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【小説】捨て忘れた色

いくつかの世界を通して、生まれて、出会って、取引をしながら成長していく何人かの物語。見出し画像の猫は、小説の内容には全く関係ありません。

誕生

 その建物からは真っ黒な煙が絶え間なく噴き出していた。煙突から、、ではなく建物全体から漏れ出ているらしいが、その煙で屋根の構造すら確認できない。私はその黒を右手に見やりながら、建物に沿って歩いていた。辺りは煙の所為か陽が暮れた所為か薄暗い。首筋には違和感があった。いつからか分からない。気付いた時には気になっていた。
 ぼやけた視界に黒ずんだ蝶々が舞っていて、時折頬を撫でていく。息をする度に咳き込んでいた私にも、それは心地良かった。角を二つ右に曲がった、、ところで建物の入り口らしき扉が現れた。ガラス戸なので中は見えるはずが、真っ暗である。近寄って中を入念に覗いてみると、左右に並んだ大きな靴箱に、同じような長靴が整然と並んでいるのが見えるだけで、ひと気はない。ましてや私はここに用事があるわけでもない。入り口には看板もなく、一体中に何かあるのか、何か行われているのか、想像すらつかなかった。
 二、三歩下がって建物を見上げ、意味を成しそうな文字一つないことを確かめると、再び目線を入り口に戻した。刹那、、、緩い視線を感じた。

 足元から柔らかい気配が送られてきている。ゆっくりと目だけを動かすと、そこに暗い緑のベレー帽を被った暗い瞳を見つけた。正座を少し崩して、背を曲げて私を見上げている。私と目が合うと、薄暗くほのめく鼻の下に白い歯を示した。所々ほつれた黒いロングコートを羽織って、地面についた膝元には空き缶が一つ置いてある。何かしら魚の缶詰のようであったが、中にはまだその残骸がこびりついており、その他には魚で汚れた1円玉が3枚ほど入っているのが見えた。
 今の今まで、このような気配はなかった。降って湧いたようなこの男はまだ、私の方を見て白い歯を見せている。その笑いには、嘲りや愛想は含まれていない。どちらかと言うと親しみに近いものが溢れている。私は彼としばらく見つめ合っていた。私は笑っていなかった、、と思う。この不可思議な緊張を崩すのは惜しいような、恐ろしいような気がして、ひたすら彼の目を見つめていた。
 彼はゆっくりと空き缶に手を伸ばし、立ちあがった。そして空き缶を私の胸元に向かって突き出した。私は首を傾げて、彼の要求を否定した。彼はまだ同じように白い歯を見せている。首筋の違和感が気になり始めた。何かがひっかかっているような、少し痛むような気もする。彼は笑みを見せながらうなずいた。私が首筋をまさぐると、指先に引っかかるものがある。引っ張ると首の付け根の違和感が金属の触感に変わった。どうやら私の首にはネックレスなのか、金属の鎖が巻きついていたらしく、チラチラと銀色に光る鎖が千切れて右手に垂れていた。と、、、その手の先に空き缶が突き出された。

 私の前に立ちはだかった彼は、まだニヤニヤと笑っている。どうやらこの銀色に用があるらしい。私は今まで持っていたつもりすらない鎖には用もないので、ザラリと空き缶に置き入れてみた。彼は小刻みに頷きながら、空き缶を握りしめたまま元の場所に腰を下ろした。缶の中には薄汚れた銀色の1円玉3枚の上に銀色の鎖が折り重なり、鈍く光っている。
 私はまた建物を見上げた。いくつか不規則に並んだ窓は全て閉じられており、カーテンでも掛かっているのか、中の様子は見えない。空は相変わらず靄のような黒に覆われ、屋根から出ている煙とともに灰色に流れていた。
 「この建物は…?」
 私は誰に尋ねたわけでもなかった。つい口が滑った、それだけのことである。
 「俺の生まれた場所だ」
 彼の声も呟くようで、誰に向かって言ったわけでもないようだった。缶を手に取り、軽く振った。ジャリジャリと鎖が缶の上で音をたて、それが壁に響いた。ベレー帽の下に潜んでいる目がどこに向かっているのか、読み取ることはできなかった。先ほどまでとは違い、口元はしっかりと閉じられている。
 「どうして?」
 私は再び誰に言うでもなく、呟いた。
 「この取引は、一度体験しないといけない」
 彼はうつむいていた。既に私の存在を忘れたかのように、缶の中を見つめている。私には彼を無視する勇気はなかった。彼のすぐ横に腰を下ろし、同じ様に膝を抱えた。

 「君は話が早い」
 彼は空き缶を見つめたまま呟いた。「君」というのが、私であることに気づくのに、多少の時間を要した。
それを待っていたかのように彼は口を開く。
 「君は建物に入りたい。私は止める理由も無い。一緒に行くのがいい」
 確かに話は早かった。一緒に立ち上がり、入り口に向かう。引き戸の扉は鍵もかかっておらず、音も立てずに開いた。靴箱に並ぶ長靴を横目に見ながら、私達は土足のまま玄関を上がった。ワックスのかかった床は少し滑り、時折彼の足元がキュキュと音をたてる。次の空間への扉の前で彼は立ち止まり、振り向いた。何を確認しているのか、私の足元を見ている。
 「…それも、いいか」
 そうして次の扉が開かれた。そこもまた暗く、はっきりとしたものは何一つなかった。ただ、さめざめとした空気が空間の広さを伝えていた。彼について、一歩、二歩、と進んだ。彼の背中だけが今は頼りだった。その背中の周りには、作ったかのような暗闇が控えている。彼は振り返ることもなく、まっすぐ歩いた。
 何歩ほど歩いたか知れない。気付くと、彼の背中は見えなくなっていた。代わりに私の前にはぼんやりとではあるが、道らしきものが現れた。道と言えるのかどうか、私は何者かの白い気配に囲まれていて、前方だけが開かれている。大勢が何か囁いているような気配だけを感じる。声と断定できるほどはっきりしたものではないが、何か言葉のようにも聞こえる。不思議と恐怖は感じず、何か誇らしい気さえしていた。
 白い陰に導かれた先には、彼のベレー帽と白い歯が見えた。彼の左手の下には白い肌が浮かんでいる。私が目を凝らしながら近づき、それが赤子であることを悟った時、彼は声を出して笑った。

 「生まれたよ」
 赤子は古ぼけた小机の上に乗せられ、泣きもせず、体を丸めて口元をぴくぴくと動かした。目は閉じている。私は言葉もなく、彼を見やった。この赤子は自分の子であると思った。この建物を母体とする、私の子供。何の感情も湧いてこなかったが、少し肩の力が抜けた。彼は赤子と小さな握手をして、その手にキスをした。赤子はまた、口元をぴくりと動かした。彼は空き缶から銀の鎖を取り出し、千切れた鎖を繋ぎ直して小さな首にかけた。赤子は小さく身震いをした。ネックレスの形になっても、赤子が身につけるには荷が重すぎるのが見てとれた。
 その光景は私の目に微笑ましく映っていた。それらは形式を持たない儀式のように流れ、私に行動を起こすよう迫った。赤子にゆっくりと近づき、両手で抱き上げると、小さい手が私に絡みついた。しっかりと胸に抱き寄せると、誰のものとは知れない心臓の鼓動が胸に響き、鎖がその胸で小刻みに震えているのが感じられた。
 それでも、まだ私はこの赤子に何らかの感情を抱いているわけでもなかった。再び赤子を机の上に丁寧に降ろすと、彼を顧みた。

