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【小説】捨て忘れた色 「犠牲」

「捨て忘れた色」ベースシナリオのどこかに入る物語です。

犠牲

 彼は10日ほどこの病院に入院していた。それも意識が戻ってから10回目の朝日を数えた、、というだけで、実際それ以上入院しているのかもしれない。今日が何曜日かも分かっていないし、今のところそれを確認する気力もなければ、必要もなかった。
 今でも身体中に麻痺のような症状が痛みとともに出るため、時折足をひきづりながら病院の中を歩き回ってリハビリを続けていた。

 ベッドの上で意識が戻った時、ちょうど院長が隣の椅子に座って新聞を読んでいた。目は開けたものの、状況が分からない彼に気づいた院長は、軽く目配せをしただけで特に姿勢も変えず、
 「おかえり…。君は、、犠牲になることになった」
 あっさりと伝えて、また新聞に視線を戻した。
 彼は目が覚めたというだけで、何の状況も把握できていないが、院長のことはすぐ認識できたようだった。
「誰の犠牲になるんでしょう?」
 何となく聞いてみたが、院長は新聞から目を離さなかった。
「犠牲とは、誰か決まったひとに、というような世界ではない」
 それだけ言うと、院長は再び黙った。
 彼は院長の言葉に心底納得し、再び眠った...。

 彼はリハビリをしながら、少しずつ動き始めた体と脳みそを自覚していた。
 気を失う前にも確か、あの院長がいたことを思い出し、もう一人誰か近くにいたことを思い出した。 それが誰かを思い出そうと、毎日リハビリを続けていたのだが、この日、歩いていて左足に痛みが走ったと同時に、自分には「仕事」があった、、、それを思い出した。

 そうなるといてもたってもいられず、久しぶりに仕事に行く用意をした。
 その時、既に彼は院長を失ったような気がしていた。
 腕時計を見るとちょうど8時25分であった。
 病院を出てしばらく歩いたが、全く見覚えのない道が続いた。しかし仕事には行かなければならない。彼はその道を勘だけで、急いで歩いた。何かしら、どうしても今日の仕事には行かなければならない、という義務感に駆られていた。
 その知らない道で、彼の方に歩いてくる親友を見つけた。彼も親友に向かって歩き、急ぎながらも笑顔を作った。
 「よう...」と一声かけたが、親友は彼の顔を見ると、その挨拶を無視した。彼はそれ以上声をかけようとはしなかった。ただ、親友を一人失っただけである。
 彼は職場に急いだ。見覚えのない道ではあるが、足が勝手に彼を運んでくれた。
 ...ようやく職場へと辿り着いた、、、その時にはもう遅かった。職場の同僚はオフィスから次々と出てきた。もう仕事は終わったのか、と彼は聞こうとしたが、誰も彼を気にする様子もなく、立ち止まる人もいなかった。しかし悲しくもならなかった。ただ、同僚がいなくなっただけである。
 そのままオフィスに入り、見回したところ、一人だけ淡々と仕事を続ける上司を見つけた。その上司も彼とは目を合わさず、ひたすらモニターを見ながらキーボードを打ち続けた。話しかけようと上司の机の近くまで足を運ぶと、上司は彼の存在にようやく気づき、気づいたかと思うと急にパソコンを畳んで外に出ていった。
 後には、淡い孤独に包まれた彼が何も書かれていない白板の前にたたずんでいる。彼はこの時間中にほぼ全ての人を失った。そしてそれは彼にとって好都合だった。これから誰かの犠牲になる彼にとっては、孤独でいることが必要だった。

 彼はオフィスを出た。目の前に掲示板がある。いつそんなものが設置されたのかは分からない。彼はこれからすることも思い付かず、足も勝手には動かなかったので、その掲示板に気を取られた。車を売りたい、ギターを売りたい、同居人を求む、等というチラシが重なる。いずれも彼を必要とはしていない。同様に彼が求めるものも無い。
 そんなチラシの重なりの中に一際目立ったものを見た。
 黒地に赤のペンで「ユウマ求む」とだけ書かれている。「悠真」とは彼のことであった。それを彼は覚えていた。しかし、そのチラシにはそれだけしか書かれておらず、連絡先も何も分からない。ただ、自分が誰かに求められていることだけは分かった。その誰かとは、彼が犠牲になる人である。彼は直感でそう悟った。

