋文明は覇道だ」と言ってみた所で十分な分析とはならないであろう。覇道的な権力者は日本や東洋にもいた訳であるから、「覇道」と言うだけでは地中海オリエント世界に淵源する裏権力の特質を分析出来ない。

〇「東洋王道と西洋覇道の対決」を主張した孫文は基督教徒で、一説ではフリーメイソン又はブナイ・ブリスの会員だったとされる。ブナイ・ブリスは猶太人しか入れない石屋的結社だが、もし事実なら何故孫文が入会出来たのか謎。日本でも単純な東西対抗史観に立つ思想家は裏権力側の援兵が多かったと見る。

〇再度質問ありがとうございます。どうやら私の書き込みは海外の方にも読まれているようで、英語で返信が来たりフォローされたりもします。英語以外にも以前はサウジの人からアラビア語で返信が来て驚きました。翻訳機のお陰か、日本語発信でも自然と海外の方と交流が生じます。
「あと一つお伺いします。せっかくツイッター(Xとは言わない)をやっておられるなら、海外の有志とは連携するおつもりはないのでしょうか?これこそネットの強みだと思いますが。なお、可視化する目的があるので通常の形式はとらずにこのような形でリプライをさせて頂いております。」

〇「独立的思考」とよく書いているが、独立的思考は「孤立的思考」ではない。他の如何なる事物事象とも無関係な「思考」は成り立たない。思考には必ず思考に「対象」があり、他者との対話・会話の中で刺激やヒントを得て思考が磨かれたりする。特に思考と言語は不可分の関係にある。特に国語との関係。

〇人間の思考は言語と密接不可分である。特に国語。生まれてこの方慣れ親しみ、最も身に染み付いた母国語による思考こそが独立的思考の基本になると考える。他の言語を使用する場合にも、最終的に考えをまとめる際には、国語でしっかりと思考する事が重要だと思う。独立的思考は国語の体系と密接不可分。

〇「大和魂」「大和心」などという言葉は「熱狂的な愛国精神」というイメージがあるが、この語に関してそういうイメージが強まったのは江戸後期の平田篤胤以降である。元々は知識・学問に対比される「生活上の知恵」「実践知」というニュアンスの語だった。国語による独立的思考とそれ程意味が遠くない。

〇平安時代には「大和魂」という言葉は「漢才(からざえ、かんさい)」の対概念として用いられていたようだ。当時の最新の知識・学問は大陸から渡って来たので「漢才」と呼ばれた。それに対して、常識や実践知、知識・学問を使いこなす知恵を「大和魂」と呼んだ。近代以降とは大分違う意味合いである。

〇知識・学問に対比する知恵の名称に「大和」という地域の固有性を表す冠が付いているのは、「思考」には必ず使用する個別の言語が影響するという直感が働いたからではあるまいか。勿論単なる想像に過ぎないが。平安時代の「大和魂」は「やまと言葉による思考」と言い換えても当たらずも遠からずと思う。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1731298060268196283


(了)


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抜粋終わり

なんつか・・先日載せた記事の中の動画



で何となく思っていたが・・

「ネットで吠えていても何も変わらない」と言うが、ネットの情報を見ているのはあくまで生身の人間なので、ネット言論は現実情勢への影響はあると思う。だからこそ裏権力側は膨大なコストや人員、AIまで動員してネット言論の締め付けをしているのではないか。ネット言論に力が無いなら放っておくはず。

抵抗線という言葉で決して特定の団体に組織化されない独立的思考者が全国津々浦々にいて、それぞれがそれぞれの場で独自の考えに基づき発言したり行動したりする状況をイメージした。身近な人を説得するだけでも立派な行動。誰かの独立的思考の一助になればと思い、自分なりの情報発信をしていくのみ。

私も、私など蟷螂の斧ながら、今のブログを真摯に続けていくのが、非力ながらできる「社会貢献」だと思う。

出来る人が、出来る範囲で、出来るだけの事を、尽くす。

それを「真心を尽くす」ってことになると思う。

より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:世界統一支配という「多様性の消滅」の為に「多様性」という言葉を広める裏権力 「言葉の魔術」を打ち破る道とは

