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カラマーゾフの兄弟(1879)/ドストエフスキー(ロシア)①

はじめに

20代前半に初めてこの本に出会い、この上なく強い印象を受け、読む時期があったり、無かったりしたものの、精神的な側面から言えば、文字通りの”聖書のように”、いつも自分の傍にあったこの小説について、
いま思い浮かぶ限りの、断片的な記録を書きたいと思う。

あらすじ

あらすじではないですが、まず作者が意図していたこの小説の位置づけについて…

わが主人公、アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの伝記を書き起こすにあたって、わたしはいささかとまどいを覚えている。
(中略)
だが、困ったことに、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。重要な小説は二番目のほうで、これは、すでに現代になってからの、それもまさに現在この瞬間における、わが主人公の行動である。第一の小説はすでに十三年前の出来事で、これはほとんど小説でさえなく、わが主人公の青春前期の一時期にすぎない。だが、わたしとしては、この第一の小説を端折ってしまうわけにはいかない。なぜなら、第二の小説の多くのことが理解できなくなるにちがいないからだ。

カラマーゾフの兄弟(上)p9/”作者の言葉”

つまり、私たちが手にするこの”カラマーゾフの兄弟”は、主人公のアレクセイ(以下:アリョーシャ)の伝記として綴られる大長編の前半部、あるいは、本編で綴られるアリョーシャの魂の変遷の、ただその背景を示す為の物語であるかのように示されている。

しかし、”およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品(小林秀雄/評論家)”と評されるように、小説としては独立した一つの完成を見せ、他に類のない数々の深淵な思想が収められている。

さて、あらすじについて、

題の通り、カラマーゾフの三兄弟(+私生児)と父が、それぞれの個性を際立たせながら、”長男ドーミトリィによる父の殺害(本当は私生児スメルジャコフが殺害した)”という大事件に至っていく。
物語の中でも、”カラマゾフ的な”という言葉が用いられる通り、カラマゾフ家の血縁こそが、各々のキャラクターを際立たせ、またその際立った性質の衝突の為に、大波乱を迎えるかのように描かれる。

 長男ドーミトリィは、生来の女性に対しての一種の節度のなさ、また、放蕩の末の粗暴さが、物語の中で多くの悲劇を生むことになり、最後には実の父を殺害したとして、有罪の判決を受ける。
 次男イワンは、鋭い知性、独自の高遠な思想を持つ青年であり、
”神とその世界に対する問題”の中で揺れ動く魂が、また、”召使スメルジャコフの父親殺害を陰で望んでいたのではないか、それに加担していたのではないか”という狂おしい良心の呵責が、本物の病気へと、発狂へとつながっていく。
 そして、苦境に陥る二人の兄に深く同情する主人公の三男アリョーシャの物語には、神への熱烈な信仰と、後編に続く不信仰のきっかけと示唆される、いくつかの事情が明らかにされる。


あらすじだけで終わるのは変ですが、
次回から気の向くままに書きたいことを書いていきます。

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