『舞人-bujin-』
自らの肩書きの様なものを踊り手、ダンサーと記さずに上記の様にしている。
『踊る』と『舞う』では、
元来、「おどり」が跳躍運動であるのに対し、「まい」は旋回運動をさすものである。
-宮田国語塾
自身の中では『踊る』というのは行為的なものに聞こえ、目を引く様な身体の在り方や生きるというのは『舞う』という表現の方が近いと感じる。はたまた風化していく様すら感じる。抵抗せず早くもなく遅くもなく、在るがまま。
此処には日本人的な土着な美しさ、儚さが込められた言葉の表現の様な気がして愛着が湧いてくるもの。
満開の桜が散る際には『舞う』、あたりを照らす炎から火の粉が『舞う』、曇天より雪が『舞う』、、、
視覚的に美しいと感じるものは舞っていると。
埃も『舞う』、、
在るべきままに旋回し続ける様。
私がしたいのは運動。
旋回運動、内側へ、螺旋状に、
自身が舞。そして尚周りを巻き込み自身へと。
(運動とはつまり、因果や必然から解き放たれ、ある時不意に向こうからやってくる恩寵に他なりません。
その時、言語にできることは、それを全て自らの中に収斂することなどできないという無力に打ちのめされつつ、負け戦を承知の上でその運動それ自体が露呈する瞬間に立ち会えた悦びを記憶せしめんとする途方もない敗北宣言であります。)
こうありたい、舞いたい。人として。
(『舞う』より先に言葉はありません。そこから言葉が始まるのです。
しかし言語は知性の表象である以上、その限界を見極める事こそ知性であり、すべての言語=知性の始まり、いわばその祖となる母体は『舞う』ことにあるのでしょう。)
『桜は踊らない、舞うもんだ。』
次の自主公演のタイトルとなる。
2023年11月に公演予定
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