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ある老人、カフェで激怒

カフェでの実話を、語りたいと思う。

この日も、夕飯の時間でありながらコーヒーを一杯だけ注文し、作業をする。居座るという都合上、お店に迷惑が掛からないようになるべく空いている時間に行きたいため、午前中か夕食時以降にいることが多い。夕食時の店内は程よく空いていて、ゆったりと作業がはかどった。暖かな照明に照らされ、常に夕方を思わせる。こんなに居心地がいいから居座ってしまうのだ、とお店にも難癖をつけたくなる。

そんなことを思いながらパソコンと向き合っていると、何かが後ろを、馬のように荒い息遣いで、牛のようにゆっくり歩を進めていった。広くない店内に所狭しとテーブルが並べられており、後ろを歩く人の音は、はっきりと伝わってくる。

最初、あまりにもゆっくりと歩いていくために、知り合いか、もしくは僕にとてつもない恨みをもって、僕の姿を認めた途端に興奮して息を荒くし、ゆっくりと忍び寄る人でもいるのかと思った。過去の罪を数えながら、ひと思いに殺せ!と、後ろを振り返らずに、しかし後ろに神経を研ぎ澄ませていた。が、どうやら狙いは僕ではなかったらしく、通り過ぎていったので、くだらない妄想で張りつめていた神経は緩んだ。

視界にその姿が入ってきて、腰の曲がったお爺さんだと分かった。彼は、一席空けて僕の隣に荷物を置いてから、また僕の後ろを慎重に進み、カウンターで注文をした。

メニューに指をさして注文していたのだろう、何を頼んでいたのかはわからないが、声が大きく店が小さいため、会話は聞こえてきた。おじいさんは甘いのが嫌いなのか、はたまた持病の関係か、店員に、「これ、砂糖入ってる?」と聞いた。砂糖が入っていないことを確かめて会計を済ませ、やっぱり僕の後ろを息を荒げながら通り、ついに腰を据えた。

老人は本を開いて待った。少しして店員が商品を運び、彼はさっそく口をつけた。僕もそれで平穏を取り戻し、また作業に集中を戻そうとした。

けれど、おじいさんが再び立ち上がるものだから、おじいさんの動向に意識を向けざるを得ない。

といって、別に他のお客さんにいちいち気を張っているわけではないのだが、おじいさんの息と歩みを少し心配したし、単純にその音と存在感は無視できなかった。

僕の後ろを通り過ぎようとしたとき、「これ…」というようなことをつぶやいたものだから、やはり彼は僕の命を狙っていたのかと戦慄し、とはいってもパソコンから目線を離さず聞こえないふりを通し、おじいさんの話の続きを待った。

しかしまたしてもおじいさんは通り過ぎ、カウンターに戻った。僕に用があるわけないよな、と安堵とも落胆ともつかぬ感情になったとき、一段と声を大きく、息を荒げ、店員に向かって言い放った。

「これ砂糖入ってるやないか。甘くって飲めやせん」

びっくりしたが、僕は状況を一瞬で理解し、ミスは誰にだってある、と、おじいさんが寛容になってくれるように祈った。しかしさらに驚いたのは、それに対する若い、学生のアルバイトと思われる店員の返事である。

「いや、入ってないですね」

入ってないんかい!僕は心の中でツッコミを入れた。

あまりにも淡々と言うものだから、それはおそらく本当なのだろうと思った。そして、なぜおじいさんは砂糖が入っていると思ってしまったのかと考えた。すぐに考え付いたのは、おじいさんがちょっと特殊な紅茶を注文しており、その甘い香りを砂糖だと勘違いしたのだろうか、ということ。それか、牛乳が入っている、なんとかオレのような商品に甘さを感じ、砂糖と勘違いしたのか。店員が入っていないと断言するのだから、多分入っていないのだろう。おじいさん、ミスは誰にだってある。店員さんも許してやってくれ。そう思っていた。

しかし、おじいさんは折れない。

「どう考えたって入っとるやろがい。砂糖入ってないかって聞いたら入ってないって言ったやないか」

本当に入ってるの?僕はやはりおじいさんを疑った。年齢の近さもあるのだろう。僕は無意識に店員に肩入れしている。

おじいさんが関西弁であるのは、ここが関西だからだ。関西人のバトルを聞くのは京都に来て二回目で、失礼ながらすこし興奮して息を荒くした。記憶を巻き戻して書いている関係上、僕のエセ関西弁が混じっているかもしれないことには、ご容赦いただきたい。

「いや、入ってないですね」

ここで店員の彼は、最初と同じセリフを冷静に放った。

店内にはクラシックなバイオリンの音色が鳴り響く。おじいさんの大声に店内の空気は少し張りつめた様子だったが、あまりにも冷静な店員の態度を見て、空気が緩んでいった。これ以上ヒートアップすることなく、店員の功労でだんだんと場は収まるだろうと皆が予想したのではないか。とはいえ、自分の味覚を信じるおじいさんはあきらめない。

「入っとるやないか。入ってないって言ったやないか」

おじいさんも、同じセリフを繰り返した。もはや議論は平行線で、どちらかが折れるまでバトルが続くのか、と危惧した。

しかし、おじいさんはここで少し信じがたい仮説を提示する。

「あれか?入荷する商品自体に砂糖入っとるんか?入れとらんのやったらそうやろ。それは砂糖入ってるってことやないか」

そんなことがあるだろうか。砂糖の入っている商品を使っているのならば、店員も入っていると言うだろう。あまりに突拍子もない、というか、言いがかりのような仮説に、僕は少しあきれてしまった。店員もなんとか言ってやれ、そう思った。

「最初から入ってるやつなので、砂糖は入れてないです」

入ってるんかい!