〇裏権力は「多様性」なる言葉を広めているが、彼らが嫌うのは「国家の多様性」。多数の国家が併存する状況を終わらせ、「世界単一政府」によって一元支配する事を狙う。逆説的だが、「多様性」を消滅させる為に「多様性」なる言葉を広めていると見る事が出来る。世界統一支配とは多様性の消滅である。

〇裏権力は世界統一の妨げになる「国家の多様性」と「言論の多様性」を特に忌み嫌う。彼らは目下これらの破壊に注力している。国の主権を自称国際機関に移譲(破壊)させる事と言論空間を締め付けて自由な言論を封殺する事に血眼になっている。SDGs・P条約・IHR改定・改憲等は全てそこに収斂する企み。

〇裏権力が「国家の多様性を破壊する」と言っても、現にある日本政府などの各国政府機構を文字通り解体しようとしているのではないだろう。それよりは各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようとしていると見るのが現実的である。既に各国政府の中枢には裏権力走狗が入り込んでいるので、実質的には主要各国の政府は裏権力の支配下にあると言えるが、制度的に完全な裏権力支配が阻まれている場合がある。日本だと現行憲法がある限り全国民への惑沈強制接種や本格的な戦闘を伴う海外出兵は難しい。前述の「改変」とはこうした裏権力支配にとっての制度的障害を取り除く事を意味する。

〇近代憲法の本質的機能は「政府権力を縛る事」である。緊急事態条項は「政府権力への縛り」を一時的に解除する条項である。それが発動すると、「惑沈の強制接種(同調圧力による実質的強制ではなく権力による強制)」「接種拒否者の逮捕・投獄」など今の憲法秩序下では考えにくい事が起こり得るだろう。

〇憲法問題は思想やイデオロギーとして論じられる事が多い。改憲派=右・護憲派=左や、もう少し高度になると、「人権概念は天賦人権という基督教の産物」「国民主権・国家主権なる概念は西欧近代の産物」などという指摘もあり得るであろう。それは分かるが、個人的には主に制度論として論じたいと思う。

〇というのは、どんな思想やイデオロギーを持っていても、現に我々日本国民は近代憲法が規定する制度の中で生きている事実状態に変わりはないからである。その現実の中で如何に裏権力の横暴から身を守るかを現実問題として考えたいのである。「人権思想とは何か」などという思想問題はそれはそれで重要だが、今は「日本国民への惑沈強制接種や日本人が裏権力によって戦争の手駒にされるのを如何に防ぐか」という喫緊の現実問題として考えたい。例えば、近代民法の源流はナポレオン法典だが、民事紛争に巻き込まれた場合には「ナポレオン主義者」でなくても現行の民法を活用せざるを得ないのと同じである。

〇「各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようと(する)」企みが目下実行に移されている。改憲・日本版CDC創設など政府機構の改変以外にもCDCやNATOの日本事務所開設等が相関連する企みである。要は政府を名ばかりの「日本政府」とし、実質的に「世界政府日本支部」化するのが狙い。

〇「多様性」は魔語。魔語=マジックワード。マジックワードとは説得や宣伝に効果を持つ言葉。「多様性」と言うと、何かよさげで、抗しがたい語感を生じる。それが狙いと見る。額面通りに受け取らず、流布者が言葉の背後に込めた意図を推察すべき。世に流布される耳障りの良い言葉ほど注意が必要である。

〇「各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようとしている」と書いたが、最近裏権力走狗がよく使う「〇X(〇トランスフォーメーション)」(DX・GXなど)という表現はまさにそれを暗示する。X=トランスフォーメーション=改変。これもまた「魔語=マジックワード」の類と言えよう。

〇「「多様性」は魔語」と書いたが、これは当然「裏権力及びその走狗が宣伝の意図を以て使用する場合は」という意味である。この語自体はニュートラルなもの。魔語か否かは使う者の意図や文脈などで決まる。これもまた言語の主客連関態である。言葉の意味やニュアンスは様々な条件によって異なってくる。

〇裏権力走狗らがDXだのGXだのと喧しいが、その真の狙いは各国の制度を「世界統一支配体制」仕様に改変する事だと見る。謂わば「OX(ワンワールド・トランスフォーメーション)」である。「OX」は殆ど「マルバツ」にしか見えない。裏権力はマルバツ式の如き二元論で人々を両建に囲い込み、手駒とする。

