見出し画像

多様性ライクに生きるということ

こんばんは、駆け出し眼鏡です。何だか今日は「多様性」「ダイバーシティ」に関する記事を周囲で立て続けにみたので、「多様性」について書いてみようと思います。

ぼくは国際基督教大学という三鷹の森の中にあるような大学出身です。この大学は、帰国子女や留学生が多く、日本にしかいたことがない所謂「純ジャパ」と言われる学生が1/3程度しかいない不思議な大学なんです。そんな特性があるおかげかもしれませんが、もともと共通点が少なく国際色豊かな学生が多いため、多様性についてはかなりシビアな問題として扱う傾向があります。

そんな中で4年間生活をしていて、わかったことは「究極の多様性が担保されている状態というのは多様性を意識しないときではないか」ということでした。そしてそんな社会はなかなかやってこないので、今できることとして、**個々人が「多様性ライク」に生きることが大切なのではないか**と考えています。

究極の多様性とは
人間は本来的に多様な生き物です。当たり前ですが、同じ人間なんてものは一人としていないわけです。得手不得手も違えば、好きなものも違う。肌の色だって黒人とか白人とか関係なく、みんなそれぞれ違います。つまり、全員が別々の個性を持っているのだから、究極的には3人もいればすでに多様性は担保されているはずなのです。

なぜ「多様性」が問題として取り上げられるのか
本来的には多様なはずの社会で、多様性を邪魔しているのは、「みんな同じ」という幻想です。社会では、「日本人」とか「社会人」とかいう、所謂「想像の共同体」が周囲の人と自分は同じであるという意識を働かせています。

結果、より分かりやすいラベリングを用いて、多様性を担保しようという議論が出てきます。例えば「男性」はみんな同じだという時代遅れの幻想を抱えているから、「女性」を組織に入れなくてはいけないという議論になるわけです。

もちろんデータが示す社会的な差別を解消することは大切なことです。「女性」であることが理由で管理職になれないのであれば、そんな現実にはなにか対処をする必要があります。

ただ究極的な多様性を考えるのであれば、誰もが「みんな」の一人ではなく、自分個人として存在できるような状態が想定される必要があります。そしてそのとき、全員が違うということは「多様性」は意識すらされないはずなのです。

でもいきなりそんな社会はやってこないので、ぼくは自分が楽に生きる方法を考えることで、この社会を実現したいと考えています。それを今回は「多様性ライク」な生き方と定義しようと思います。

多様性なんて言葉がなくなるような社会がやってくれば、それこそが多様性が担保された社会なんじゃないでしょうか。

なんだか伝えたいことが上手く書けた気はしないのですが、一旦こんなところで終わりにしようと思います。優しい社会になりますように。

本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?