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坊さんたちの葬儀論。
































中村さんのおっしゃることはもっとも正論だ。
が、それも「普段から宗教者と在家・俗人がある程度の交流がある」のが前提でないと、機能しない。


メメントモリなどなく、
「仏さまを拝むよりも、少しでも勉強しろ」「念仏唱えるよりも、素振りしろ」
みたいな超俗物社会ですは帝政日本は。

で、死んだら「坊主に任せて」て無理ですは・・・・・・・・・・・・。

坊主は、一種の「エッセシャルワーカー」でもあり、同時に「知識人・インテリ」なんだろうね、社会的位相としたら。

でもその自覚が無い。

ので、彼らの生活の基盤の「中間層」の経済を破壊する政策を為す政党が、比叡山とか高野山や永平寺のある町ではぶっちぎりで国政選挙で毎回当選する。

まあ、その程度の知見しかないのだから、どうなのかね。



中国の昔話の中で「自分が処刑の身代わりになることで、その代金で親の葬儀の費用の捻出をする」てたぐいの話が沢山出てくる。

両親を失った若い女性が、自分の生活の為でなく「親の葬儀を出す」ために「売春」のための身売りをする・・て話もよくある。



この人の意見もわかる。

庶民が、第一「無宗教」で、死んだらいきなり「仏式の葬式をしないといけない」などなったら、普通に「中抜き業者」が大活躍する。

なんせ、今度の安倍氏の国葬を見ても、中抜き{桜を見る会のムラヤマが独占}の天国だし。

なら「まずは、明朗会計」となるのは、「中抜き皇帝天皇による中抜き国家」では、当然の選択になりますよね。


そもそも「寺社奉行」のような宗教的な知見がある組織が、その会計を監査するわけではないし。


まあ、これもすべての「天皇」のおかげですよね。




その上に「しけた国葬」


中抜きしたお金は皇族とCIAにも回っているよね、きっと。






そういえば、中国でなぜに宋代に、儒学が盛り返したのか。の一因に

「葬送儀礼を、儒学でも作ることができた」から。ってことだ。

唐ぐらいからは、儒学単独では知識人も庶民は葬儀は難しかった。
ので、仏教にその辺が大変期待された。

ただ、南宋の朱熹がその辺を整備して解決すると、知識人に一気に儒学が強くなったみたいだ。


思想・それも生活に関わる宗教や習俗に関わるモノは、葬送は極めて重要なモノになる。


明治以降は「通俗道徳」と「天皇真理教~特に靖国神社」が、「死後の事や宗教的なことを考えるよりも、生き延びろ。」という自己責任論=エゴイズムが社会の主流の思想になった。

そんなところに、葬儀など、やっている暇はない。かける金も無い。死人に金を掛けるくらいなら、他人を引きずり降ろして金を稼げ!て社会になったのだからね。


これも「統治権を唯一持って、統治の責任は一切取らない」って天皇が、日本人を喰い殺すためです。


天皇家を殺し尽くして 日本復活


天皇の無い 蒼い空を取り戻す



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