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憧れる人間力

「素敵だな」と思う人がいます。
年齢、性別、職業など関係なく、あぁ自分には足りてないな、自分にもあったらいいなと思うようなものを持っている人。

あぁ素敵だなと心底感動して、あたたかい気持ちになって、優しいもののように思えて、どうしたらあんな風になれるんだろうか?と尊敬するような気持ちになります。

同時に、そんな憧れは「自分」を浮かび上がらせる力があるようで、自分の中に「足りなさ」を自覚する機会ともなって、”つん”とする気持ちになることも。

自分にないものを持っている人なんてたくさんいるし、その多くは普段気にも留めず気づきもしないのだけど、時に「あぁ素敵だ」とか「自分にはないな」と気づき、心を持っていかれるような気持ちになるんです。

それは、その人がどうだというよりも、その人を通して自分が価値を置いている大切な何か、ひっかかっている何かに気づく機会となって、それがあたたかさにも、”つん”とする気持ちにも繋がっていく。そしてその印象は、私の場合長く記憶に留まりがちです。

私には、何人かの「憧れの人」がいます。
老若男女、これまでの人生で出会ってきた人たちで、親しい人もいれば、一期一会の出会いだったけれど気づきをもらった人もいて、

長らく、そうした「憧れの人」になぜ憧れるのか分かりませんでした。
言葉にできるような、でも言葉にしてしまうと陳腐になってしまうような気もして、感じている感覚を適切に表現するのが難しく感じてきました。

難しい、と思っているのは今も変わらないのだけど、「憧れの人」の構成要素は、ひとつではなく、いくつかのことが重なっているように思います。

そのひとつが、「自分」と「他者」を分けて考えることができる、ということです。

自分と他者は違う。
この当たり前のことが当たり前にできることは、ものすごく難易度の高いことだと思います。

人間はみんな、自分の人生しか生きられない。見てきたこと、経験してきたこと、自分にとって影響の大きかった価値観。そういったものが自分の中でだんだんと輪郭を帯びてきて、軸となることもあれば壁となってしまうこともあります。

かと思えば、自分の中に形作られるそうした結界は、形を変えるのは一苦労なのに、なぜか他者の領域には簡単に侵入できてしまうものです。

「自分」と「他者」を分けて考える、ということは、
「常識」と「そのひとり」を分けて考えること、ともいえると思います。

常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう

アルベルト・アインシュタイン

自分が、自分が所属しているコミュニティー家族、学校、会社、地域、そういったところが持つ価値観は、大切に文化をはぐくむこともあれば、時に「ひとり」を無いものにする力があるように感じます。

私が憧れる人はいつも、何か相談をしたとき、雑談をしたときにいつも、「かずみはそうなんだね。」という言葉をくれた人たちでした。

自分と価値観がちがっても、背景がちがっても、それが自分とは違うものだったとしても、「ひとり」として目の前の人を扱うことができる。

普通はとか、常識がとか、性別とか、学歴とか所属組織とか、そういったことでまるっと丸め込んでジャッジしない。相手が言いたいことを自分の辞書にある言葉で判断するようなショートカットをせずに、その人の文脈に沿うことができる。

そんな大人になりたいです。


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