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自然の売買

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


ちょっと想像してみてください。あなたを生かすも殺すも私しだいという権力を私が持っていたとします。私があなたを生かしておくべきなのは、あなたが死んでいるよりは生きている方が私にとって価値があるからでしょうか? 生かしてあげればあなたは嬉しいでしょうけれど、安心はできません。経済状況が変わったらどうなるでしょう? 私にとってあなたの価値がなくなったらどうなるでしょう?

これは無駄な憶測ではありません。地球全体で見ると、命を与えるための資源は世界経済にとって「価値ある」者のところへ配分されます。ある人の貢献が商品や換金できるサービスに結びつかなければ、その人は生きていくのが難しくなります。従来の経済学の見方では、その人の価値は生きていようが死んでいようが同じということになり、そのような階層は増大しています。その人が他の人々と等しい価値を持つと言えるのは、私たちが金銭以外のレンズで人を見る場合だけです[6]。

あらゆるものの唯一性と神聖さは、数字の束へと落とし込まれると消えてしまいます。

人身売買という極端な例で、それが引き起こす荒廃が浮き彫りになります。従業員や消費者という役割を担うとき、私たちはみんな薄まった人身売買に見舞われます。私たちが金銭的価値で見られると、その価値に影響しない限り私たちの幸福は問題でなくなります。この論法が明らかに現れるのは従業員健康管理制度の議論で、より良い健康によるコスト削減を引き合いに出します。それもいいでしょう。でも、健康の利益よりコストの方が上回ったらどうなるでしょう? その同じ論法が、健康を犠牲にしろといいます。それがしばしば起きるのは、対策に多額の費用を要する健康被害を会社が発見したときで、「成り行きに任せておこう」ということになります。

あらゆる生き物を、利用価値ではなくそれ自身として愛すること、これこそが革命だということを理解していただけないものでしょうか? そのことに心を開くと、変わるのは私たちと自然との関係だけではありません。人間を利益のため、つまり利用価値のために搾取することを土台に作られた私たちの経済システムを変えていくことも意味します。あなたはたぶんそのように扱われたくはないでしょう。他の誰かの利己心の道具として、消費者として、従業員として、お金が尽きるか生産性がなくなったらその価値は終わりです。自然の生き物たちもそれを望んではいません。搾取という物の見方のあらゆる現れは、お互いの姿を反映し合い支え合っているので、歩調を合わせて変わらなければなりません。それが、いま進みつつある全ての革命は同じ革命である理由です。

人身売買にいえることは、自然の売買にも当てはまります。政治・経済的な論法が人間について言うのと同じように、炭素勘定の論法からこのように言うことができます。「この土地はあの土地より重要性が高い。この生物種はあの生物種より価値が高い。」もちろん次の段階は、私たちが数字に基づいて価値が低いと考えるものを犠牲にすることです。

数量化と収益化は手を取り合って進みます。何かを一つの尺度で評価してしまえば、それを別の尺度、つまりお金に移し替えるのは簡単なことです。低炭素が環境に優しいことと同じだとしてしまえば、環境とお金をすり合わせるため炭素に値段を付けることができます。これが「生態系サービスを収益化」する施策の背後にある基本的な論法です。

これは、サイエンティフィック・アメリカン誌の小見出し『魚が海への二酸化炭素貯蔵を助け、全世界で何十億ドルもの被害を防ぐ』に代表されるような、環境保護派の著作ジャンルの背後にある論法でもあります[7]。この記事は外洋の魚が毎年740億から2200億ドルの気候関連被害を防ぐことを示す研究を紹介しています。これは水産業の経済価値を大きく上回るので、漁業政策を変えるべきだと記事は結論します。

お金を節約しているとは、魚はラッキーです。病気より健康な方が利益になるとは、従業員はラッキーです。経済的に価値あるサービスを提供しているとは、ミツバチはラッキーです。でも私たちのメーターに低い値しか示さないものたちにとっては、お気の毒なことです。

珍しい鳥を見たり、動物と間近で出会ったり、湖上にワシを見たり、海でクジラの潮吹きを見たりしたときの、魔法にかかったような感覚がわかりますか? そういう生き物たちがいなくなるとどれだけ貧しくなるか数値化できますか? どうです、数字を出してください。そうすれば保護する価値があるかどうかが分かります。

海には守る価値があるかどうか迷っている人のために、世界自然保護基金が金銭的価値を計算しました。24兆ドルです[8]。経済的動機を生態系の健全性にすり合わせようとしているのは明らかです。動機は立派です。でもこのような査定が促すメンタリティーのことを、ちょっと考えてください。それは次のようなことを含んでいます。

1. お金は海のようなものの価値を査定するための正当な方法であること
2. 予測できる金銭的な利益と損失に基づいて地球についての意思決定を下すことが可能であり、そうすべきだということ
3. したがって、もし私たちが海をぶち壊して24兆ドル(あるいは48兆ドルでも)を上回る利益を上げられるなら、そうすべきだということ
4. そもそも海が人間の幸福に与える貢献を予測し計算することが可能なこと、私たちは十分な知識を持っているからこの査定を下す資格があるということ
5. あたかも他の部分から独立した表計算の一行であるかのように、海を地球の他の部分から分離できること。であるなら、失った海を他の収益源で埋め合わせることができるかもしれない。
6. 海についての意思決定は人間に対する影響をもとに下すべきであること、また海自体とそこに生きる全ての生き物は固有の価値を持たないこと。重要なのは経済価値、つまり私たちにとっての価値だ。