〇ある一つの単語は単独ではなく文脈や使用者の意図などが込みの「体系」として機能するので、単なる辞書的な意味を額面通りに受け取るのは危うい。例えば、裏権力及びその走狗が多用する「自由」という単語は、文字通り人々を自由にするという意味ではなくて、権力奪取の為の魔語として機能している。

〇「自由」という言葉は江戸時代くらいまでは「好き勝手」というニュアンスが強く、あまり良いイメージの言葉ではなかったようである。だが、現代では良いイメージが強いので、そうした一般の語感を利用して「自由」という言葉を多用する事で、世の中を裏権力に都合の良い方向に動かそうとする訳である。

〇多様性は本来、人・土地・自然・歴史・風土などの結び付き(空間・時間に渡る関係構造)によって成り立つものだと思う。故に地球全体は元から多様である。それに対して裏権力の言う「多様性」とは、人々を祖国の土地から引き離して別の土地に移動させて流民の坩堝と化する事、即ちワンワールドを指す。

〇裏権力の言う多様性は多人数を一緒くたにしてタコ部屋に入れる事に喩える事が出来る。棲み分けない事には「和」というのは中々難しい。「鎖国」時代の日本は対外戦争をしないという意味で平和だった。混ぜこぜにするからこそ起こる衝突や不和もあるであろう。独仏など移民大国は大抵どこも荒れている。

〇「国家主権(特に保健行政)の多様性の根絶」を目指すパンデミック条約は裏権力の思惑通りには事が運んでいない模様である。このまま頓挫すべし。裏権力の「力」は必ずしも絶対的ではない。個々人が屈さずにたゆまず発言を続ける事が世界統一支配計略の打破に繋がると考える。https://jp.reuters.com/world/EGRRGJ4M4RMUZAY3YKHAETDUZ4-2024-01-23/

〇テドロスは「新条約締結とIHR改定を実現できなければ、機会が失われ将来の世代はわれわれを許さないかもしれない」と発言。お為ごかし。お為ごかしとは「表面は人の為にするように見せかけて実は自分(達)の利益を図る事」を言う。P条約・IHR改定=パンデミック対策を口実としたWHOの世界政府化。

〇裏権力は美辞麗句やスローガンを言葉の本来の意味とは逆の意味で使う。例えば「自由を強調しながら言論の自由を抑圧する」「多様性を掲げながら画一化を進める」「民主主義を名乗りながら話し合いや議論を封殺する」「法の支配が大切と言いながら最高法規を停止させる緊急事態条項の創設を狙う」など。

〇裏権力及びその走狗は人々を騙す為に歯の浮くような偽善的な言葉を弄するが、単に偽善的な表現を使うというだけでなく、言葉の本来の意味とは違う意味を込めたり、全く逆の意味で用いたりする事が多いので厄介だ。その事を認識せずに彼らの言葉を額面通りに受け取ると、言葉の魔術に簡単に幻惑される。

〇「自由・民主主義・法の支配」を掲げる権力者は大体逆の志向を持っていると見る。つまり、個々人の自由(特に言論の自由)を軽視し、話し合いや議論を嫌い、出来る限りルールに拘束されずに権力行使する事を好む。「自由・民主主義・法の支配」を掲げる裏権力走狗の本音は言葉とは逆の所にあると見る。

〇裏権力が使う言葉は他の言葉で補足すればその真の意味が浮かび上がる場合も多い。国際金融資本が言う「自由」は「富を独占する自由」、フリーメイソンが言う「友愛」は「結社員同士の友愛」、ネオコンが言う「法の支配」は「恣意的な法の支配」や「無法者の支配(ネオナチ、テロリストが手先)」など。

〇裏権力走狗は、言論の自由を軽視しながら「自由」を騙り、話し合いや議論を軽視しながら「民主主義」を騙り、ルールを軽視して恣意的な権力行使を好むのに「法の支配」を騙る。何故そうするかと言えば、世の中でそれらの語が肯定的な語感を持っているため、それらの語を使えば人を騙し易いからだろう。

〇裏権力及びその走狗の言葉の使い方には異様な違和感を覚える。違和感を大事にしたい。違和感を押し殺して無理に納得しようとしたりせず、自分が感じる違和感を元に批判的思考を働かせ、事象の分析・考察を行ない、違和感の正体を見極める。そうすれば裏権力の言葉の魔術のカラクリが明らかになるはず。

