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戦い

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


ここまでに述べたことは、地球上の生命に恐ろしい災難が起きていることを否定するためではありません。今も誰かが木々をブルドーザーでなぎ倒し、湿地を干拓し、底引き網で魚を獲り、水や空気や土を汚染しています。いずれの場合も、その誰かとは人間なのです。

環境破壊の多くは大企業の指示で行われるので、敵として企業の名を挙げるのはもっともなように見えます。人の道に外れた企業の行いを白日の下に曝せ! 企業の責任を問え! 実効性のある罰則で企業の犯罪を防げ! 企業の献金を政治から排除せよ! そうすれば私たちは企業の行き過ぎた悪事を少なくとも減らすことはできます。

この主張は現在の状況の下では妥当ですが、私たちがまさに変えなければならない物事を、変えられないものとして認めてしまいます。詳しくは本書の後段で書きますが、今のところは一般論を示しておきます。敵が限りなく発生するよう仕組まれたシステムの中にあなたが生きているとき、敵と戦うのは無駄なことです。それは際限ない戦争の処方箋です。

それを変えようとするのなら、私たちが捨てなければならない依存の一つに、戦うことへの依存があり、これは化石燃料への依存よりも根本的なものです。これを捨てれば、戦う敵を際限なく生み出す素地になっている条件を分析することができます。

戦うことへの依存は、世界がたくさんの敵で成り立っているという認識から来ています。世界を形作っているのは、エントロピー増大に向かう冷酷な自然の力と、私たちを押しのけて子孫繁栄や経済的成功への利己心を追求する敵対的な競争相手です。競争者の世界では、幸福は優越によって得るものです。気まぐれな自然の力の世界では、幸福は支配によって得るものです。戦争は支配のメンタリティーの最も極端な形です。敵を殺せ。草を、害虫を、テロリストを、細菌を殺せ。そうすれば問題は最終決着です。

ところが決してそうはなりません。第一次世界大戦、いわゆる「全ての戦争を終わらせるための戦争」のすぐ後に、もっと恐ろしい戦争が続きました。ナチスの敗北やベルリンの壁崩壊の後も悪は消え去りませんでした。しかしソビエト連邦の崩壊は、敵を通して自分を定義していた社会にとっての危機となり、その後の1990年代初頭には新たな敵を必死になって探し出し、しばらくの間は「コロンビアの麻薬王」という頼りない候補者を立てましたが、間もなく「テロ」に落ち着きました。

対テロ戦争によって、戦争作りの上に築かれた文化は息を吹き返し、ほんとうに永続する戦争が始まったように見えました。軍産複合体にとって残念だったのは、一般市民がテロをひどく恐れることは少なくなっていくようなので、恐れの風潮を維持するためには新たな脅威が次から次へと必要になることでした。ここ数年の恐怖を煽るキャンペーンは(ロシアのハッカー、イスラム教テロ、エボラウイルス、ジカウイルス、アサド大統領の化学兵器、イランの核開発計画など、ほんの一部の例ですが、)実際には効果がなかったと断言するのは難しいことです。少なくともメディアは警鐘を鳴らし、「ジカウイルスと戦う」ためにフロリダ州で大規模に薬剤散布を行ったように、一般市民はこの宣伝キャンペーンが正当化する政策を支持したように見えます。しかし(これはある意味で私のカウンターカルチャー運動の役割でもあるのですが)、これらの物事に対し人々が実際に恐怖を抱いているのを私はほとんど目にしておらず、私の子供時代に極めて一般的だったソビエト連邦の目に見える恐怖には比べるべくもありません。一般市民は恐怖の利用など当局の言うことをほとんど何でも軽視するのです。市民の無関心のおかげで権力を持つエリート集団は市民支配を進めることができますが、本当の恐怖を操作し利用することはもうありません。政治支配層以外でイランやバッシャール・アル=アサド大統領やウラジーミル・プーチン大統領を実際に恐れている人がいるでしょうか。政治家でさえ政治的ポーズとしてうわべだけの警告を示すことはあっても、恐れなど抱いていないのではと言う人もいます。

脅しの戦術が持つ警告の力を私がここで取り上げるのは、生態系の崩壊を止める努力が、まさにこれと同じ脅しの戦術の多くを使っているからです。気候変動の根本的な物語はおおむね次のようなものです。「私たちの言うことを信じなさい。私たちが急いで大きな変化を起こさないと悪いことが起きます。もうほとんど手遅れです。敵は目前まで迫っています!」私が問い直したいのは、私たちは恐怖に基づく利己心への訴えで一般市民を動かすことができるし、そうすべきだという思い込みです。その反対は何でしょう? 愛への訴えかけはどうでしょう? 地上の生き物にはそれ自体で価値があり神聖なのではないでしょうか、それとも私たち自身にとっての利用価値しかないのでしょうか?