 「まだ、生まれたばかりだ。俺とは違う」
 彼は背を向け、もと来た道を戻り始めた。私もそれに習った。赤子は泣くどころか、物音一つ立てない。彼の背には明るい陰が見えていた。歩く足元にも光が差し始め、それは出口まで続いていた。コツコツと私の靴が鉄製の床を踏む音が響いた。私は何かを思い出した、そんな気がして足を止めた。静まり返った中に、急に心臓を打つような声が空間に木霊した。
 「きゃきゃきゃ…」
と、それは獣の叫び声にも似た笑い声であった。泣き声かもしれない。どちらにしても、誰かに何かを訴える音である。彼は気づかないのか、気づかない振りをしているのか、足を止める気配はない。私は覚えず声の方に向かっていた。私の子がいる方へ足早に駆けた。再び白い肌が目の前に現れた。しかし赤子の乗せられた机は、既に檻で囲われていた。何か叫んでいる。私は檻に近づき、赤子の顔を覗き込んだ。檻に触れると、その瞬間赤子は口を閉じ、代わりに目を開いた。その目線の先には私がいる。表情はない。…そして再び目を閉じた。
 私は檻を少し揺さぶったが、もう何の反応も見せなかった。不安になった私の肩に、何かがずしりと乗りかかった。振り返ると、そこには彼が無表情に立っていた。

 「まだ、早いんだよ」
 私は頷いた。
 今度は二人で肩を並べて歩いた。出口に近づくにつれ、情けなさが口をついて出そうになった。それを我慢すると、目からは涙が溢れ、彼はそれを見て口元を歪めた。その口元はあの赤子と同じものである。それが余計私を惨めにさせた。二人はまっすぐに出口に向かった。その周りでは見えない大勢の何者かが、ひそひそとざわめいている。しびれる程の視線を感じる。彼は全くそ知らぬ顔で歩いている。
 ようやく出口に辿り着いたが、振り返る勇気さえ萎えていた。外に出るとあたりはさらに真っ暗になっている。彼は私の肩を引き寄せただけで何も言わない。そのまま二人は足の向くままに歩いた。その後ろには囁くような大勢の声が迫ってきていた。

再会


 夜も更けた公園でブランコが微かに揺れている。風の所為ではない。四つ並んだブランコの一つに、ちょこりと腰掛けた人影が見える。しんとした中に、キ…、キ…と金属の擦れる音が響いている。ほのかな月の明かりに黒髪の女性がふと顔を上げた。少女と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。ブランコは大きくは揺れず、彼女の鼓動に合わせて震えている。
 彼女は怯えていた。自分が「家出」をしたという、その行為に怯えていた。もちろん初めての体験であり、夜の世界、属さない世界がこれほど手応えのない、暗いものとは思ってもみなかった。家に帰るという単純な行為さえ、今の彼女には思い付かない。この場所にたった今、たった一人で生まれ落とされたかのように、この静寂と暗黒に耐えることしかできなかった。

 そうして研ぎ澄まされていた彼女の感性を、微かな笑い声が刺激した。何人かの男性のものであることは、すぐ判別できた。彼女の怯えは増幅された。この少女はまだ、世間や社会というものも知らない。夜、大人、男性、そもそも他人について、何も知らない。それらが迫ってくると、恐怖となるのは当然のことである。
 それがだんだんと近づいてくる。少女は身を固くし、声の行方を探り、そちらに目を凝らした。確かに誰かが来る。二人で、話をしながら近づいてくる。少女が目的ではないということは明らかであるが、目的に変わるやも知れない。それを少女は本能に近いもので悟っていた。
 「…プラネタリウムみたいだが、どちらも同じだろう」
 「黒の距離は無限だからね…。だからと言って騙されちゃあまずい。あいつらは騙してやろうと必死なんだ」
 「それなら騙された振りでもしてやればいい。何なら騙されてもいい」
 「豪儀だなあ。俺にはそれが我慢ならないんだが…」
 少女の耳に届く会話はこのようなものであったが、内容など彼女にとって意味はなかった。言葉を喋る二人の人間らしき存在が近づいてきている。その物理的な接近だけに皮膚の神経が集中していた。会話が途切れることなく続き、そのまま自分の前を過ぎ去って欲しい、とただそれだけを祈り、ひたすら身を固くし、胸のあたりの服を左手でぎゅっと握りしめ、顔を伏せた。顔を伏せることで、自分の存在を全て隠したかのように息を潜めていた。どこかに身を隠そうにも時間がない。何より「身を隠す」という思考が宿るには、幼すぎた。彼女は空気も動かさない程の静寂をただ演じるしかなかったのである。

 しかし、、、無情にも会話は途切れた。同時に足音までも途切れた。
 「まだ、子どもじゃないか…?」
 月の明るい夜である。見つかるのは当然のことであったが、少女は心臓が一瞬止まり、その後急激に動き出すのを感じた。その心臓の動きで自分の周りの強張った氷が溶け始めた。恐る恐る顔を上げると、男が二人、少し離れて自分を見ている。顔はよく見えない。知らずと体が震え始めた。男の一人が目の前にしゃがんで彼女の顔を覗き込んだ。少女はその顔から目を離すことができなかった。瞬きも忘れたかのように震えながら、じっと顔を見つめ返していた。
 「寒いだろう」
 少女は反応せず、じっと男の顔を眺めている。後ろからもう一人の男の声が聞こえた。
 「家出か?」
 少女はそちらに目を移し、自分でも驚くほど素直に首を縦に振った。
 「こんなところに居るということは、行くところがないんだな」
 目の前の男が問い掛ける。少女はまた素直に肯いた。
 「そんなことは、お前でなくても分かる」
 後ろの男が声をかける。
 「うちにでも来て朝まで寝てるがいい。どうせ俺らは寝ないから」
 少女は自分が何を考えているのかも分からなかった。ただ、目の前にしゃがんでいる男性がいやに暗く、しかし明らかに自分より暖かい体温を持っているのが感じられた。状況が状況だけに警戒しなければならない、という感覚も働いていたが、それ以上にこの男性の声をもっと聞きたい、という衝動に駆られていた。追い討ちをかけるように、目の前の男の声が体に響いた。
 「心配することはない。俺らは旅人だ」
 後ろから男の大きな笑い声が聞こえた。同時に言った本人も笑った。男は立ち上がり、後ろを振り返った。
 「しかし、間違っちゃいるまい」
 「旅人が賃貸アパートに帰るかよ」
 少女は知らずと微笑んでいた。
 「冷えるね。今夜は。。。行こうか…」
 少女は肯いて立ち上がった。そして二人の後に着いて歩き始めた。急に安心したのか、頭の中にようやく言葉が回り始めた。どうしてこんな場所にいたのか、なぜ家出したのか考え始めた。親と喧嘩したわけでもない、特別嫌なことがあったわけでもない。なぜだろうか。そしてなぜ自分は、得体の知れない男二人に着いて歩いているのか、しばらく首を捻っていた。そんな少女には全く構わず、二人の男は会話を続けていた。

