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面白れ~。仏法と世俗と。
これはちょっと大事な問題だと思う。修行をするほうが偉いと思いがちだが、世事から離れたその環境が、いったい誰のおかげで得られていると思っているのか、それは世事に関わる人々が尽力してくれるおかげだろう、そしてこのミゾはなかなか深く、レスにも見られる。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
スッタニパータをみると、バラドヴァージャというバラモンが、食を乞うてばかりのブッダにいう。「私は田畑を耕している。それで得たものを食っている。だからあなたも耕して、それから食ったらどうだ」
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
ここでみる限りにおいて、ブッダは、世事に関わって田畑を耕すよりも修行が大事であるという立場に立っている。ここで登場するバラドヴァージャとは、バラモンであり、本来は田畑を耕している立場の人ではなかった。しかし田畑を耕して生きていかざるをえない現実とその重要性をブッダに訴えた。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
ブッダはここで、田畑を耕すよりも、心を耕して果を得るほうが大事だということを表明するが、もちろんこれは時代や地域、伝統が違っても当てはめられるのかという問題を検討する必要はある。とくに禅では、生活そのものを禅とする考えに立脚する。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
ここで少し話の角度を変えるが、坐禅瞑想をするさい、「坐禅や瞑想によって自分を変えたい」という人があり、多くの僧侶もそう宣伝したりするが、これは本末転倒である。坐禅や瞑想のために、自分やその生活環境を変えていくほうが順序である。そしてこれこそが「戒定慧」のステップである。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
禅では「禅戒一如」といって、坐禅をすれば戒も備わるという考え方があるが、経験的にいう限り、基本的な生活環境や習慣をスッ飛ばして坐禅だけしていればよいということにはならない。在家居士ではこの誤りに陥る人をみるが、出家でそう教育をうけている人は誰一人いない。必ず習慣の確立が先である。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
「E平寺やS持寺では坐禅も大してしていない」という批判があるが、そしてそれは憂える状況だと思うが、基本的な生活習慣の確立を第一義に置いているという点に置いては、坐禅だけしかしない人からの批判は当たらないと私は思う。修行環境を整えるということは、それだけ先人が尽力してきたことである。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
修行の場にいる人と、世事と格闘しつつ寺院を守る僧侶の間の溝は深く、修行の場にいる人は、その環境が誰によって成り立たせてもらっているかの感謝を忘れてはならない。一方で、修行道場の修行よりも世事のほうが大事だという価値観を広めてしまうことは、私は誤りであり、注意が必要だと思う
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) August 6, 2021
面白い。
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