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大いなる仕事 (トランスヒューマニズムとメタバース その7)

訳者より:チャールズ・アイゼンスタインの長編エッセイ『トランスヒューマニズムとメタバース』日本語訳、今回の第7回で完結します。チャールズが前節で提起した並列社会では、トランスヒューマン人とヒッピー人が共存しますが、本節でそれはやはり「完全に信じていない」と明かします。ヒッピー人がトランスヒューマン人の物質的な実体の面倒を見るという未来で、訳者がまず想像してしまうのは核汚染の後始末です。エネルギーという抽象的な産物しか眼中にないトランスヒューマン人には、それが物質世界に取り返しの付かない害を与えてしまうことが見えません。ヒッピー人たちが、他の生命たちが再び花開くことができるように、自分たちの命を削ってテクノロジーの後始末をするというのはディストピアです。しかしこれも善悪対立というレンズでトランスヒューマン人を見ているからなのかもしれません。全てを中央集権の金銭経済に飲み込もうとするトランスヒューマニズムの衝動を乗り越えていく意識の「革命」とは、いったいどんなものになるのでしょう。この答のない問いに向き合うことをチャールズは私たちに呼びかけます。

目次
1. 進歩という福音
2. 香味が味覚を台無しに
3. 蜃気楼を追いかけて
4. バーチャル世界のバーチャル子供
5. 分断とインタービーイング
6. 並列社会
7. 大いなる仕事


7. 大いなる仕事

いま私たちが目にしているのは人類が2つの生物種に分解していく初期の兆候です。もし私たちが互いの選択を祝福し、互いの居場所を作る努力をしたらどんなことが起きるでしょうか? トランスヒューマン人とヒッピー人は互いを必要とし、互いの命を豊かにすることも可能かもしれません。ひとつには、制御の楽園は蜃気楼で、これからもずっと物質世界はロボットとAIが対処できないような仕方でメタバースに侵入し続けるからです。コンピューターのサーバーファームの屋根が雨漏りしたら、誰かが修理しなければなりません。トランスヒューマン人が人間の労働を機械労働で置き換えるという目標を完全に実現することは決してありません。しかし、抽象化と計算、数量に基づくテクノロジーを並外れた度合いにまで開発し、ヒッピー人がそのようなテクノロジーを必要とする困難に直面したような状況では、それを役立てることができます。そして人間超越の道すがら作り出した芸術と科学という素晴らしい果実を共有することもできます。

どちらの社会にも共通の課題があり、同じ地球に住んでいます。どちらかが繁栄しようとするなら協力し合う必要があります。おそらく最重要の共通課題は統治と社会組織についてのものです。現在トランスヒューマニズムのメタバースは全体主義の中央支配というニュアンスを帯びていますが、そうである必要はありません。中央集権のデジタル社会は簡単に思い描けますが、同じくらい簡単に中央集権のローテク社会も想像できます。多くの古代社会はまさにそのようなものでした。トランスヒューマン人であれヒッピー人であれ、独裁、市民の暴力、迫害という苦難の原因にあらがうことはできないのです。

じつを言うと、今書いたことを私は完全に信じてはいません。トランスヒューマニズムの必然である物質への支配は一貫して強まり続けてきましたが、これは社会の支配と密接に関係しています。この二つとも、進歩とは混沌に秩序を押し付けることなのだという同じ世界観から発しています。世界経済フォーラムの新たなメタバース構想に名を連ねている60の「利害関係者ステークホルダー」は全て大企業で、8千億ドルの価値をもつ産業の分け前にありつきたくて仕方がないということを考えれば、メタバースのテクノロジーが企業政府複合体の権力を拡大強化するために使われるのも当然だと考えることができます。