 その男のアパートまでは10分もかからなかった。少女は「なぜ、なぜ...」と考え続けたが、結局何も得られなかった。部屋に入ると、電気が点けられ、二人の男性の顔が明らかになった。少女は二人の顔をかわるがわるに見た。特に驚くべきこともない、ごく普通の男性が二人である。一人は短髪で眼鏡をかけている。もう一人はベレー帽を被っていたが、部屋に入ってそれを取ると、ひどい寝癖がついていた。特徴といえばその程度のものである。不思議なのは、二人が自分を不思議に思っていないことである。当たり前のような顔をして自分を迎え入れている。騙されている、とも彼女には思えない。二人は畳の上に坐り、彼女もつられるように坐った。その彼女に眼鏡の男が座布団をすすめ、彼女は素直にその上に坐った。
 と、突然に眼鏡の男が少女に話し掛けた。
 「ただ、このまま寝ろというわけにもいかない。名前とかは持っているのかな?」
 少女は一瞬、止まった。まだ自分は一言も喋っていない事に気づいたのである。
 「おい。今まで何の話をしてたんだ…。名前を聞いてどうなる?」
 少女が答える前に寝癖の男が口を開いた。
 「じゃあ、家出の理由でもきくか?」
 「やめろ。それこそ意味がない」
 「ふ、ふふ…。じゃあ、黙って見てるんだな。こういう事が通じる世界もあるんだよ。じゃあ、名前を教えてくれるかな?」
 「エリカ…」
 少女はようやく口を開いた。自分の声を聞くのも久しぶりのような気がした。
 「電話番号も聞いておこうか。こちらが迷惑をかけられてもこまるから」
 彼女は自分が唯一暗記している電話番号を素直に教えた。男は取り出した携帯電話に打ち込み、そのまま電話を耳に当てた。彼女も、寝癖の男も、何かを言おうとしたがもう遅かった。眼鏡の男の携帯電話からは発信音が聞こえ、残された二人は身を乗り出したまま固まった。
 「ああ、こちら鈴木と申しますけど、エリカさん…。ええ…、今こちらに来ておりますので、心配なさらないように願います。いえ、そういう事ではありませんが、少し落ち着く必要があると思いますので、はい…。どうぞ心配の無いように。それでは、ええ。失礼致します」
 程なく電話を切り、床の上に置くと眼鏡の男は大きく息を吐き、二人を振り返った。
 「心配するといけないから」
 「お前なあ…。今の電話で安心する親がどこにいる」
 二人はまた楽しそうに笑っていた。少女は親という言葉を聞いて自分に両親がいたことを思い出したが、その顔はうまく頭に浮かばなかった。しかしそれも、どうでもよくなっていた。二人の男性の笑う顔が、彼女の頬さえも弛めていた。
 「エリカさん、だっけ?君はそっちのベッドで寝ててもいいよ。ただ電気は点けたままにしておく。俺らが困るから。それに俺らの話し声も気になるだろうが、そこまで気を使わない。君も考えることがあって早々眠れないだろうが、体を横にしているだけでも違うから寝そべってるといい。もちろん俺らと話がしたいならそれもいい。どうする?」
 眼鏡の男は、まるで台詞を暗記していたかのようにすらすらと、しかし低い声で喋る。少女は少しの間、目線を天井に合わせた。
 「それじゃあ、もう少し、ここで、います」
 「よろしい。では、まず家出をした理由が聞きたいね」
 「おい。意味の無いことを聞くな。恐らく自分でも分かってないんだろう。そうじゃないと、こんなところに来たりはしない」
 寝癖の男は眠そうな声である。しかし、事実、彼の言うことは正しかった。彼女はまだ、なぜ自分が家出をしたのか、よく理解していなかった。
 「いや、言葉に変換して、口に出してみて思い出すこともある」
 「そんなものはないよ。事実俺とお前は今日会ったばかりだ。喋っているのはただの言葉遊びにすぎないよ。。遊んでる時の方が、お前のことはよく分かる」
 少女にはこの二人が、今日会ったばかりの仲だとは、当然思っていなかった。しかし、自分もこの二人に出会ったばかりなのである。そう考えると、それも可能のような気がしてきて不思議な胸騒ぎのようなものを覚えた。
 「まあ、取り敢えず喋ってみればいい。それがきっかけというやつだ」
 少女は少し考えてみた。というより、思い出しているだけである。
 「私は、そう…、学校から帰って、家に着いたんだけど、ご飯を食べて、何だか分からないけど、何時の間にか公園にきて、家出してしまった…って思ったの」
 少女は一つ一つ思い出せるだけのことをゆっくりと喋った。
 眼鏡の男はその一つ一つに丁寧に肯き、聞き終えると微笑んだ。
 「ほらね。ただそれだけ聞いただけで、彼女が学生であることが判明し、今晩はもう夕食も食べたということまで分かったじゃないか。ついでに家がここからそう遠くない、ということも分かった」
 「それが分かったから、彼女の何が分かったのか、ということだ」
 寝癖の男は皮肉っぽく笑っている。
 「だから、そういう世界もあるんだよ。まあ、色々他にも分かったことはあるけどね。つまりきっかけだよ」
 「それは認めよう」
 少女には二人の会話が理解できなかった。しかし、二人のことは何となく理解できるような気がし始めていた。二人の彼女に与える波長が、心地よく響くのである。二人は彼女について話しているにもかかわらず、主題は遠く離れたところにあった。その距離というものが、今の彼女には丁度よい。
 「君はね…」
 寝癖の男が話し掛けてきた。眼は彼女に向いているが、その焦点はもっと奥に位置づけられている。
 「家出をした、という言葉に追い詰められているんだ。本来君は家にいて家族と生活している。ちょっと外に出てみて、気付くと理由の言葉が見付からないから、自分は家出したんだ、と言葉で括ってしまった。だから逆に家にも帰れない。その理由が見付からないから…。両辺を言葉で縛ると、行き先がなくなるんだな。だからここにいる。大体君は、俺やこいつと同じ類いの人間だと思われる。少し、若いから恐いだろう。そのうち楽しめるようになる。俺とこいつの意味さえ分かるようになる」
 「自分の住む家もなくて、家出すらできない君が、随分と喋るじゃないか。おおよそ俺は何も言うことはないね」
 少女は真剣に話を聞き、肯いた。何を喋っているのか、ほとんど分からなかったが、彼の真剣さと、そして自分が彼らと同じ類いの人間であるということは、ひしひしと伝わってきた。

