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【全身全霊版】血戦の関ケ原に剣豪武蔵その人あり 獨眼龍と相対し 五振りの刀にて月を粉砕す

 武蔵!

 ここは血煙くゆる関ヶ原。武蔵の眼前に迫り来るは、甲斐武田の誇る半人半馬の人馬兵セントール。黒塗の槍を携えて、武蔵目掛けて駆ける駈ける翔ける! 迫り来る猛威はさながら一尾の大蛇おおかがち、武蔵を一呑みにせんと襲い掛かった。
 されど武蔵は不敵に笑う。左のかいなを振り上げる。握られしは世に聞こえ高き大業物おおわざもの、名工源玄番みなもとげんばが鍛えし四尺の太刀。銘を『寒椿かんつばき』という。
 武蔵は刀を、ひょいと一振り。幼子が小枝で戯れるが如く。だがその一振りが、命燃ゆる関ヶ原に血の颶風を巻き起こす!
 先頭を駆ける人馬兵が、炸裂音とともに屑肉! おお、見よ。斬れたに非ず、爆ぜたのだ! 武蔵が起こせし剣風は、屈強たる人馬兵ですら耐え凌ぐことができぬのだ。何たる武蔵!
 だが、流石の武田兵。武蔵の暴威を前にして、微塵も恐るることなし。朋輩ともがらあだ討つ勢いで、武蔵の喉元に食らいつかんとする! ならば、武蔵は如何にする?
 武蔵は続けて、右のかいなを振り上げる。握られしは世に聞こえ高き大業物、名工源玄番が鍛えし三尺七寸の太刀。銘を『盲夜めしや』という。
 武蔵は再び、刀を一振り。先程よりもしたたかに、されど柳の如くしなやかに。
 ずんばらり。人馬兵、両断! 人と馬とに腑分けされた一騎が、鮮血を散らし弾け飛ぶ。一騎? 無論、否である。後に連なる人馬兵も次から次へと弾けて飛んだ。おお、あまたの人馬兵どもが、血肉の大河と変わり果てて行く! 武蔵の一振り、ただの一振りによってである。哀れなるかな。精強なる甲斐武田の人馬兵、しめて千と五百騎が、桃色の桜肉と成り果てたのだ!
 武蔵は呵呵と大笑した。その風体、全くもって異様なり。乱れ髪、熊髭、襤褸をまとう様は乞食の如し。されど爛爛と輝く眼差しを見よ。かんばせに浮かぶ虎の笑みを見よ、見よ、見よ!

 そのとき轟! 天地の狭間に焔が走る。武蔵は一薙ぎで灼炎を払い、雷雲立ち込める空を睨めつけた。
「お主が、あの武蔵かっ」
 暗雲の高みより大音声にて問いかけるは、恐るべき独眼の飛竜。まばゆき黒の竜鱗を、黒漆塗当世具足くろうるしぬりとうせいぐそくに包み込み、悠然と空を舞うその姿こそ、かの”獨眼龍どくがんりゅう”伊達政宗公である! その後背に控えるは、奥州飛竜軍二百五十騎!
「武田を斬ったは、我ら東軍、”大神君”ジーザス徳川殿に与する故か」
「否である」
「ならばもしや、西の大魔猿デーモンキー秀吉の味方と申すか」
「否、である」 
 武蔵は嗤った。天上天下、遍く全てを嘲る笑みであった。
「武蔵は何者の味方もせぬ。故に、武蔵は万象万物の敵である」
 この傲岸不遜たる答えには、流石の獨眼龍も鼻白む。
「なんたる狂人……ならば何故、この血戦の地に参ったか」
 武蔵の笑みが、ぬらりと歪む。それは嬰児の笑みの如くでもあり、それでいて老爺の笑みの如くでもあった。
「無論、斬るため。万物万象を斬るため。それが、武蔵である」
 言うなり跳んだ、武蔵が飛んだ! 神馬の如くに天翔けて、黒竜を一刀の下に切り捨てんと迫る! 気合一閃、放たれた武蔵の剣は、しかし堅牢たる竜鱗に阻まれ、肉までには至らず!
「殿っ」
「騒ぐな、大事ないわっ」
 狼狽する配下を一喝、政宗は翼はためかせ、武蔵の勢いを削がんとした。だが武蔵は止まらぬ! 続けて双刀を打ち込まんとする!
「おのれ武蔵、獨眼龍を舐めるなっ」
 対する政宗も爪を、牙を、尾を振るい、武蔵を八つ裂きにせんとする! 丁々発止、鎬を削り火花散る、互いの力量はまさしく互角!