〇言葉は文化・文明の基礎である故に、言葉に介入する事は人間社会の支配に直結する。人間の思考は言語で為されるので、言葉をいじると思考を操る事も出来る。これが裏権力が「言葉の魔術」を多用する動機であると分析する。彼らが使う「魔語」を額面通りに受け取り無批判に使用すると、思考が操られる。

〇人間は言葉で思考するので実態よりも名称に引っ張られ易い。この弱点を突くのが「名付けの魔術」である。例えば、ある対象に肯定的な語感の名称を付ける事で、その対象の実態がどうであれ良い印象を植え付ける事を狙う。ネオナチやテロリストを「自由の戦士」と呼び人々の支持を集める手口などがある。

〇ネオコンは「使える」と見なした手駒であれば、どんな無法者や過激派でも「自由の戦士」「自由と民主主義の闘士」などと印象付けて人々の支持を集めさせる手口をよく使う。これなども「自由」「民主主義」といった旧西側諸国で肯定的なイメージで受け取られる言葉を使った「名付けの魔術」だと言える。

〇名称が実態に合うか吟味する事が重要。古代の儒家に「正名」という思想がある。事物の実態に適合する正しい名称を使う事が世の乱れを正す元になるという考え方である。物事の道理や筋道を表す「道」という語は「道う(言う)」とも読める。言葉を適切に使う事が「言葉の魔術」を破る鍵になると思う。

〇以前読んだ小林秀雄氏の本で「言辞の道」という言葉が頻用されていたと記憶する。これは本居宣長の歌論書「排蘆小船」に出てくる言葉だが、この表現自体が印象に残った。「言辞」は言葉。言辞の道=言葉の道。言葉の道は思考の道。やはり筋道に沿って言葉を適切に使う事が言葉の魔術を破る道だと思う。

〇政治的詐欺師の常套句「自由・平等・博愛(友愛)」「自由・民主主義・法の支配」など。これらの表面的な言葉に引っ張られる事無く、それらの名称が付けられる対象の実質実態を知る事が重要である。実質実態を知れば、それに相応しい名称を付ける。これが「正名」である。これが世を正す基本になる。

〇同じく常套句「多様性」。裏権力走狗が言う「多様性」は、たくさんの文化を尊重する事ではなく、様々な文化的背景を持つ人々を一か所に集めて混合する事にあると見る。特定の文化圏に移民を大量に入れ、当該文化圏に譲歩を迫りその特性を削ぎ落す。その為のスローガンとして唱えられるのが「多様性」。

〇ミックスジュースは多様な食材を混ぜて作られるが、ジュースが一旦出来てしまえば、多様な食材を元の状態に戻す事は出来ない。裏権力及びその走狗が「多様性」という言葉の魔術で狙っているのはこういう事態であろう。多様性が失せたワンワールドを狙う連中が「多様性」を唱える論理矛盾に気付くべき。

〇ハイエクは社会主義者が「自由」という言葉を使う事で知識階級の支持を集めたという趣旨の事を書いているが、これはハイエクを持ち上げる主義者(ネオリベやネオコン)も使っている手口である。「自由」は政治的詐術者が最も多用する常套句と言える。言葉が貼られた対象の実質実態の吟味が肝要である。

〇先述の「言辞の道」は原文では「和歌は言辞の道也」とあり、和歌の制作上で言語表現を工夫する事の重要性を述べた言葉である。そこに文芸評論家の小林秀雄が人生の上で経験される堪え難い心の動揺を直視し言語化する事で己の「所有」と化し生きる道..という人生論を射程に収めた意味合いを読み込んだ。

〇いずれにしても「言辞の道」は日本の古典文芸に於ける言語表現の重要性を示す言葉である。しかし、言語表現の重要性は文学に限らない。政治や社会を含む森羅万象を論じる上で言語表現が重要である。何故なら人間は言葉で物事を認識する故に言語表現が適切でないと認識自体を誤る危険があるからである。

〇陰謀追及に於いても言語表現を含む言語の考察が非常に重要である。これを言わんが為に「言辞の道」という表現を引用した。陰謀分析で言語の考察が重要なのは、裏権力が「言葉の魔術」「言語魔術」を駆使するからである。彼らは言葉の魔術で人々の認識を混乱・錯誤に導く事によって社会を操ろうとする。