 それからも三人はしばらく喋っていた。とは言っても、眼鏡の男が喋り、寝癖の男が一言二言返す。彼女はそれを聞いて肯いている。その繰り返しであった。
 そのうち少女はベッドに横になり、夢うつつに二人の会話を聞くようになった。二人の会話は空白が多かった。時折、少女は無性に寂しくなった。そんな時、ぽつりと声が聞こえ、少女は安らいだ。少女は恐い夢を見た。そんな時、またぽつりと声が聞こえ、少女は再び眠った。少女は意味もなく涙を流した。そんな時、ぽつりとした声がその涙を拭った。それが幾度となく続いた。また少女は、永遠に続くことを祈っていた。

 やがて…
 朝が来た。
 少女は光を存分に浴び、背伸びをした。
 ベッドの下には二人が寝そべっていた。少女は覚えず微笑んで、そっとベッドを降りた。何かを言うべきか、とも思ったが、結局そのまま去る事にした。
 玄関で靴を履こうとかがむと、冷え切ったネックレスが彼女の首筋をひんやりと冷やし、少し身震いをした。彼女は自分がどんな格好をしていたか、ネックレスをしていたことすら忘れていた。服の上からそのネックレスをぎゅっと掴むと、ザラリと聞き慣れた音が耳に響いた。軽いドアを開けると眩しい程の晴天である。少女は振り返り、床にしなだれている二人を眺めて、もう一度満面に笑みを湛え、
 「いってきます…」
 小さく囁いた。


未熟


 この部屋には元来扉などなかった。あるのは小さな窓一つで、それも手の届かない高い壁に張り付いているだけである。他には何もない。誤解しないで欲しいのは私がここに好んで入ってきたわけではない、ということである。私はただ疲れて座っていただけだった。座り込んでいるうちに勝手に壁が私を囲うように生えてきて、屋根を繁らせただけのことである。確かにここから出ようと試みたことはないが、それはこの場所を好んでいるかどうかとは別の話である。
 遠い窓からは光が入るようになっていて、昼か夜かは判断できる。判断ができるからといって何がどうなるわけでもないが、昼であればこの正方形の部屋の隅々まで見てとれる。つまり、隅々まで何もないことが見えている。
 どのような構造になっているのか、この部屋に入ってくる光は「有」か「無」かのどちらかで、突然真っ暗になり、突然明るくなる。その瞬間を感じる度に、その窓自体が太陽のように思えてくるのだ。つまるところ、光源は太陽ではなく、昼とか夜という感覚は自分の思い込みでしかないのかもしれない。
 私はいつも窓のある壁に背を寄せ、膝を抱えて座っているが、辛くなると足を伸ばしたりもする。ただ、背中だけはいつも壁を感じている。背中が寂しいとか、背後が怖い、とかではないが、定位置とはそういうものだと思っている。こうしてそろそろ自分でも何日経ったかも分からなくなるくらい、この部屋で過ごしていたのだが、その日は光が現れるとともに変化が起きた。

 変化は光が訪れる前、既に起きていたのかもしれない。光のおかげで私は気付いたに過ぎない。部屋の真ん中に女性が一人、体を横たえている。ちょうど窓の形のスポットライトの部分に、私に背を向けて寝そべっている。
 それを女性と判断したのは、私の偏見によるもので、本人に確認したわけでもない。毛髪の長さ、横たえた体の曲線、それが目の前の光に炙り出されている。投げ出された手の先を司る微細な指は、しっとりと青い血管を浮かせている。曲がっていなければそれとは分からないような関節も、この世のものと思われる程度に丁寧に型取られている。体の曲線は裾の長いベージュのワンピースに包まれ、足先は肌色の、おそらくはストッキングのような布で覆われている。そして、どこからか強くはないが原始的な香りを感じた。いつか、、の、どこか、、を思い出しそうな香りだったが明確にはならない。
 私にとって彼女の登場は、あまり好ましいものではなかった。この壁と、窓の発する光は自分だけのものだと信じていた。それを誰かと共有する覚悟はまだできていなかったし、それが出来るぐらいなら、とっくにここを出ようとしていたであろう。しかし私の躊躇とは裏腹に、彼女が発する香りは、徐々に鼻孔の奥を刺激するようになった。

 そう、、、。彼女は近づいてきているのである。何の許可も得ず、服にしわも増やさず、そのままの形で少しずつ近づいてくるのである。じっと見ていると分からないが、時折彼女から目を離すと、確かに近づいてくる。香りだけでなく、彼女の体温まで近づいてくる。どうやら呼吸はしているらしく、肩から腰にかけて定期的にうねっているのが見て取れる。それほどまでに彼女は近づいてきている。
 しかし顔は見せない。長い黒髪が渦を巻いたまま、顔は頑なに守られている。彼女に触れることは容易であったが、ここは私の領域である。彼女から私に正当に接触を要求しない限り、こちらも頑なにこの定位置を守るべきであろう。
 彼女の緩やかな移動につられてか、または騙されてか、私は少しうとうと...、としたようだ。あぐらをかいて首をうなだれた姿勢のまま、こくりこくりと上体がぐらついているところまでは自覚していた。睫の奥にぼやけた彼女の背中がしっとりと濡れていたように思う。

 そして意識を失い、それが再び戻ったとき、目に飛び込んできたのは彼女の背中ではなく、渦を巻いている、、、くらいに見えていた髪の毛根であった。
  彼女はあぐらをかいた私の内腿に頭を乗せ、おおよそ姿勢を同じくしたまま横たわっていた。もちろん頭が私の内腿の上にある以上、体勢に変化はあるに違いないが、この距離の短縮を前にすれば、さしたる姿勢の違いなど吹き飛んでいる。
 接触しているのだ。それでいて相変わらず、顔は黒髪に覆い隠されている。これほどの侮辱を私は知らなかった。侵入に次ぐ侵略を受け、受けたことに今まで気づかない。存在を意識することが暴力的である、ということに初めて気付かされた。しかし、まだ彼女を責めるわけにはいかない。彼女は私に対して、何の意思表示もせず、しかも顔という表現までも隠し続けている。。
 彼女は呼吸していた。足には彼女の重みがあった。息を吸うたび軽くなり、息を吐くたび重くなった。しかしその呼吸は、彼女の生命を感じさせるものではなかった。彼女という辞書が厚くなったり、薄くなったり、その意識だけが上下しているように感じた。
 こうなると、自分の立場が危うくなる。自分の領域が侵されているのにも関わらず、防御さえできないまま、懐に入られたのだ。下手に反撃すると、中枢まで破壊されかねない。それでいて彼女は無抵抗なのだから始末に負えない。何の武器も持っていない銀行強盗に、自分の秘密の全てを握られ、脅されているかのように、すくんでしまっている。
 彼女の無防備は私を密かに誘惑していた。私に反撃をさせようと、罠を曝け出していた。反撃とは、すなわち彼女に能動的に触れることである。今の私は、体中の神経が空気の揺れにさえ、過敏に反応していた。風でも吹けば、飛び上がっていたかも知れない。それほどまでに彼女の頭部は重く、その接触した部分は生々しく彼女を伝えていた。そしてひたすらに隠された顔は、私の反撃を哀願しているかのように感じられるのである。罠であることは知りながら、その罠が幾重にも敷き詰められていることを知りながら、それでも誘惑されていた。罠とは、幾重に仕掛けられようとも、所詮正解は二つに一つである。そんな平面的な考えが自分を誘うのである。
 彼女に触れ、彼女がそれに反応すれば、全ては解決するのではないだろうか。しかしその反応が、恐ろしい結果を生みそうな気もする。何より今の段階で、私は彼女の顔を想像することもできない。私の反撃に彼女が反応して、牙を剥くようなことがあれば、事は簡単に進むが、それを期待するのは危険だ。懐に彼女がいる今となっては、主導権は彼女にあり、余裕も彼女にあるのだ。無抵抗な、彼女という現象に私は段々追い詰められている。
 押しつぶされる前に、どうにかしなければならない。そしてその方法も分かっている。私は注意深く息を吐き、視線を壁に移した。普段は意識しなかった染みが異様に浮き出て見える。スポットライトの当る床は赤味を帯び、いつもより緊張していることが見てとれた。相変わらず彼女の呼吸は音を出さない。
 「触れるしか…」あるまい。
 喉を流れる唾液が異様に重く、喉元を過ぎたときに漏れ出る空気が部屋を揺らした。