 まさに、そのとき!

 妙なる法螺貝の調べに乗せて、光が、花が、歌が戦場に舞う。厚き暗雲を貫き、殺伐たる戦場に白き天使の一群が一騎、また一騎と舞い降りた。おお、おお、見るが良い。あれこそはジーザス徳川が直属部隊、告死天使軍アズライール「ミカエル・アーミー」八百余騎。率いるは、白磁の武者鎧に身を包み、神槍を携えた光輝の不死者!
「我こそは、徳川四大天使ホンダエルなり。武蔵よ、神意により征伐つかまつる。無論、抗うことまかりならぬ。ただ粛々と死を頂くが良い」
 ホンダエルは恭しく告げる。その声音たるや! 重厚にして峻厳、まさに神威の表れである。惰弱な輩が耳にすれば、たちまちにその身が浄化され、極楽浄土の門をくぐるに相違無し。 
 だが、武蔵は一顧だにせず。聞く耳持たぬ。眼前の悪竜に心奪われていたが故である。
「獨眼龍っ」
 武蔵は吠えた。武蔵は夢心地であった。獨眼龍! かねて噂は聞き及んでいたが、これ程までのつわものとは。嗚呼、嗚呼、何たる爪、何たる牙! 斬るべき強者を求めて幾星霜、旅路の果てにようやく巡り会えた好敵手に、武蔵は心の赴くまま、渾身の一刀を叩き込む。黒き竜鱗が裂け、紫の血が派手に零れ落ちる。正宗の独眼が見開かれた。
「おのれ武蔵、武蔵、武蔵、武蔵っ」
 政宗は、狂うが如く吠え叫ぶ。一介の武者、否、たかが一匹の人間に、奥羽竜王たるこの正宗が、この、正宗が!
「武蔵っ」
 渾身の、爪! 武蔵の脳天へ。武蔵は笑みを絶やさぬまま、致命の一爪を受けにかかる。
 轟! 一陣の旋風が、両者の間に割って入った。武蔵、正宗、共に顔を歪ませる。 
「舐め腐るな罪人めが。神意をなんと心得るか」
 それはホンダエル! 手に携えるは十字架クルスを模し、四枚の羽根を備えし神槍『飛竜断ち』! 光り輝く神槍を主に掲げるかのごとく高々と掲げ、その怒髪、まさしく天を衝く! 
「武蔵、二度は言わぬぞ。神意、いやさ神罰である。大人しく、我が槍の錆となれい」
「どけ」
「ぬ、今、何と申した」
 武蔵は笑う。唇歪ませ、歯を剥いて笑う。笑う? 否否否、無論否である! 零れ落ちんばかりの憤怒と敵意が、武蔵の面をめきりと歪ませているに過ぎぬ!
「邪魔立て、するでないわっ」
 武蔵は大喝、瞬きすらも許さぬ迅さで二刀を叩き込む! あまりの剣速に大気が電離化、妖しき光と異臭を放つ! 並の強者ならば影すら残らぬ一撃を、しかしホンダエルはがちりと受けた。衝撃波かぜが関ヶ原の空を駆け、『飛竜断ち』がびりりと震える。
「ホンダエル殿、助太刀無用っ。たかが武蔵の一人や二人、この獨眼龍の敵に非ずっ」
 正宗が吠える。
「ならぬ。我が手にて武蔵を討つは、我らが主君、ジーザス徳川公直々の下知。これ即ち、絶対運命である。違えるわけにはいかぬ」
 ホンダエルも退かぬ。
「ふむ」
 武蔵は瞬きほどの時間、考え込んだ。
「あいわかった」
 武蔵は笑った。人惚れのする笑みであった。
「では、双方諸共に掛かってきませい。武蔵は構わぬ。どうせ双方、共に斬って捨てるが故に」
 武蔵、不遜なり! されど、これぞ武蔵なり! だが至極当然の如く、この物言い、正宗、ホンダエル両人をもって看過できぬものであった。
「「む、むむ、武蔵っ」」
「応」
「「許さぬぞ、武蔵っ」」
「応っ」
 関ケ原の空に、殺し間が現れる!
 武蔵の二刀が、正宗の爪牙が、ホンダエルの神槍が、唸り、舞い、奔り、斬って斬られて、突き突かれ、血が流れ、肉が削げ、骨軋む! 三つ巴の争いはいつ終わるとも知れず、奥州飛竜軍二百五十騎、並びに告死天使軍八百余騎、固唾を呑みつつ見守る他なし!