気候変動反対運動は、戦争の物語、戦争の例え、戦争の戦略に満ちています。その理由は、「分断の物語」の根深い習慣を別にすれば、人々が戦時に見せるような情熱と献身を駆り立てたいという欲求です。戦争の言葉のひな形を使って、私たちは人類存続への脅威をかき立てます。

それが上手くいっているとは思いません。私の文章のタイトルとして「気候変動」という言葉を使うのを私は躊躇します。以前その言葉を使ったとき、ある読者が「タイトルに気候変動の文字があったので私はあなたの投稿を読む気がしませんでしたし、同じ言葉を何度も何度も聞かされるのにはウンザリしています」と書いてきました。

たぶん私たちは戦争に疲れてきたのです。あなたをもう一つの戦いに参戦するように追い立てるため、もっともっと激励する必要があるのでしょうか? あなたは燃え尽きて、どんなに新たな恐怖を見せられても2〜3年前と同じように関わる気が起きないという経験をしたことはありますか? 燃え尽きは活動家のたどる末路のようですが、迷宮で道に迷った男の物語が暗示するように、それは全く異なる関与のあり方へと至るために必要な通過儀礼ともなりうるのです。

私の友人のパット・マッケイブは、デネ(ナバホ)族の女性で、ラコタ[スー族の言葉で「友人、同盟者」]の道を長く学んでいますが、こう表現しています。「持てるものが尽き果てたとき、魔法が起きるのです。」私たちの知識が役に立たなくなるとき、私たちにとって未知のことが可能になるのです。

地上の生き物の破壊の跡を目の当たりにして悲しみに胸を裂かれる思いに打ちひしがれたなら、私たちが「戦いを諦める」などという提案に腹を立てるのも無理はありません。戦争メンタリティーに足を踏み入れた人にとって、戦いを諦めるのは行動から撤退することを意味します。私が提案しているのは、私たちが別の意味で戦いを諦めることです。それは大地を癒す努力を導く指針としての戦いです。それでも戦いは残っているかもしれませんが、問題を平和の観点から捉えるなら、私たちははるかに大きな癒しの力を手にするでしょう。

明確な目標を達成するための大戦争は第二次世界大戦が最後だったと、よく言われます。それ以来、軍事衝突は多くのばあい膠着状態や泥沼化、あるいは強者の側の敗北で終わりました。たとえば、米国のアフガニスタン戦争の失敗は兵器が劣っていたからではありません。その目的にとって兵器は不十分で、武力によって達成できるものではないということです。邪悪な独裁者や侵略者から人々を救うというのが明確でなければ、銃と爆弾が安定をもたらし、「心をつかむ」、あるいは一国を米国支持に回すことはほとんど不可能です[5]。メディアがベトナム戦争以降の全ての紛争で試みてきたように、戦争を正当化するために、私たちはあらゆる状況をその筋書きに当てはめなければなりません。

同じことが非軍事の戦争にも当てはまります。私がこれまで生きてきた間に、貧困戦争、がん戦争、薬物戦争、対テロ戦争、飢餓戦争、そして気候変動戦争が宣戦布告されるのを耳にしました。このどれひとつとして、イラク戦争よりも効果的だったためしがありません。

もし気候変動に対する「戦い」が戦争なら、どちら側が勝つかは明らかです。温室効果ガスの排出は、1980年代後半に問題として初めて広く知られるようになって以来、容赦なく増加してきました。以前から続いていた森林破壊が、それ以降で加速した所さえあります。化石燃料依存の基本的な社会基盤を変えていくことが、わずかでも進展したことはありません。もし戦争がただ一つの答なら、私たちはさらに激しく戦うという対応をしなければなりません。もし別の道があるなら、戦う習慣は勝利への障害物になります。

生態系破壊の場合では、戦争のメンタリティーは癒しへの障害物であるだけではなく、問題の秘部でもあるのです。戦争はある種の還元主義に基づいています。戦争は、(自分自身を含む)複雑に絡み合った原因を、敵という単純で外部的な原因に落とし込みます。さらに戦争は、敵を堕落した人間の戯画へと落とし込むことに頼るのが常です。敵の悪魔化と非人間化は、生態系破壊が自然の非神聖化を頼りに行われるのとほとんど違いません。自然を崇敬と尊敬に値しない他者に貶め、優越し、支配し、意のままに操る対象に貶めるのは、人間を非人間化し搾取するのと同類です。

自然への尊敬は、人間を含むあらゆる存在への尊敬から分かつことができません。他方を無視して一方を育てることは不可能です。したがって気候変動は、単に私たちがエネルギー源を変えるよりも大きな変化を、私たちに呼びかけているのです。気候変動は、自己と他者との根本的な関係を変えるよう呼びかけています。それは人類の集団的自己とその「他者」である自然との関係を含みますが、これらに限定されるものではありません。

哲学に関心のある読者ならこんなふうに抗議するかもしれません。自己と他者は実際には別々ではなく、人間と自然の区別も人工的で誤った破壊的な二分法であって、近代精神の発明なのだと。じっさい、「自然」という独立したカテゴリーが示唆するのは、私たち人間は自然ではなく、したがって自然の法則から自由になる可能性のあることです。根底にある哲学が何であれ、変わろうとしているのは私たちの神話です。私たちが自然から切り離されていたことは一度もありませんし、これからもないでしょうけれど、この世に大きな勢力を持った文化では、人間自身を自然とは別で、いつかは自然を超越する運命にあると、これまで長らく想像してきました。私たちは分断の神話の中に生きてきたのです。