 私は彼女との接触部分に一段と神経を集中させた。そして頭を押し返そうと腿に力を入れた。彼女の頭が少し重くなった、それだけである。自分の足の、あまりの鈍感さに少し呆れた。やはり、もっと敏感な部分で彼女に触れなければならない。
 それは初めから分かっていたことであるが、この段階に来て、まだ自分は怖じ気づいているようだ。この神経の集中した指先で、どこでもいい。彼女の頬にでも首にでも、触れればいいのだ。どこにでも…という甘えが自分の決心を鈍らせているのである。まずそれを定めなければなるまい。

 狙いは彼女の肩。最も視界を大きく遮っているのが肩であり、手を伸ばせば最も自然に到達するのも肩である。
 ゆっくり、ゆっくりと床についていた手を、まるで他人の手を扱うように持ち上げた。少し体のバランスが崩れた。彼女の頭がぴくりと震えた。一瞬にして心拍数が跳ね上がり、上げかけた腕を制止した。しかし、次の瞬間、彼女は再び重くなった。私の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。彼女が、ほんの少しではあったが、ついに動いたのだ。私の意図に気付いて警戒し始めたのであろうか。
 ますます気後れする自分に気づく。このまま白旗を上げるしかないのであろうか…。それはいささか情けない、、以上に許されない。そう、、、これは自分のプライドなどの問題ではなく、自分が認識されるかどうかの瀬戸際なのである。それを思うと、腹を括らざるを得ない。静寂が静寂を呼ぶ空間で、自由なのは私の意識と目線だけである。彼女は呼吸をしている。自然と私の呼吸は彼女と同じものになっている。
 私は空中で行き場を無くしていた腕を再び動かし始めた。もちろん狙いは以前と同じく肩である。その目標が、急に鮮やかに見えてきた。肩を覆う木綿の繊維の一本一本までも、網膜に焼き付くかのようである。そうすると、腕もすんなり直線を描く。簡単に、その肩に触れた、、、と思った。その時、窓は光を閉ざした。
 私の腕は空中をさ迷っていた。視界が消えた途端、目標を失い、そこにあるはずの肩が実体をも失った。しかし内腿にはまだ彼女の重みがあった。そしてそれは呼吸をしていた。彼女は生々しく呼吸をしていた。。。

 ようやく腹の座り切った私は、頭の部分にそっと手を伸ばした。その手に何か冷たいものが触れた。生きた動物のものではない、それでいて彼女は、まだそこにいる。私の手にはジャリジャリとした金属の感触が残っただけだった。
 私は敗北に気づいた。敗北と言えるのかどうか、最初から勝ちも負けも無かったのだ。既にこの部屋の屋根には穴が空き始めている。壁がミシミシと音を立て始め、何か軟らかいものが頭や肩に落ちてきている。おそらくは崩れているのであろうが、痛いほどではない。粘土のように柔らかいが、羽毛のように軽い物体がタラタラと目の前にも落ちてきている。
 彼女は…、そう…。
彼女に触れるにはまだ早すぎたのだ。
 「ふふ…」
 口から息とも笑いとも付かない空気が漏れた。
 「ふふ、ふ…」
 その中に自分のものではない、確かな音が聞こえた。
 「きゃきゃきゃ…」
 それは笑い声なのか、、ここに存在する自分の声ではない。彼女のものと考えるのが最も適当であろうが、その声は木霊していて出所は掴めない。とすると、、余計彼女のものであると断定するしかない。まさしく霊の声であった。

 そろそろ、ここから出なければなるまい。いずれ、彼女に触れる瞬間はくるのだろう。その時にようやく彼女は私を知ることになる。その前にまだ、やるべきことが随分とあるらしい。私は長らく動く必要のなかった足を奮い立たせて立ちあがろうとした。そうして地面についた手には、まだジャリジャリとした金属の感触だけが残っていた。


錯誤


 彼は部屋を探して街を歩いていた。と、同時に、あの女性も探していた。いずれ出会うべき女性であるが、まだ彼女については何も分かっていない。また、まだ知る必要も無いのだろう。今の彼にとって、まず必要なのは「帰る」と言える場所であった。
 特に明確な理由もなく家を失った彼は、特に心当たりがあるでもなく、特に見知らぬ街を歩いていた。...と、そこに、かなり古そうな二階建ての一軒家が視界に入ってきた。それが彼の目に留まったのは、その家の大きさもさることながら、書道家に頼んだような文字で「賃貸」とだけ書かれた張り紙が、大きな扉にこれ見よがしに掲げられていたからである。探しているものが探しているその目の前に現れる。。物事とは、すべからくこうあるべきである。

 張り紙には連絡先なども書いてないので、紙の貼ってある扉を直接ノックした。程なく、、内側で何かしら物音がしたと思うと、すんなり扉が開けられ、老女の姿が浮かび上がった。少し黒髪の混じった白髪を丁寧に後ろで結び、顔の皺は表情を隠すかのように細かく伸びている。また、姿勢がいい。
 「部屋を借りたいのですが...」
 当然の言葉をかけると、老女は深々とお辞儀をした。彼が自己紹介をする間、老女は細い目で真剣に彼の顔を見上げ、足元から顔まで何度も視線を往復させながら時折肯いた。部屋を貸すかも知れない人物を値踏みするのは当然のことであり、彼は特に不快にも思わなかった。
 「お貸しする部屋というのは、この二階になるのですが、一階には私が住んでおります。ひとまずお貸しする部屋の方へご案内致します」
 靴を脱いで玄関を上がると、床も古いながらしっかりした作りで重量感があり、軋むような音も響かない。また外見通り、かなり大きな家らしいが、総じて暗い。玄関を入ってすぐ左手に階段があるが、一階に奥の部屋があるのかどうかすら見通せなかった。高い天井には一応電球が光っているが、電球があることを知らせる程度の光量だった。
 彼は老女に着いて階段を踏んだが、足元もぼんやりとしか見えていない。老女は足腰がしっかりとしており、彼が後ろから着いて歩くのに、ほとんど気を使わなくてもよい程度のスピードで階段も上がっていった。
 その階段を登り切った突き当たりにまた大きな木の扉がある。そこそこの重さがあるらしく、老女がその扉を開けると、ギ...、ギ...と音を立て、その頭越しに見える部屋の中は真っ暗であった。開いた部屋の前まで来ると、扉の横のスイッチを老女が押した、、、と、目の前に姿を現した空間の異様な感覚が彼を包み込んだ。