 まさに、そのとき!

 関ヶ原の大気が、大地が、その狭間の森羅万象ことごとくが、怖気を振るうが如く震えた。関ヶ原より僅か数里、数百年の眠りを貪っていた不死ふじの山が、突如として火を噴く。天を貫く火の柱。その只中より、漆黒の大巨獣が現れた。
 途端に、飛竜が数匹、そして告死天使が数体、血反吐をぶち撒けながら絶命した。魔王の姿を目の当たりにしたが故である。
 見よ。そして怖れよ。現れたるは西軍の盟主、大魔猿デーモンキー、羽柴筑前守秀吉その人である!
「佐吉よ」
 大魔猿が口を開いた。途端に、飛竜と天使がまた数体、七孔より噴血しながら地に墜ちた。魔猿の声が耳に入ったが故である。
「あれが、武蔵か」
「御意。あれが武蔵にござりまする」
 魔猿の肩に腰を掛けた白皙の美丈夫が、鈴の鳴るような声で答えを返す。大魔猿の一の家臣、石田治部少輔三成であった。
 秀吉は煮え滾る火口より這い出し、山裾に足を踏み下ろした。
 たちまちにして巻き起こる、玄妙かつ不可思議な事態! 秀吉が踏みしめた跡より、湧き出るが如く現れしは、奇怪植物の群れである! 歪み捻じれた植物群は、次次と魔猿の印せし足跡より現れ、魔猿の足下に背徳の大密林を生じせしめたのである! これぞ世に言う「不死ふじ呪界じゅかい」、大魔猿の引き起こせし”アンチ”奇跡なり!
「ぬうっ、こ奴が」
「お、おのれ秀吉ぃ」
 正宗、ホンダエル、共に秀吉の存在圧に押され、僅かに身をすくませる。その程度で済んだのは、ひとえに彼らが圧倒的強者たるが故であろう。ならば、武蔵は?
「ふむ。これは」
 おお、おお、何たることか。武蔵の鼻より流れ落ちる、紅色の一筋……鼻血である! 哀れなるかな武蔵、先に落命した竜や天使の如く、血反吐ぶちまけ地に墜ちるのか?
「ふ、ふふ」
 否!
 武蔵は、流れ落ちる血をべろりと舐めた。眼球は紅に染まり、紅い夜空に暗い月が浮かぶが如くに映っていた。唇がかつてないほど歪み、奇矯な笑みを形づくる。それは人の貌というよりは、獲物を見つけ狂喜する獣の姿といったほうがふさわしかろう。
 左様。武蔵は猛り、昂り、そして狂うていたのである。
 遂に、遂に出会でおうたぞ。五臓が、六腑が、脳髄が、至福の炎に焼かれておるわ。
 あやつこそ、あの大魔猿こそ。