よく言われるような「テクノロジーは中立だから、それは使い方しだいだ」ということではありません。テクノロジーには発明した人の価値観と信念が込められています。それは社会的文脈に現れ、社会のニーズを満たし、野心を実現し、価値観を具体化します。不適切な発明は隅に追いやられるか抑圧されます。そのようなテクノロジーのいくつか、たとえばホリスティックな健康維持にかかわるものなどは、公式な現実の周辺地帯で成功をおさめます。他の、たとえばフリーエネルギー装置などは、非実在という奥地に放置されます。権威が真実だと信じる知識とあまりにも激しく矛盾しているからです。そのどちらもが、特定の価値を持たないわけでもなく、それが置かれたシステムと無関係なわけでもありません。どちらも民主化をもたらします。前者は、必要な専門知識やハイテク設備がはるかに少なく、医療を人々の手に戻します。後者は文字通りパワー[つまり電力と権力]を脱中央集権化します。

対照的に、トランスヒューマニズムの医療テクノロジーの多くは一般人に消費者という役を割り当てます。この薬を飲みなさい。この注射を打ちなさい。この装置を体内に埋め込みなさい。

とはいえ、いま書いた「私が完全に信じていないこと」には真実が含まれています。テクノロジーに込められた価値観とは関係なく、どんなテクノロジーを採り入れたり拒んだりするかということよりも根本的な選択に、私たちは直面します。人々が監視テクノロジーを政府に直接向けたなら何が起きるか想像して下さい。企業や政府による人々の監視を逆さに向けるのです。政府の意志決定や支出が完全に透明だったらどうなるか想像してください。この考えはテクノロジーよりも根本的な原則のひとつへと繋がります。それは透明性です。石器時代でもデジタル時代でも、嘘や噂話、秘密主義、情報統制が、あらゆる社会を地獄に変えるかもしれません。非人間化があらゆる社会を血生臭い屠殺とさつ場にえるかもしれません。善悪対立の物語があらゆる社会を戦場に変えるかもしれません。

それが意味するのは、トランスヒューマニズムに警鐘を鳴らす私たちのような人々には、あるテクノロジーや政治権力に単に反対するよりも大きな仕事があるということです。敵と思っていた人々と併存する制度を作るよりも大きな仕事です。私たちヒッピー人は多少なりともテクノロジーを縮小するかもしれません。私たちはインターネットや、自動車、パワーショベル、チェーンソー、猟銃を使い続けるかもしれません。あるいはもしかすると、数世代をかけて返上していくのかもしれません。もしかすると家の基礎を再びツルハシとシャベルで掘るようになるのかもしれません。もしかすると自転車やロバに戻るのかもしれません。しかし、単に過去に戻るという未来に、私は興奮を覚えません。分断を目指す旅が実現した奇跡のようなテクノロジーがここに存在するのは、理由あってのことなのは確かだと思います。孤独な牧笛ぼくてきの純粋なメロディーに比べたら、交響楽団の価値が低いというわけではありません。そのどちらもが、物質との愛を表現しているのです。

ですからここでの問いは、いま私たちが前にしている、どんなテクノロジーの文脈にも共通する大いなる仕事とは何なのかということです。全体主義的な医療とデジタルの牢獄に誰も置き去りにしないような、本当の革命とは、意識の革命とは何なのかということです。

今のところは、このような問いに簡潔で整然とした答を示さないでおきます。その問い自体が答よりも強い力を持っていて、あらゆる人間への思いやりへと私たちを招き入れます。相互存在という真実へと私たちを連れ戻します。私たちが友を見捨てていないのと同じように、神はけっして私たちを見捨てないということを思い起こさせてくれます。もしこの状況に望みがないとしたら、私たちがここに存在することもなかったはずだという見識に、私たちを共鳴させてくれます。自分たちは何者で、なぜここにいるのかを、人とは何で、なぜ人であるのかを、考えるように私たちを促します。この「革命」が何であったとしても、ここまで深いところに達するのは確かです。

ですから再び問いかけます。私たちの前にある大いなる仕事はいったい何でしょう? あなたの正義感をどれほど満足させてくれるとしても、それは違うとあなたの魂で分かるような答は断固として退けましょう。目的の明確さが育つ余地を残しておくために、判断は穏やかにしましょう。大いなる仕事が与えてくれる喜び、安らぎ、ユーモアを見つけたときは感謝しましょう。私たちはこれを実現できるという見識に自信を持ちましょう。物質と肉体の世界との愛を新たなものにすることを喜びましょう。

(おわり)


原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse


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