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伊勢神宮に行きました。

 突発的に思い立って、土曜の夜9時にパートナーと三島を出発、ホテルでのんびりしすぎつつ外宮と内宮に行って、日曜夜11時半ごろ車飛ばして帰ってきた。
 学生よろしくの無計画かつ無理のある日程。しかも帰りの夕食は大戸屋にしかありつけず、なんでここまでして大戸屋?という不満と寝不足もあって、2人して黙々と食べるという、反省すべき愛すべき旅行だった。

 初参拝ということもあり、事前知識を持ちすぎるのはあまり好きではないので(というのは半分言い訳でしかないんだけれど)伊勢神宮の公式サイトを2分ほど見て、外宮と内宮があり、外宮から参拝するという知識だけ携えて、初参拝に臨むことになった。
 国の最も重要なお宮なので周囲もさもありなん、と思っていたけれど、普通に市街部が周囲を囲んでいる。拍子抜けとは言わないけれど、だからこそ普通に聖地が隣接する暮らしとはどういうものなのか、地域としてとても興味深く思った。

市街地を走っていたら急に外宮が現れて一度通り過ぎてしまった。見逃しちゃったよ〜なんて言いながら、Uターンして駐車場に入った時点で、急に清浄な世界に入っていることに気づく。

 大きな木が林立している。ハッとするような大きさで大きな木を中心に環境が清浄に整っている。大きな木とゆっくり対話したいところだけどあまりにも巨木が多すぎて目が慣れてしまう。大きな木が林立していることで点ではなくて面として清浄な空間が存在している。
 森林は程よい複雑性を持った状態で維持されている。明らかに人の手が入っているはずなのに、人の手を感じない。
 どこにも淀みを感じない。人の手がないとこうはならないと思うけど、巨木がそれを生み出している。人はそこに方向づけを与えている程度に関わっているような感じ。
 奥に入って行くと豊受大神宮の宮が現れる。何か言語化できない感覚に包まれる。僕はその時ヨーガンレールと若冲の鳥獣花木図屏風を思い出した。神の世界と人の世界が融合した世界が現れている。
 他の神社では鬱蒼として淀みがあったり、開けすぎていて現世でしかなかったり、神の世界のかけらと、光ではない見えないものの淀みのようなものがあったけど、伊勢神宮ではそれが自然と存在して、普通に混じっている。人は神の世界に自然と戯れている。こんな場所があるなんて知らなかった。
 伊勢神宮が設定した、神宮式年遷宮をはじめとする仕組みは人と自然を巻き込んでうまく機能している。

 僕は全く知識がないので感覚で捉えたものを書くけれど、普通のお宮は時代に縛られている要素が強く感じられるけれど、伊勢神宮は作られた時代の意識を通り抜けてより古い教えを含めて表現しているように感じる。海洋民族、アジアを感じる。
 非の打ち所がない空間と建物だけど、その非の打ち所のなさによってのみ清浄さが生まれると捉えた場合、非常に大変な概念になってしまうけれど、巨木という環境のポテンシャルを引き出していると考えると方法と可能性は格段と広がる。
 僕はそのように捉える方が好きだ。


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