 真の武蔵に、相応しき大敵なるぞ。

 武蔵は二刀を手放した。『寒椿』と『盲夜』が、武蔵の剣気に支えられて宙を舞う。
「ぬん」
 武蔵は天に挑むが如く、右の腕を空に掲げた。俄かに雷雲厚みを増し、武蔵の傲岸を咎める如く、雷ひらめき、武蔵を撃つ!
 すわ、焼け武蔵? だが、おお、見るが良い! 武蔵の腕に握られしは、電光に煌めく異形の刃! 
 そう、これぞ世に聞こえ高き大業物、名工源玄番が鍛えし三尺八寸の太刀。銘を『神薙かんなぎ』という。 
「ぬん」
 続けて武蔵、眼下の大地に手を伸ばす。関ヶ原の大地が、武蔵に呼応するが如くに鳴動し始める。そのとき、信じられぬことが起こった。武蔵の差し出した手の直下より大地が隆起、剣の如き岩山が屹立したのである! 山をも生むか武蔵! その山の頂上に、神々しき様子で刺さる一刀あり。武蔵は半ば埋もれたその刀を、苦も無くするりと引き抜いてみせた。
 そう、これぞ世に聞こえ高き大業物、名工源玄番が鍛えし四尺の太刀。銘を『蓬莱ほうらい』という。
「ぬんっ」
 気合とともに、武蔵は全身に力を込めた。筋肉が柱の如く膨張し、顔中に青筋が走る。
 武蔵が、顎よ外れよとばかりに口を開けた。
 武蔵の口内より、粘つくような音と共に何かが生えてきた。
 刀、である。
 血肉の匂いが、辺り一面を覆う。
 血に塗れた刀は、ゆるりゆるりと武蔵の口から這い出してくる。刀が一寸進むごとに、武蔵が苦悶の声を上げる。
 やがて現れ出でた一振りの刀は、総身を紅く染め上げて輝いていた。美しかった。神域の美しさと言えた。
 ほんの数瞬、見とれていた政宗が歯を軋らせた。 
 ホンダエルの貌が、ぐぎりと歪む。
 そう。これこそ名工源玄蕃が鍛えし太刀の中でも、随一の逸品。武蔵をして、「これは武蔵自身である」とまで評せしめた、武蔵のための刀。

 銘を『無二むに』という。

 五振りの刀は超然と空を舞う。武蔵を円心として飛ぶ猛禽が如く。
 口からあふれる血を拭った武蔵は、破顔大笑。大音声にて問いかけた。
「大魔猿秀吉公とお見受けするが、いかが」
「いかにも、我こそは羽柴筑前守である。余に何用か」
「知れたこと。武人の用など、常に一つしか有り申さぬ」
 武蔵は、両腕を左右に開いた。翼の如く溢れる剣気が、尾羽根の如く広がる宙の五刀が、金翅鳥王きんしちょうおうの偉容をかたちどる。
「大魔猿殿、この武蔵めが、一太刀馳走差し上げる」
「こ、この、うつけめが。世迷い言を申すでないわ。貴様が如き一介の武人が、我が主に手向かうなどと」
 石田三成が、憤怒に顔を赤らめながら叫んだ。白い肌に差した赤みは、美しき女人を思わせるものであった。
「世迷い言では、有り申さん」
 武蔵は舌舐めずりをした。無論、三成にではない。
「武蔵は戯言を申さぬ。その証を只今より示そうぞ」
 武蔵の眼光が、ぎらりと煌めいた!
「とくと、ご覧あれいっ」
 金翅鳥が、雷火の疾さで飛び掛かった! 獲物は、無論大魔猿!
「小癪っ」
 秀吉は即時に反応し、右の拳を打ち出した! あめ御柱みはしらが如き豪腕が、武蔵めがけて飛ぶ! 紙一重にて武蔵は躱す。武蔵の頬肉が、ごそりと削げ落ちる。だが意に介さず!
「まずは、一太刀ぃっ」
 武蔵は己と共に飛ぶ『神薙』を引っ掴むと、大魔猿の右頬目掛けて振り下ろした。金属同士がかち合う音が、関ケ原の空に響き渡った。恐るべきは大魔猿秀吉、その皮膚は金剛石の如き強靭さ! 武蔵の渾身の一刀でさえも、傷一つつかぬ!
「愚かなり武蔵。身の程を知れいっ」
 三成が吠える。だが武蔵は取り合わぬ。
 武蔵は続けて『蓬莱』を掴み、更に振り下ろす。続けて『寒椿』、更に更に『盲夜』にて斬りつける。
 四刀を、一度に? 不可解ではないか。いかな武蔵と言えども腕は二本しか持たぬ。では、如何にして四刀を操る?
 左様! 剣を振るうは両の手のみと、何者が定めたのか? 否否否、断じて、否である! 
 右手に『神薙』、左手に『蓬莱』、そして。
 しかと見るが良い。武蔵の右足、その太く逞しい指が『寒椿』を咥えて離さぬ姿を。
 そして更に見るが良い。武蔵の左足、その強靭な足指が『盲夜』を固く挟み込む姿を。
 恐るべきは武蔵。四肢にて四刀を構えしその姿は、剣に対する冒涜そのものであった。だが、これぞ武蔵の編み上げし我流剣法、『至天一流』の姿である。
「覚悟せよ秀吉。今の武蔵は、天下無双ぞ」
 武蔵は四肢を広げ、気を練り上げる。空に満ちゆく剣気が、秀吉の硬毛を震わせた。
 秀吉は、己が腕を振り上げていたのに気づいた。
 これは何事か、余の意思に反して体が動きよるとは。
 まさか。
 秀吉は、突如として脳裏をよぎったある考えを、たちまちに打ち消した。馬鹿な。余が、この大魔猿たる羽柴筑前守秀吉ともあろう者が。