認めた。いとも簡単に店員は砂糖が入っていることを認めた。

「やったら嘘やないか。嘘ついたやないか。入れてなくても最初から入ってたら砂糖入っとるやないか」

正論である。もはや軍配はおじいさんに上がったかのように思えた。ここで負けを認めれば、少々恥ずかしいかもしれないが、謝って、商品を取りかえるか返金をして、事態は丸く収まる。はずだった。

「最初から入ってるやつなので、入れてないです」

ん?粘るの?それ、入ってるってことだよね?嘘ついたよね?心中で、僕はおじいさんに加勢していた。お世話になっているお店ではあるが、嘘はいけない。がんばれ、おじいさん。悪を言い負かせ。

「入っとるやないか。嘘ついたやないか」
「入れてないですね」

どう考えてもおじいさんが正しいのだが、まともに議論せず、自分の主張を繰り返す店員を言いくるめることは至難の業だ。最終的には、議論が不毛であることにおじいさんが呆れ、大人の対応を見せた。

「もうええわ。返金もせんでええわ。帰るわ。こんな言い争いしてたって何の埒もあかんわ」

いわゆる泣き寝入り、というやつかもしれない。おじいさんは不服ながらも退店を決めた。僕も不満だった。こうやって悪がまかり通るのか、と悔しかった。間違っていることでも主張し続けていれば、やがてそれが正しいということになる。そんなことがまことしやかに語られたりするが、それが実践されたところを目の前で見てしまった。

おじいさんを助けるために、僕も飛び出していきたい気分だった。しかし、どうやって言いくるめる?店員はもう最強の盾を手にしたかのように、ひょうひょうと自分の主張を繰り返すのみだ。それに、すでにエネルギーをかなり消耗し、撤退を決断したおじいさんを再び勝ち目のない戦地に赴かせるのは、酷に思えた。

おじいさんは荷物を回収するため、僕の後ろを、国会で不服を表すためにとられる牛歩戦術のように、周りの客に己の雄姿を見せつけながら往復した。ほかのお客さんも、どちらが正しいことを言っているのかはわかっていたと思う。そして、おじいさんに、ねぎらいに言葉だけでもかけたかっただろう。しかし、いざこざに首を突っ込まずにいることが、この世を平穏に生きるコツだ。ただクラシックのBGMだけが、静かになった店内を歩くおじいさんの、徒労と化した議論をあざけるかのように、よどみなく流れた。

店内の店員を除く一同が、おじいさんの負けを悲しんでいたと思われる。しかし、おじいさんはこの戦いをあきらめたわけではなかった。

「どっちが正しいか、調べてくるわ。最初から入っとるなら砂糖は入っとらんってことに入るんか入らんのか、な。どっち正しいか、調べてくるから」

入ってることに入るとか入らないとかややこしいぞ、と思ったが、とにかくこう言って、店を後にした。ようやく普段通りの静かなカフェに戻る。そう思った。が、店員のある一言が、おじいさんの火に油を注いだ。

「ありがとうございました」

店員はこう言ってしまった。誰かが店を去る時、それを言うことが癖のようになってしまっているのは理解できる。が、ここではあまりにも不適切だった。謝罪するときもそうだが、何に感謝や謝罪するか明確でないのにとりあえずそうすると、相手に不快感を与えてしまうことがある。これはその典型例だろう。

おじいさんは振り返った。のだと思う。やりとりを見れたわけではないから、これは想像だ。

「ありがとう、ってなんや。客が飲み物も飲まずに帰っていくのを見てありがとうって。何がありがとうやねん。いやみ、やないか」

そうだそうだ。あやまれー。僕も心の中で詰め寄ったが、店員はそこで黙ってしまった。「ご来店いただいたことに関しては、感謝すべきかと」という回答例が僕の頭の中に浮かんだが、終始冷静に見えた店員も、じつはそう見えるようにしていただけで、脳内では焦っていたに違いない。何も言えずに立ち尽くすだけだ。

「まあええわ。調べてくるからな」

調べてきて何ができるのかはわからなかったし、調べるというのがどういうことなのかよくわからなかったが、おじいさんの捨て台詞は、ヒーローが舞い戻り、悪を懲らしめるという、ありがちな映画のストーリーを思い浮かべるには十分なものだった。

興奮冷めやらぬ中、僕も心の中で、その歩みのためになかなか併設の書店を出ることができていないおじいさんに「ありがとうございました」と言う。本当に失礼な限りであるけれど、面白い場面を見ることができた。誤解しないでいただきたいのは、面白いというのは、面白おかしいというのもあるが、興味深いということでもある。それに、誰かに話すネタができた。これは、普段家か学校かカフェくらいにしかいない僕にとっては貴重なものであり、感謝すべきことなのだ。

平穏を取り戻した店内で、家族で来店していた女の子が、

「入ってたの?」

とお母さんに聞いた。

「入ってたみたいだね」

お母さんも悔しかっただろうが、そう言うにとどめた。新たに出来上がったカレーがその家族のテーブルに届いた。コクのあるにおいが、空腹を思い出した家族を包み込み、乾ききった心を慰めるように香った。そのカレーを作ったのがあの店員一味であるという事実は、できる限り頭の中から追い出す。

このカレーには砂糖が入っているのだろうか。

女の子も、そう考えてしまったに違いない。

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