 その壁は白、柱は黒、タンスの表面は白く、側面は黒く塗られている。カーテンも黒く、床と天井も完全に黒で覆われている。彼は、何か絵の中にでも閉じ込められたような気がして、しばらく部屋を見回しながら呆然と立ち尽くしていた。
 「ここには以前、私の娘が暮らしておりました。生来心臓を病んでいましたもので、この部屋から出ることはほとんどありませんでしたが、二ヶ月ほど前に病院に…。ですからこの部屋には浴室もお手洗いも備え付けてございます。もちろん、娘の病気は感染するといった類いのものではございませんし...、おそらく退院後もこちらの家に戻るとは考えておりませんので...」
 老女は淡々と、抑揚の無い声で説明した。
 「この部屋は…、娘さんの趣味でしょうか?」
 老女は苦笑いを噛み殺すように返答した。
 「別に趣味かどうかは分かりませんが、これは大事なことなのです。ここをお貸しする条件として、この部屋には一切、手を加えないでいただきたいのです」
 この条件は、なかなか厳しいものである。帰る場所というものは、最低落ち着くという役目を果たさなくてはならない。この時点で、既に彼は落ち着くどころか、神経が研ぎ澄まされていた。何より、窓もなく電気が付いていても暗いし、否が応でも閉塞感は拭えない。しかし、、同時に興味が湧きあがっているのも事実であった。
 「それほど保存したい部屋をどうして貸すのでしょう?」
 「保存したいだけではないのです。娘がまだここにいた間、どうかこの部屋はしかるべき人に引き継いでほしい、と常々申しておりましたもので」
 彼はその声を聞きながら部屋を歩き回ってみた。浴室に入ると、その壁と浴槽は白、床と天井は黒となっている。トイレもやはり同じような具合で、何かしら落着かないし、何と言っても暗い。部屋には机も設置されているが、その表面は白く、引き出しの中は真っ黒である。何かを入れるとそのまま吸い込まれていきそうなほどの漆黒であった。そこでふといつか話した言葉を思い出した。「黒の距離は無限だからね...」
 机の引き出しを眺めながら、その言葉を今、実感している。
 真っ黒なカーテンを開けると、そこには真っ白な壁があった。
 「そこには元々窓があったのですけれど、娘の要求で壁にしてしまいました」
 淡々とした声が背後から聞こえる。電灯の光が床に反射していなければ、このまま落ちていきそうである。
 「娘さんは色白で、黒髪の美しい方だったんでしょうね」
 彼は少し皮肉を込めて聞いたつもりだったが、
 「はい、その通りでございました」
 老女は真顔で答えた。
 「すいませんが、一度電気を消していただけますか?」
 唐突な申し出に、老女は少し驚いたようであるが、「結構でございます」と小さく返事をし、壁のスイッチを押した。

 …と、途端に全てが消えた。
 全く光が入ってこない部屋である。しんと静まり返った部屋に、老女と彼の息遣いだけが聞こえる。あの時の、、あの感覚である。
 しかし眼の慣れないうちにも、白く塗られていた場所だけは、おぼろに浮き上がってきた。しかし足元はそこはかとない闇で、自分が浮かんでいるような錯覚に囚われた。そうなると何やら不安定で、机にすがり付こうとしたが見えていたはずの机はそこに存在せず、彼の手は空を切った。
 …あの感覚であった。
 そのまま上下も分からずに倒れ、何かで肩を強く打った。
 その後、再び電気が点き、老女が傍に足早に近寄ってきた。
 「大丈夫ですか?」
 「ええ、なんとか」
 彼は体を起こし、その場に足を伸ばして坐った。特にどこか痛がる様子もない。老女は椅子を彼の方に向けて坐った。
 「どこか、怪我をなされました?」
 「いえ、大丈夫です」
 彼はもう一度部屋を見回した。
 なぜか老女の足元と、手と顔が視界に入ってくる。そう言えば、老女も黒いワンピースを着ている。そして彼も今日は、黒のズボンに白いシャツであった。彼の腕、老女の顔、つまり二人の肌だけが色を持っていた。それらが異様にも抜きん出て存在するように見える。今まで全く意識しなかったものが、、、である。
 何となく、ここに住んでいた女性が見えてきた。
 「この部屋には鏡がありませんね」
 老女は少しうつむいたまま肯いた。
 「鏡は持ち込んでも構わないでしょう?」
 この提案に老女は顔を上げ、一瞬の間を置いて答えた。
 「それは、ぜひとも…。必要であればこちらで用意させていただきます」
 「娘さんも持っていたんでしょうね」
 老女は目を輝かせて肯いた。
 「その通りでございます。等身大の姿見を持っておりました」
 「その鏡の前に、裸で立ったりしていたのでは?」
 老女は少しぎこちなく肯いたが、顔が少し紅潮し、口元が表情を浮き出している。
 「おそらく、真っ赤な口紅なども塗っていたのではないですか?」
 その言葉を聞くと、老女は少しうつむいた。ハンカチを取り出して眼を二、三度押さえると、その目尻に皺を寄せ、鼻を小さく鳴らした。
 「そうです。娘は鏡を見ながら口紅を塗るのが一番の楽しみでした。…そうです。貴方のような人を待っていたのです。娘が鏡を頼りにしていたことを理解できる人に、この部屋をお貸ししたかったのです。今まで何人か訪ねてまいりましたが、誰一人としてそれを推し量れる人はおりませんでした。貴方のような方になら、この部屋を無料でお貸ししてもよろしいのです」
 老女は興奮して立ち上がり、吐き出すように言葉を連ねた。彼も立ち上がり、まだ喋ろうとする老女を遮った。
 「すみませんが、この部屋を借りることは出来ません。貴方の娘さんは...、どうやら違う。。。」
 彼はそれだけ言うと一礼をしてその部屋を出た。老女は何かを言おうとしたが、その後ろ姿を止めるほどの時間もなかった。

 玄関の扉を開けると太陽の光が眩しい。外に出て振り返ると、美しい「賃貸」の文字がまた目に入ったが、その張り紙はいつから掲げられていたのか、、、。あの部屋に住んでいたのは、、、。
 急に周りが音を立ててざわつき始めたような気がする。彼が我に帰るにはもうしばらく、この人込みに紛れている必要があった。一瞬、あの部屋に多大な興味を持った自分がいたのは確かである。しかし彼の探す女性は、あの部屋では生まれない、ということも感じ取っていた。
 ショーウィンドウに薄く映る自分を横目に見ながら、街の動いているのを感じ、ふと立ち止まった。そこに写っている自分の顔が、こちらを見てにやりと笑った...、と、、彼の体は総毛立ち、足早にその場を去った。その彼の背後を見つめながら「きゃきゃきゃ」と何かが笑った。