 彼は外に出ると芝生の上に寝転がった。芝生に落ちていた新聞を広げると、そこにも一面の片隅に、「悠真求む」と書かれている。それほどに切迫しているのなら、早急にその相手を見つけなければならない。彼はその人の犠牲になるのである。誰かが自分を必要としている。そう思っただけで彼の胸は大きく弾んだ。彼にとって、それよりも上等な幸せは見出せなかった。
 再び立ち上がり、足の向く方へと歩いた。遂に足は勝手に方向を示し始めた。小さな丘を越え、小さな川に架かる小さな橋を渡った。渡って一休みしていると、どこからか彼を呼ぶ声が聞こえた。名前を呼ばれたわけではないが、誰かが呼んだ。
 それは遠くから聞こえたような、また自分の内側から聞こえたような、不可解な声であった。訳も分からず周りを見回していると、遠くから彼の方に向かってくる人影が現れた。彼はその場に佇んでいた。

 段々と近づいてきた人影は全部で四つである。そのうち二人は警察の格好をしている。その横に看護婦らしく白衣に白い帽子をつけた女性が一人いたが、顔はよく見えなかった。その横に、痩せた青白い顔の男が立っている。男の腕には点滴が打たれていて、その点滴を看護婦が支えていた。
 ゆっくりと落ちるその黄色い液体は、不自然なほど毒々しい。男は呆然と彼を見つめている。その目は焦点こそ合っていないものの、彼の目を寸分違わず見定めていた。その視線の虚無感に彼は身震いをした。目の前の青白い顔、、、というのは病気がちな顔色、というような色ではなく、飛び込み台からプールの底を見るような青白さだった。

 「悠真さんですね?」
 警察の一人が尋ねる。
 彼は大きくうなずいたが、目線は青白い男に向けたままである。その男は評定もなく、じっと彼を見詰めているだけで、口を開きそうにもない。警察は質問を続けた。
 「この男性を知っていますか?」
 彼は即座に首を縦に振った。男の顔に見覚えはなかった。しかしその男は彼に限りなく近く、いつも存在していた。会った記憶はない、、が、、そう感じたのである。
 「それは困りますね。
 彼の頭にはいつもあなたがいたわけで、それはこちらにとって大変に不都合なんです。
 だから、今からあなたの存在を、彼の頭から取り除きたいのです。
 なあに、ただあなたが殺されるのを演じてみるだけですよ。
 心配せずにどうかあの禿山に一本立っている木の影まで走ってください。
 えっ?
 彼の前で喋ってしまって大丈夫かって?
 なあに、心配することはありません。
 彼はひどいリアリストで、他人の言うことなど全く信用しません。
 自分の見たものしか信じませんからな。
 あなたを攻撃して、あなたが死んだ振りをすれば、それで全ては丸く治まるのです。
 いいですね」
 逆に彼は、その言葉を信じるしかなかった。もう一度、男の顔を見ると、その目が少しずつ鋭くなっているような気がした。そして、その目が今にも感情を表しそうな気配を感じ、彼は一目散に目の前の禿山に登った。
 背中を冷たい汗が流れていた。
 息を切らしながら一本だけ立っている木の裏に隠れた。
 …と、その途端に集中攻撃が始まった。
 鉄砲、またどこにいたものか、戦車までが彼を狙っていた。演技どころではない。全ての攻撃は一本の木に向かって発射されるのである。木の枝は飛び、根の張った地面は抉られ、あらゆる物の破片で周りは隠された。彼は犠牲を覚悟し、その場に横たわった。爆発に巻き込まれたのを右手の人差し指で感じたのである。

 どれくらいか経って…。
 彼はまだ自分を失っていなかった。もう砲撃は止んでいる。これが演技というものなのか、、と彼は身を起こした。誰かに助けられたような気もする。崩れていく自分を抱きかかえてくれた誰かが、後ろにいるような気がして振り返った。しかし、誰もいなかった。彼はじっと両手を見、それを動かしてみて、肉体もまだ自分のものであることを確認した。動かした手のひらの下に、真っ黒に焼け焦げた鉄砲の弾らしきものが四つ転がっていた。もしかすると、それが彼を救ったのかもしれない…、と彼は思った。
 その時、左腕の時計は11時15分を指していた。

  彼は立ち上がって全身の土を落とした…、その目の前に、あの痩せこけた青白い男は立っていた。他に付き添いもおらず、唯一人で立っていた。そして、じっと彼を見詰めているのである。彼は硬直した。そして犠牲になる自分の義務さえ忘れて、後ずさりした。
 男は襲い掛かっては来ない。追いかけても来ない。ただ、彼の目をじっと見詰めるのである。点滴を自分の片腕で持ち、そこに立って、彼を見詰めるのである。彼は遂に点滴に背を向けて逃げ出した。足が思うように動かない。それでも一歩一歩男から遠ざかった。
 やがて、先ほどの掲示板の前までやってきた。
 その掲示板に、赤地に黒い字で「悠真拾得」と書かれたチラシを見つけた。
 彼は病院のドアを開けた。誰もいない…、と思っていたそこに、青白い男が立っていた。彼はその場でついに観念した。この男から逃げることが不可能であるのを悟ったと共に、自分の義務を思い出した。

