「すり替えの歴史」は、「売国と侵略の歴史」


 より

上記文抜粋
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以下に、現在行なわれている情報操作がいかに許されざる行為であるか示します。

☆☆☆

いったい、「何が」すり替えられ、ねつ造されているのかを説明します。



「何が」かと言うと
「主語が」すり替えられているのです。


三重塔を例にみて見ますと、まず
「だれ」から「だれ」に?という事ですが、

正解:出雲大社から日光院
不正解:出雲大社から妙見社へ

ただし、ここで用いられている「妙見社」は
名草神社を指す場合においてのみ不正解である。

なぜなら、歴史的に妙見社とは日光院のことであり
決して名草神社ではない事は、以前から証明している通りである。

つまり
一見分かりにくいよう

まずは
「妙見社=名草神社」とすり替えます。

次に
「出雲大社から日光院」を「出雲大社から妙見社」とすり替えます。

この巧みな二重のすり替えの結論として
「出雲大社から名草神社」としていることが
すり替え、ねつ造と言わず、何と言うのでしょうか?

そもそも、但馬妙見日光院の歴史そのものが
いつのまにか、名草神社の歴史にすり替えられているのです。
それこそが、すり替え、ねつ造の全ての根源なのです。


実際の寛文御造営日記には「妙見社」という文字はどこにも書いてありません。

つまり、このパンフレットと三重塔の本には、
故意に「妙見社」という言葉を後から付け加えているのです。

いったいどうすれば
「寛文御造営日記」には全く記録されていない
「妙見社」という言葉を書き加え、都合よく内容をすり替えて、
それをあたかも真実の歴史であるかのように伝える事ができるのでしょうか!



ある信者さんからのメールを公開します。
(掲載について、承諾してくださいました。)
日高町に在住の熱心な妙見さんの信者さんです。


HPの更新はかかさず拝見させていただいております。
ますます熱くなってきてますよ。home page でなく hot pege に・・・
なぜ、ここまでやってらっしゃるのに町の方は動こうとしないのか不思議です。
あきらかな事実なのに・・・ 。今は名草神社だけどもともとは日光院だったんだよって
公的な立場からPRしても本当のことだから何一つおかしくないと思うんですけどね。
結局は町の財源というか町にはこんな建造物があるといった形だけのPRでいいんでしょうね。
やはり信仰あっての建造物といったように本当の中身をPRしないといけませんよね。

「八鹿町には開運・厄除けの仏様である妙見さんをご本尊とする
日光院があります。この日光院は古くから妙見信仰の総本山で有名です。
しかし明治の神仏分離令、廃仏毀釈により大変大きなダメージを受け
ました。日光院の本殿は名草神社に変えられてしまうなど国の政策による
影響をうけてまいりましたが現在の地で今もなお妙見信仰は守られています。」

みたいなPRにしたほうが、いかに日本の宗教の自由が奪われた時代があったかなど
皆さんに知っていただけるのではないでしょうか。

このような悲しい事実を繰り返さないためにも皆さんに知っていただいて
皆で考えていかなければいけないと思います。

人にはそれぞれ自由がある。
宗教の自由は一番大切なことではないでしょうか?
仏様を大切にするということは人生を大切にすることだとおもいます。
妙見さんを偽ったままの解釈でPRすることは仏様をいかに大切にしていないかがわかります。
公的な機関が人々の人生を大切にしていないといってもよいのではないでしょうか。

真実の歴史を伝えることで我々は多くを学び、考え、
これを次世代にのこしていくべきですよね。

「マイナスをプラスにする」考えを大切にしたいものです。


大変心強いメールを頂きました。有難うございます。

でも、町の方の中にも真実の歴史を伝えるためにいろいろ、
考えて下さっている方が何人もおられ、今後の対策を真剣に
考えて下さっている事も、合わせてお知らせします。

他にも、沢山励ましのメールを頂いておりますが、
その、多くの皆さんの気持ちに応えられるように
生涯をかけて正しい歴史を伝えていこうと思っています。

日高町のK.Tさん、有難うございました。
そして、hot page を楽しみにしていてください。

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抜粋終わり

「すり替えの歴史」は、「売国と侵略の歴史」だった・・・


より

上記文抜粋
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日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。


 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。


 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。


 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。


 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。


 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)


 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。


 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。


 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。


 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。


 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。


 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。


 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。


 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)


 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)


 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。


 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。


 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。


 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。

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抜粋終わり

「侵略者の犬」に成ったのを開国だの文明開化という、すり替えの歴史・・

まさに侵略と売国の歴史だったのです。

「天皇」を出せば、日本は「売国」も「侵略」も思いのままにできます。

まあ「日本人は天皇家の家畜」なんですは・・・

少なくとも・・・明治以降は、「日本」などいう国家は存在しなかったのです、唯一の統治権者である「天皇」がその統治に責任を持たない=日本と言う国は統治体ではない てことですから。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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