異心①


 あのひとは暴動の起こった最中、荒れた街を堂々と歩いていた。火炎瓶が飛び交い、その騒ぎに紛れて商店街のものを盗む者、車を破壊する者など、ありとあらゆる犯罪の巻き起こる中を堂々と歩いていた。私は暴動から逃げようと走っていたのであるが、あのひとのおかげで立ち止まった。その平然とした態度、それに付随する悲しげな目が、この場面には余りにも浮き出ていたのである。私は単なる淋しがり屋ではない、、、にもかかわらず、あのひとに話しかけてしまった。
 「どこに行かれるんですか?」
 私の問いかけにも、あのひとは足を止めなかった。ちらりと顔を見て、涼しげに笑っただけである。
 「怖くないんですか?」
 その問いかけに、あのひとはまたにこりと笑い、
 「あたしの責任ですから...」
 そう言って、荒れた雑踏の中に消えていった。
 あのひとは決して悪い人でもなければ、淡い人ではない。いわばその正反対にいるひとである。あらゆる治乱が反発するようなひとである。つまるところ、私の欲求を満たすのに必要不可欠なひとである。私があのひとを傷つけたとき、私の目的は果たされるのだ。

 あのひとを傷つけるにはどうすればよいか。あのひとに罪悪感、または良心を持たせるべきである。それでは不十分かもしれない。あのひとはすでに良心を持っている。そしてその良心を侵されることにも慣れ切っているのだ。もしかすると自分で強引に自分の良心を侵しているのかもしれない。そんなひとを相手に、勝つことができるのだろうか...。
 方法としては単純である。あのひとが私を信頼すればいい。その信頼の度合を高め、究極に達した瞬間、その信頼を打ち壊すのだ。それであのひとは大いに傷つくだろう。ただ、その崩壊はあくまでも私が故意に引き起こすものでなくてはならない。しかもそれを、あのひとに知らしめなくてはならない。
 単純かつ大胆な計画である、、、が、あのひとは私を信じるに決まっている。あのひとは今日私に会った瞬間、既に私の罠にはまってしまったのだ。そして崩壊に向かって既に進んでいる。しかし決してあのひとは不幸にはならない。そうでなくては私の目的は果たされない。
 あのひとは私に会いに来るに違いない。我ながらこの自信はどこから来るのか、いやこれは自信などという私事ではない。これは事実である。ただそれが未来に位置するに過ぎない。未来のことは分からない、、、などという時代も能力も、もう萎びてしまった。
 こうなれば私はわざわざ待っている必要もないし、かといって迎えに行くこともない。ただ平穏無事に過ごしていれば、事情が流れてくることになっている。

 私はいつものデパートに買い物に出かけることにした。以前からジグソーパズルが欲しかった。それもビルの建ち並んだ風景がいい。それを私が一つ一つ組み立てていくのである。それは前々から望んでいたものだが、昨日壊されていく街を見たことで、余計そんなことを思うのかもしれない。
 外に出てみると、昨日とは打って変わって静かであった。いつも通りといっても過言ではない。少し窓の割れた家が目立つが、道もきれいに掃除されているし、ある程度通行人もいる。私は歩き慣れた道を進んでいった。
 デパートの前まで来るとますます人も多くなり、いつもと変わらない。このデパートの四階に僕の馴染みの玩具店がある。馴染みと言ってもまだ何も買ったことはない。ただ歩いて眺めているだけの店だったが、それでジグソーパズルがあることを知っていた。何度も来ている店だが、初めて買い物をしようと身構えると、いつもとは違う店のように感じた。
 ジグソーパズルのセクションに行くと人はいなかった。最近はこういうのがあまり流行らないのかもしれない。しかしその種類は多い。ビルの建ち並ぶ風景といっても、世界中の街並みが一通り揃っている。その隣に、朽ち果てた廃墟のコーナーもあり、これも相当な種類がある。これはどちらも買うべきだ、と思った、、、と、その時、レジに座っていた女性が急に叫び始めた。
 「このビルに爆弾を仕掛けてある。助かりたければ私のいうことを聞いてもらう」
 …これだ。。せっかく私が買い物をするという時に限って邪魔が入る。
 「この中の誰かに毒を飲んでもらう。二階の薬局にその解毒剤があるから、それを飲んで14分以内にここまで帰ってこれたら、爆破するのは止めてやる。誰か志願する奴はいないか?」
 私はそれをじっと聞いていたが、どうにも訳が分からない。こいつの狙いは一体何なのか。もし誰かが毒を飲み、14分以内に帰ってこれなかったら、ビルを爆破しておいて、罪をそいつに被せるつもりか。もしそんな不条理が通用したとしても、ビルを爆破すれば自らも死ぬのである。
 、、、しかし今は、それを本人に問い正すような状況でもなかった。周りを見ると子供と中年の女性ばかりである。そして私には自信があった。その二階にある薬局の場所も知っている。毒を飲む役を買って出るのは私である。もしや、それを予想してこの女性は訳の分からないことを言い始めたのだろうか。どちらにしても私しかいない。

 私は静かにその女性に近づき、目で合図をした。その女性もうなづき、透明の液体の入った、透明の瓶を差し出した。それほど量はない。牛乳瓶の半分程か。
 その場はしんと静まり返り、周りの人々はなぜか私に期待の目を向けている。
 刹那…、全てが罠に思えた。しかし私には自信があった。自信のある者に期待の目を向ける。それは普通の状態であるように思われる。ただ、周りの期待が、私が帰ってくるということではなく、これを飲むことだけに向いているとすれば。。
 それでも私には14分以内に帰ってくるという自信がある。そして14分以内に帰ってくれば、この女性はビルを破壊しないらしい。そうするしかジグソーパズルを買う手段はなさそうである。となれば、、、やるしかあるまい。
 私はその液体を一気に飲み干し、目の前の女性が時計を見るのを確認してからエスカレーターに向かった。その液体の味は全くの透明であったが、鼻腔の奥で少し原始的な香りを覚えた。
 私はエスカレーターを駈け降りた。三階に降りるまでに途中何人かを追い抜いたが、その人達の視線を背中に感じた。それを感じるほどには余裕があるらしい。そしてこの自信のおかげで、今私が走るのを不思議そうに眺めている人達も救われるのだ。私は目指す薬局に向かってひたすら走った。
 二階まで降り、左に折れた真正面にその薬局はある。店に入ったことはないが、その看板だけは覚えていた。駆け足でその店に入ると、辺りを見回した。客はいない。レジに座る女の人が一人、ちらちらとこちらを見ている。どうやらその女性に頼るしかなさそうだ。
 私が近寄ると、その女性は何も言わずに一つの透明な瓶を差し出した。それが解毒剤なのであろう。私は余りにも呆気無く事が成されることに多少疑問を感じながらも、その瓶に入った液体を一息に飲み干した。それを見るとレジの女性は手で私に行けと合図をし、私はその手に弾かれるように再び走り出したのであるが、どうも周りの様子がおかしい。
 今まで平然と歩いていた人達が皆、たたずんで私を見ている。私は何かしら自分を失ったような気がしてきた。周りの人はこれ以上何を私に求めているのだろう。それとも私を排除したいのだろうか。しかし急がなければならなかった。例え世の中の状況が変わったとしても、自分がするべきことは変わらない。私はエスカレーターを今度は駈け上り、再び四階の玩具店に向かった。
 ところが、、である。その玩具店は人でいっぱいであった。警察も含めて店の中はおろか、店の前にまで人が膨れ上っている。その警察の中の一人が私に近づいてきて私の肩を抱き、
 「ご苦労だったね、すぐ病院に行ってください」
 とだけ言い、再び人混みの中に消えて行った。しかし、、事情が全く分からないままこの場を去る訳にはいかない。その警官の後を追ったが、その人混みの中に、私に毒薬を差し出した女性が警察に捕まっている姿を見た。おそらく、、そういうことなのだろう、、、が、どうも腑に落ちない。もう少し詳しいことを知りたい。それでさっきの警官を再び追い始めたのであるが、そこで見つけてしまった。。。