 眼前の武蔵を恐れるが故に、動かざるを得なかったというのか。

 秀吉は、武蔵目掛けて掌を打ちつけた。千畳敷はあろうかという掌が、武蔵を覆い尽くすかに見えた、まさに、そのとき!
「ぐうっ」
 大魔猿、苦悶す! 何故か? 
「ぬははははっ」
 高笑いする武蔵! なんと、武蔵は独楽のごとく高速回転、四肢の剣で次々と秀吉の掌に斬りつけているのである! 赤き火花を飛び散らせながら、大魔猿の表皮を削り取らんとしているのだ。これぞ『至天一流』五大魔技が一つ、『雨滴穿あまだれうがつ』なり!
「ぐわわっ」
 おお、おお、見るが良い。秀吉公の表皮、それがついにすぱりと切り裂かれたではないか! ほとばしる魔猿の血液! 溶岩の如き高温と、辰砂が如き毒性を備えた銀色の血が武蔵に降り注ぐ! 皮を焼かれ肉を灼かれ、だが武蔵、やはり意に介さず! 魔王を斬る愉悦に、骨の髄まで浸っているが故に!
「お、おのれ武蔵っ。殿の美肌おはだに何たる無礼っ」
 怒りに歪んだ美貌を赤黒く染め、三成が吠える。だが武蔵、やはり意に介さず! 耳障りな高音を立てながら高速回転飛翔、隼の如く空を翔け秀吉の総身を切り刻む! 
「おのれ、猪口才なっ」
 秀吉は滅茶苦茶に手足を振り回す! だが当たらぬ。武蔵が、武蔵が速すぎるのだ!
「殿、このままでは」
「言うな、佐吉っ」
 秀吉は思案を巡らせる。彼は知恵者の猿であり、猛進するしか能のない猪武者ではなかった。
 たかが一介の武辺者めに、ここまでしてやられるとは。恐るべき武蔵。その業前、認めざるを得ぬ。ならば、ここは一時引き退くべし。然る後、西軍総出にて武蔵討つべし。これ即ち、戦略的撤退なり!
 大魔猿、跳躍す! 旋風たる武蔵の剣より逃れ、一目散に逃げを図ったのだ! その意図に気づくや、武蔵の顔が怒気に歪む!
「おのれ猿公えてこう、逃がすと、思うたかっ」
 武蔵は右足を蹴上げた。『寒椿』が矢の如く、秀吉に向かって飛んだ! 続けて左足の『盲夜』! 更に右手の『神薙』を投擲! 左手の『蓬莱』!
「ぐわっ」
 四本の刀が、一斉に秀吉に襲いかかる。『神薙』は秀吉の右手に! 『蓬莱』は左手に! 『寒椿』は左足! 『盲夜』は右足! 
 哀れなるかな、大魔猿。四刀に四肢を貫かれしその姿は、遥か西洋の故事にある、自らの身を神に捧げ大衆を救った"救い主"を思い出させた。
 武蔵が、ゆるりと、『無二』を手に取った。
 紅く染まった刀身が、まるで命を持つかの如くに脈打つ。
 武蔵は、『無二』を振り上げる。刀身に、恐るべき剣気が溜まっていく。
 大魔猿は、我知らず唾を呑んだ。
 裂帛の気合と共に、武蔵は『無二』を振り下ろした。刀身から放たれた剣気が、虎形を成して魔猿に襲い掛かり、喉笛に喰らいついた。
 これぞ『至天一流』五大魔技の一つ、『虎威狩とらのいをかる』なり。
 真紅に輝く虎は、獲物を咥え込みながらひたすらに上昇、天の高みに昇り行く。高く、高く、どこまでも高く。やがて空の青さは消え、夜と星の領域に踏み込んでなお、紅き虎は翔け続けた。そして。
 衝撃。音のない世界に、大魔猿の絶叫が響き渡った。怪物を叩きつけられた月が、ひび割れ、砕け散った。