分断の神話の中には、自然は物であるという信念があり、言い換えれば、人間だけが完全な自我を持っているという信念です。これは自然の生き物を私たち自身の目的のために搾取する許可を私たちに与えるもので、茶色い肌の人々を非人間化したことで白い肌の人々による奴隷化に許可を与えたのと同じです。

大きな勢力を持った文化において、誰を完全に主体的で、意識を持ち、尊重すべき自己と見なすかという認識は、これまで数百年にわたって拡大を続けてきました。2〜3世紀さかのぼれば、資産を持つ白人の男性だけが完全な主体でした。次にそのカテゴリーは全ての白人男性を含むように拡大しました。ついには女性や非白人を含め再び拡大しました。その後に動物の権利運動が起こり、動物も意識と主体性、精神生活を持ち、したがって単なる獣や食肉製造装置として扱うべきではないと主張しました。もっと最近になって、植物の知性、菌糸体の知性、土壌の知性、森林の知性、さらに水さえも複雑で動的な情報パターンを保持し伝達できるという驚くべき科学的発見が明らかになりました。これらの発見は、あらゆる物は生きていて意識があるという普遍的な土着の信念へと合流しているようです。

頑迷な偏見と生態系破壊のどちらも他者の非人間化や「非自己化」に基づいているように、この同じ動きの2つの側面を「相互共存(インタービーイング)の物語」に向けて逆転させることも同様です。ここでもまた、この言葉は単なる相互関連性や相互依存性を超えたもので、他のあらゆる存在と世界全体に実存的に結びついていることを意味します。私の存在そのものが、あなたの存在の一部に加わっていて、クジラやゾウや、森や海の存在に加わっています。彼らの身に起きることは、私の身にも何らかのレベルで起きます。種が絶滅するとき、私たちの中でも何かが死に、私たちが住む世界の窮乏化から逃れることはできません。

これは生態系、経済、政治の健全性にも等しく当てはまります。一国の富は他国の略奪の上に築かれるという植民地主義と帝国主義の時代は、衰退しつつあります。人間の富は自然の略奪の上に築かれると考える時代も、ほとんど終わりに近付いています。確かに、この2種類の略奪の外向きの構造はこれまで以上に強固に見え、新たな極みへと拡大しているようにさえ見えます。しかし、そのイデオロギーの中核には穴が開いています。私たちの上に合流しつつある危機は、人類を新しくも古い相互共存の神話へと導き入れようとしているのです。

後ほど私は、気候危機の現実は私たちの共通認識とは異なることを論じます。ですが認識は大切です。気候変動の中心的な真実とは、私たちが一時代の終わりにいるということです。私たちは「分断の時代」の終わりにいます。この移行期はこれまで3世代にわたって進行してきたもので、その始まりは、およそ考えられる全ての支配技術の中で最も極端なものが「全面戦争」のまさに絶頂で使われたときでした。私が言っているのは、もちろん原爆のことです。

「戦争の時代」は厳密には1945年に終わりを迎えましたが、そのとき人類は史上初めて恐ろしすぎるが故に使うことができない兵器を開発しました。原子爆弾の身の毛もよだつような2回の使用によって、数十年に及ぶ「相互確証破壊」へのお膳立てがなされ、それは私たちが「他者」に対して行うことは、私たち自身に対しても行うことになるという、進化の認識のかすかな兆候でした。史上初めて、大国間の全面戦争は不可能になりました。現在、反社会的な少数派を除けば、報復がありそうもない場合でさえ核兵器の使用を真剣に考える人など誰もいません。放射能の吹き返しを考えれば大規模な使用はありえませんが、私たちを思い留まらせるものはもう一つあります。おそらく私たちは良心や道徳を挙げるでしょうけれど、良心や道徳だけでは愚かで恐ろしい行動を止めるには不十分だということを、歴史が悲しいほど明らかにしてくれます。そうではなく、何か別のものが変化したのです。

変化したのは、大きな勢力を持った文明の中に相互共存の意識が芽生えつつあるということだと、私は確信します。私たちが「他者」に対して行うことは、私たち自身に対しても行うことになる。これが次の文明を特徴付ける理解になります(もしも次の文明があればの話ですが)。いま私たちは(本書で「私たち」と言うとき、私は地球上で大きな勢力を持った文化のことを指します)、相互共存の課程の第2課を学んでいます。第1課は原爆でした。第2課は気候変動です。


注:
[5] 最近の戦争の本当の目的は、混乱の種をまき、主権を持つ政府が新自由主義の自由貿易政策と帝国主義の地政学的目標に抵抗する能力を破壊することだと主張する人もいます。その分析では、ユーゴスラビアを分断した戦争やリビアを破壊した戦争などは大成功だったことになります。それでもなお、私たちが望むと言っていること、望むと信じていることを達成するために、戦争の道具は無能になりつつあるという点は妥当です。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-fight/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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