〇言葉の魔術が裏権力の支配術の中核である以上、それを打ち破る事は裏権力の陰謀そのものを打ち砕く事に繋がると考える。その為の工夫や営為を追及者の言辞の道あるいは言語の道・言葉の道と呼ぶ事も出来るであろう。やはり国語による批判的思考という一筋の道を行くのが言語魔術を破る正攻法だと思う。

〇「人間は言葉で物事を認識する故に言語表現が適切でないと認識自体を誤る危険」と書いたが、かかる事態を意図的に引き起こすのが裏権力の言葉の魔術である。例えば「陰謀論」なる言葉に込められた意味や意図を深く考えないなど言語表現に注意を向けず言葉を雑に扱う人は言葉の魔術に簡単に引っ掛かる。

〇正名は「名付けの魔術」による認識の混乱や錯誤を正す事が目的であって、認識を誤らない範囲ならその言語表現には幅があって然るべきである。言語表現の豊かさは文化の豊かさに通じる。特定の言語表現を絶対視して言葉狩りをするような態度は思考が硬直しており、言葉の魔術に対してむしろ脆弱である。

〇「正名」は「事物に一対一で対応する唯一絶対の正しい名称を付ける」というような実体論的あるいは道徳規範的なものではなく、事物の実質実態に合う名称を使う事で事物に対する我々の認識を大きく誤らせないようにする事が目的である。明らかな認識の誤りに導かない限りは、どんな名称を使うかは自由。

〇言葉は単に辞書的な定義だけでなく、文脈や使い方でニュアンスが変わってくる点にも注意が必要だろう。その場合、辞書的な意味で受け取ると一見適切に見えるが、文脈や使い方で独特のニュアンスが施されている場合がある。例えば、「陰謀論」は「陰謀を論じる」という一見価値中立的にも見える表現だが、実際には、侮辱的・侮蔑的なニュアンスが含まれている。それはこの言葉が特定の言説を貶める文脈で使用されてきたからである。「反ワク」というのも同様。「惑沈に反対する人」という客観的な描写に見えるが、実際には惑沈に疑問を持ったり批判したりする人を差別し侮辱するニュアンスが含まれている。

〇故に「正名」は辞書的に正しい名称を適用すればよいというものでもなく、文脈をも考慮しつつ認識を誤らせない表現を使う必要がある。これが「特定の言語表現を絶対視して言葉狩りをするような態度は言葉の魔術に対してむしろ脆弱」と述べた理由。「正名」の実践には臨機応変な言語表現力が必要である。
〇和歌に於ける「言辞の道」は「心におもふことを、ほどよく言いつづくる道也」で「よき歌をよまむとおもはば、第一に詞をえらび、優美の辞を以て、うるはしくつづけなすべし」というものだが、陰謀追及に於ける謂わば「言辞の道」(言語表現の道)は、事実に即して極力正確に述べる事が重要だと思う。
〇和歌のような古典文学だとよく詞(言葉)を選んで優美な言語表現を以て心に思う事を程よく言い表す事を重視するのに対し、「陰謀」を含む社会的事象を論ずる場合には極力正確に言語表現する事が重視されるという違いある。しかし、事柄の性質に応じて適切な言語表現を選ぶという点は共通すると言える。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1754170548987568350


(了)


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抜粋終わり

ミックスジュースは多様な食材を混ぜて作られるが、ジュースが一旦出来てしまえば、多様な食材を元の状態に戻す事は出来ない。裏権力及びその走狗が「多様性」という言葉の魔術で狙っているのはこういう事態であろう。多様性が失せたワンワールドを狙う連中が「多様性」を唱える論理矛盾に気付くべき。

多様性と言いながら、個々人の個性や、文化の差や個性を輝かせようとしない・・・

ハーモニーが無い・・なんつうか、「みんなすり潰して灰色にして良し」って「多様性」ではない。

「帝網重々」の個々が輝くシャンデリアではない。


日本は「天皇」の名の下ブロドーザーで踏みつぶされて画一化されている面もある。もっと進むと、アメリカの「ショッピングピングモールと教会だけの荒野」のように日本はなってしまうだろうし、売国奴の天皇はそれを目指している・・・。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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