 武蔵は残心した。そして微笑んだ。武蔵の心中、そこで蠢いていた飢えが、渇きが、ほんのわずか満たされた気がした故である。

 まさに、そのとき!

 武蔵は、かっと瞠目した。これは如何なることか、あの天の彼方に、恐るべき強者の匂いが漂い始めたではないか。何奴ぞ。
 そう、武蔵は知らぬのだ。遥か古代より天空に鎮座していた『月』なる星が、実はある種の安全装置であったことを。
 地上に生きる者共が、地べたを這いずり回る弱者たれば良し。もし彼らが知恵を、技術を身に着け、傲慢にも空の彼方を目指し、あまつさえこの『月』を傷つけるようなことあらば、大銀河秩序維持粛清連合軍、通称『外つ神アウター・ゴッズ』が粛清のため動き出す手はずとなっていることを。
 武蔵は知らぬ。
 されど武蔵は感じ取っていた。遥か彼方、『神』と呼ばれる絶対強者共の存在、その気配を。
「うは、うはははははっ」
 武蔵は笑った。腹の底から笑った。心底嬉しかったからだ。心底恐ろしかったからだ。心底喜ばしかったからだ。
 ひとしきり笑うと、武蔵は飛んだ。飛び立った。まだ見ぬ強者を求めて。
 そして武蔵は、星になったのである。

「武蔵」
 獨眼龍正宗が、ぼそりと呟く。その名を口にした途端、煮えたぎるような感情が政宗の内に到来した。
 それは、嫉妬であった。
「武蔵」
 政宗は、己の頬を掻き毟った。
「武蔵」
 悔しい。悔しい。悔しい。
 奴め、武蔵め。この獨眼龍を一顧だにせず、星の海へと飛んでいきおった。何故だ。この正宗では不足だとでも言うつもりか。おのれ、許さぬぞ武蔵。許さぬぞ武蔵、許さぬぞ。
「武蔵ぃっ」
 政宗は吠えた。眼下では、盟主を失った西軍が東軍に駆逐されつつあった。だがそれも、今の正宗には些事であった。政宗は吠え続けた。いつまでも、いつまでも。

 これが、関ヶ原合戦の真実である。

 後年、奥羽山脈の更に奥地にて隠居する老竜政宗を、若い武士たちが尋ねてきたときのことである。関が原より数百年、戦後に生まれた彼らは本物の戦を知らぬ世代であった。なればこそ、天下分け目の合戦の生き証人たる政宗に、往時の話を聞きに来たのであった。
 若者の一人が、正宗に尋ねた。関ヶ原では、何が起こったのか、と。
「関ヶ原と申すは」
 そこまで語ると、正宗の口がぴたりと止まった。若者たちが訝しげに眺める中、政宗は再び口を開いた。
「関ヶ原と、申すは」
 やはり止まる。そこで若者たちは気づいた。政宗がその独眼に涙を湛え、翼を震わせているのを。
「関ヶ原、せき、がはら」
 それ以上は、言葉にならなかった。肩を震わせて涙する政宗を見て、若者たちの目にも涙が浮かぶのであった。

 それからしばらくの後、政宗は静かに息を引き取ったという。天羽三年のことであった。

【完】

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