参考書はあっても、教科書や「不磨の大典」は無い。それが人生。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

もうね、先生とかリーダーとかメンターとか
個人的な人について行く時代ではないんです。


誰かにいつまでも教えてもらっていたり、
誰かにいつまでもついて行っていたり、
人の理論にいつまでもしがみついていたり、

本当にそういう時代ではないんです。


そこをスタートにするのは全然かまわないんですが、

「いつまでも他動詞」というのは
本当におやめになった方がいい。


へたくそでも
道なんかなくても
見切り発車でも


とにかく自動詞で生きること・・・


自分の肉体と霊性で歩むしかないのです。


それが霊的人生なのです。


リリスなんかもそのきっかけに過ぎない・・・


自分で自分の海を渡っていくしかないんです。

自分で自分の山を登るしかないんです。


誰も舟を作ってくれません。

誰も荷物を持ってくれません。


自動詞なんです。


厳しいようで優しいんです。

優しくて暖かいんです。


さあ、ご一緒に参りましょう・・・


ただし、手は繋げませんが・・・


・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

さあ、ご一緒に参りましょう・・・
ただし、手は繋げませんが・・・

手をつなぐことは出来ても、なり替わって歩くことまではできないしね。

月の欠損の、その先へ…『OK! soraさんの〝新リリス論〟』について


2:33:34〜 からついりさんが言ってますけど

「何かを信じ込むよりも、自分でヨシと思うところを自分で取捨選択して判断して」

て趣旨のことを言われてます。

そういえば王陽明も、同じようなことを言ってるよね。

「第一、易の著作や解釈でも、伏羲・女媧と、文王・周公と、孔子の解釈に違いがあるけど、問題ないよね。道の発現ならそれは違っても構わんのですよね。」

日本で「とにかく、一切疑わず信じ込むのが、正しい」ってのは、起源の多くが「バクティ信仰」的なモノ・・・・・浄土信仰・禅宗の民衆化の劣化版&通俗道徳が大きいと思うけど・・
それの集大成が「天皇真理教」で、生きガミ様が「万世一系」とかいう狂気と改竄の化け物ですから。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?