明らかに、このメンタリティーは問題の一部です。今この瞬間にも私たちはお金のために海をぶち壊しています。そうやって何兆ドルの利益を上げているのか私には分かりませんが、1万頭のアザラシの死体がカリフォルニアの海岸に打ち上げられたり、ニュージーランドで数百頭のクジラが浜に打ち上げられたり、プラスチックを飲み込んで窒息した海鳥や、消えゆくサンゴ礁のことを読むと、どれだけ多くの収益を上げたとしても十分でないと私には分かります。

測ることも値段を付けることもできないものがあることを私たちは理解する必要があります。これは現代の支配的なイデオロギーと矛盾します。科学によれば測定できないものはなく、経済学によれば値段を付けられないものはないのです。したがって、定量的な思考法の範囲を拡大し精度を上げれば技術を通して世界を征服でき、市場取引関係の領域を拡大すれば効率的な富の生産を最大化できると、私たち(つまり、大きな勢力を持った文化)は信じてきました。

ではなぜ、私たちの支配の技術がますます強力で正確なものになっているのに、世界は手に負えない状況に陥っていくように見えるのでしょうか? ではなぜ、全世界のGDPが史上最高を記録しているのに、私たちが経験するのはますます深刻な貧困なのでしょうか? そしてその貧困からは金銭的に裕福な人でさえ逃れられません。その原因は、私たちの計測から取り残されたもの、計測が難しいもの、計測できないものにあります。美しさ、喜び、苦しみ、目的、痛み、神聖さ、満足感、遊び…、そして浜辺に打ち上げられたアザラシの光景。他の目的にとって役に立たないとしても、これらが人生を豊かにしてくれるのです。

皮肉なことに、道具的功利主義の物の見方は、あらゆるものを私たちにとっての利益で評価しますが、私たちにとって利益にさえなりません。それを「分断の物語」の中で説明するのは難しく、もっと上手くやる必要があると言ってやれるぐらいでしょう。私たちの利益のために他のあらゆるものを搾取するとき、私たちはもっと賢く近視眼的にならないようにしなければならないと。でも「相互共存(インタービーイング)の物語」ではその理由が明らかです。親密な関係性の世界では、一人への危害は全員への危害です。私たちが支配しようと努力しても必ず限界があり、私たちが計測し予測しようと努力しても決して完全にはなりません。

数字には数字の役割がありますが、この地球上で値段を付けられないものを守ろうとするなら、計算に頼るわけには行きません。思いがけない悪影響も正しく数値化すれば私たちはこれ以上の損害を出すのを思いとどまるだろうと想像することで、自分自身を脅して慈悲心を起こさせることはできません。(そもそも利己心への恐れこそが慈悲心を阻むのです。) お金をいくら節約できるか気付きさえすれば私たちは海の世話をするようになると期待することで、自分自身に賄賂を渡して愛の心を起こさせることはできません。金銭的な心が生み出した破壊から、金銭的な心が私たちを救い出すことはありません。

持続可能性を推し進める手段として有用性に訴えると、私たちは有用性に基づいて判断を下すのが普通で正しいことだと暗黙のうちに肯定することになります。それが逆効果なのは、多くの場合、あなたが企業であれ消費者であれ、あなたにとって数字で計算できる当座の有用性を持つものこそが、地球を傷つけているからです。私たちの文化が形作る利己心は、鉱山会社に「あの森を剥ぎ取って露天掘りをしろ」といいます。あなたには「露天掘りで採掘した鉱物で作ったスマホを買え」といいます。そして、どこか別の場所に森林を植えれば、たぶん失われた炭素吸収源を帳消しにできるといいます。それはまた、遠慮なく搾取するよう私たちを誘惑します。その理由は、実際に私個人にとっての有用性に貢献するのは、私ではなく誰か別の人が手放した鉱物、利益、スマホだからです。

もし森があなたにとって神聖なものなら、あなたにいくら払えば切り倒しても良いでしょうか? どれだけ払っても十分ではないのは、あなたの母親や子どもを殺すために差し出させるのに、どれだけのお金を積んでも十分ではないのと同じです。森林などの生態系の価値を炭素隔離能力の数字に置き換えると、価値は単にそれだけ、ただの数字になり、限定されたものになります。より価値の高いもので置き換えられる限り、森を使い捨てにしてもよいことになります。

お金の議論は、(自分の内であれ外であれ)数字の計算ばかりしている人のガードを緩め、地球への愛から行動するのを許すぐらいが関の山です。「それでいいよ、経済的にも意味がある。」残念ながら、それが永続させる考え方は、生態系は根本的には「サービス」の供給源であって、地球は私たちのためにあり、私たちにとって利用価値があるから大切なのであって、それ自体に価値があるわけではないというものです。エコロジーの革命はもっと深いものでなくてはなりません。


注:
[6] 従来の経済理論は、次のような論法で経済的価値を社会に対する価値と同じだと見なします。その人の貢献が求められ必要とされるなら、その寄与に対して支払う意思が人々にあることがわかる。その人の貢献が求められていなければ、市場は見つからない。最も多くお金を儲ける人がそうするのは、最も多くの価値を作り出すからだ。この議論の欠陥はあらゆる量的な価値体系にまつわる問題と同じです。使われる尺度(お金、二酸化炭素など)は正確で完全な価値の指標ではないかもしれません。

[7] ハーボール(2014)。

[8] ホゥ・グルベルグら(2015)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/nature-trafficking/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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