 その瞬間、とてつもない寒気が体中を襲った。とにかく寒い。歯がかちかちと鳴り始めた。もう、いけない…、そう思った。そう思うと自然と涙が吹き零れてきた。彼は思いきり泣いた。声は出さないものの、自分で意識して泣いてみた。それによって何が変わるはずもないが、彼は思うように泣いた。
 泣くに吊れ、段々と寒さが募り、涙もようやく涸れ果てた。同時に肉体から生気が失われ、膝をがっくりと落としたその時、ふと背中にぬくもりを感じた。
 彼が最後の力を振り絞って振り返ると、そこには女性が立っていた。その女性が彼の背中に毛布のようなものを掛けてくれたのである。彼の顔を見て、女性は微笑んだ。美しい女性だ、心の底からそう思えた。眠そうな目をしているが、その目からもぬくもりが感じられる。
 彼女は彼のことをよく知っているようであった。もちろん彼も彼女のことを知っているような気はしていた。実際そうであったのかもしれないが、今それは問題ではない。彼は身体の芯から暖まり、もう一度立ち上がる力を得た。それほどに力を与える女性であり、それを鼻にかけない女性であった。彼女は立ち上がった彼の腕を取り、鎖を軽く巻きつけると、彼を見上げた。少し憂いた目で何度か頷いた後、ゆっくり振り返ると、オフィスに向かって去っていった。
 小さくなる後頭部は、彼女の「仕事」が既に終わった、、、ことを伝えていた。

 それに気づいた彼も振り返り、青白い男をもう一度確かめた。その男もじっと彼を見つめている。彼は立ち上がり、思いきって走り出した。もう一度だけ、その男から逃げてみようと思った。
 彼女が向かったオフィスに向かい、ビルに入るとドアからドアへ、彼は迷路のようなビルの中を駆け巡った。しかしどのドアを開けても、その目の前には青白い男が立っていた。かといって、外に出る道も分からなくなってきた。
 青白い男に会う度に短い溜め息を洩らし、方向転換してはまた反対方向に走り出す。そんなことを幾度と無く続けた。
 そうしているうちに、、再び背中に寒さを感じた。同時にあの女性のことを思い出した。顔はもう思い出せない。彼は逃げながら、無意識にあの女性を捜していた。しかし存在するのは青白い男以外、誰一人としていなかった。気配すらない。
 足をひきづりながら逃げるうち、203号と書かれた部屋を見つけた。直感で、ここにこそ彼女がいる、、、と感じた。
 息を切らしながらドアを開けたとき、そこに立っていたのは青白い男であった。そこで再度、彼は諦めた。息を整え、その男に近づいた。そうすると、男もまた彼に近づいてきた。彼は手を伸ばした。その男も彼に手を伸ばした。その指先が触れたとき、とてつもない冷たさを感じた。氷のような、鏡のような冷たさであった。
 そして彼の目を見た。その冷めた目の中には自分が映っていた。確かに、それは自分であるような気がした。そして悟ったのである。その青白い男とは、犠牲とは、つまり、そういう意味であった。

 …と、後ろから肩を叩くものがあった。
 彼が振り返ると、汚れたベレー帽を被った親友が立っていた。初めて見る顔ではあったが、彼の中では親友と識別された。
 「悠真君、この男の犠牲になって死ぬんだって?」
 彼は躊躇も無くうなずいた。
 「それほどの価値があるのかい?」
 彼は少しの時間考え込んだが、
 「元々、僕には価値が無いから…」
 そう言って苦笑いを洩らした。
 「君が犠牲になって助かるのは一人だ。割に合わないよ。助かるのが二人以上なら犠牲もいいだろうけど…」
 親友はいやにあっさりした顔であった。
 しかし彼は、それに納得できなかった。
 「犠牲だからね。誰の為とかいうんじゃない。僕はただ僕を捨てるだけだ。それを誰が利用しようと構わないし、利用しなくても構わない」
 親友はそれを聞いて大きく笑った。
 「いいねえ。実に君らしくていいよ」
 彼は何かを達成した気がして、ゆっくりと振り返った。そこに青白い男はおらず、壁一面の姿見が彼の全身を映していた。
 …そこには、自分だと分かる自分がいた。この人は、、知っている。それで彼は安心した。心置きなく犠牲になれる。何の怯えもなくなった。彼は吸い込まれるようにその鏡に近づいた。そして同化した。一瞬、鏡の中に時計が見えた。時計の針は8時25分を指していた。結局時間など流れなかったのだ、、、、彼は気づいて自分を笑った。
 そして、時間が流れていなくても、自分は動き続けなければならない。。。そのことにも既に気づいていた。


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