 あのひとである。あのひとが立っている。それで私は納得した。おそらく今回のことは全てあのひとが引き金なのだ。そうである。あのひとは私を誘き寄せるためにこんなことをしたのだ。それならば私にとっては全て納得がいく。やはりあのひとと私は再び会った。しかしそれは、未来に位置していた事実が現在に到達したに過ぎない。
 私はそっとあのひとに近づいた。あのひとも私に注目し、私が声を掛けるのを待っている。例えあのひとが私を誘き寄せたのだとしても、私から声を掛けなければならない。それが信頼されるための第一歩だから、、である。
 「今から病院に行かなければならないんですが一緒に行きましょうか」
 彼女は何の質問も否定もせず、素直にうなずいた。
 ...と、この瞬間から「あのひと」は「彼女」へと移り変わっていた。


隣人


 ようやく引越しを終えて、一杯お茶を飲んだ。まだ細かなものは片付いていないがとりあえず一段落した感はある。住む所を探し始めて早々に手頃な安アパートに部屋が借りられたのは運がよかったのかもしれない。安いと言ってもまだ築年数も10年やそこらで、水回りにも大きな不安はなさそうな部屋である。
 この日はさっさと夕飯でも食べてきて寝てしまおうか、出かける用意をし始めた、、、とその時、玄関のベルが鳴った。ドアに近づいて、様子を伺おうとしたところで覗き穴がないことにようやく気づいた。仕方なく、少しだけドアを開けると荷物を持った宅配便の従業員らしき男が立っている。
 「すみませんが、隣の203号室のお荷物を預かってもらえますか。あいにく留守のようなので」
 このそこそこ物騒な時代に、いくら隣の部屋とは言え、赤の他人の荷物を預かるようなシステムがあるのか、断る理由がありすぎてとまどった。しかし、越してきたばかりの自分が知らないだけで、このアパートではそういうルールがあるのかも知れない。また、少し考えると両隣にはいずれ挨拶に伺おうとは考えていたので、いい機会だと思って引き受けることにした。しばらくはここに住むことになりそうで、多少なりとも近所付き合いは必要になるだろう。
 荷物と言ってもティッシュペーパーの箱より小さいくらいで、持つと想像以上に軽かった。宛名を見ると「鈴木恵梨香様」となっている。振ってみても軽いものがつまっているのか、重心のゆらぎも感じられず、特段の音も立てなかった。忘れるわけはなさそうだが、出かけた後、帰ってきてすぐ気付くように、その荷物の箱を玄関脇の壁に立てかけておいた。
 私の部屋が202号室だが、そこからアパートの出口に向かって歩く途中に203号室の前を通る。見ると「鈴木」と手書きの表札が出ていた。今時、表札をかける部屋も珍しいのではないだろうか。それもこのアパートの文化なのかも知れない、、、あまり気にもかけず、新しい街にでかけて近所を散策した。引越しは何度か経験しているが、何日間かはこの新鮮な散歩で引越しを実感する。新しい景色の中を歩くことに集中して、他のことを考える余裕がない感覚は悪くない。

 ふらふらと歩きながらも、近所で美味しい定食屋さんを見つけ、焼き魚定食を食べて帰ってくるのに、2時間もかからなかっただろうか。もう夜の7時で、日はとっぷりと暮れている。部屋に戻ると目の前に、先ほど壁に立てかけておいた荷物を見つけた。この時間、もう遅いか、、、と案じながらもその荷物を持って203号室のベルを鳴らした。
 ほどなくして、、ドアが少しだけ開いた。ドアチェーンの隙間から首を傾げている顔は暗くてよく見えない。夜であろうが昼であろうが、おそらく単身の部屋に見知らぬ人が尋ねてきたら警戒するのは当然のことだろう。
 「隣の202号室に引っ越してきたものですが、先ほどお留守の間に203号室宛の荷物をお預かりしておりまして...」
 やはりこのアパートではよくあることなのだろうか、それだけ言うと察してくれたらしく、彼女はドアチェーンを外した。
 「どうも、すみません」
 彼女は片手でドアを押さえたまま、玄関の電気をつけてくれた。それでようやくその表情を見ることになった。短髪で色黒のいかにも健康的な若い女性で、大学生にも見えるくらい初々しい感がある。彼女は私が渡した荷物を手に取って、玄関の電気にかかげて宛名を眺めた。そして、何かしら不審そうに首を傾げ、帰りの挨拶をしようとしている私を遮った。
 「わざわざお持ち頂いて申し訳ないんですが、、これ私宛じゃないみたいです。送り主が違うから...。確か反対隣の201号室も鈴木さんだったから、そちらじゃないでしょうか。私もここに住み始めて長くないから、その人のことはあまり知らないんですけど。本当にお手間をおかけして申し訳ないですが、持って行ってもらえますか...?」
 はきはきとした言葉遣いで、申し訳なさそうに話す彼女は、特に嘘をついているわけでもなさそうであるし、その必要もない。私はまたどうせそちらの部屋にも挨拶に行く必要があると考えていたので、そのように伝え、荷物を再度引き取った。
 「わざわざご挨拶にも来て頂いてありがとうございました。今後とも宜しくお願いします」
 深々とお辞儀をした彼女から改めて挨拶を受け、私もよろしくと頭を下げた、、、と、もちろん、そのままその足で自分の部屋の前を通り過ぎ、五・六歩先の201号室を訪ねた。二階廊下の一番奥の部屋になる。確かに、こちらの表札にも「鈴木」と書かれていた。

 203号室の鈴木さんと同じような女性を想像しながらドアベルを鳴らすことになったが、二回、三回と鳴らしても何の反応もなかった。どうやら留守らしいので、仕方なく自分の部屋に帰った。意外と面倒な仕事を抱え込んでしまった、、、と思いながら、荷物の宛名ラベル見るともなく見て、、もう一度確認した。その私の目には不可思議な文字列が並んでいた。203号室の鈴木さんはラベルを見て「送り主が違うから...」と言った送り主が「201号室 鈴木恵梨香」となっているのである。 しっかりと確認もせず聞き流していたが、この荷物は201号室の鈴木恵梨香さんから203号室の鈴木恵梨香さんに送られたものである。。。?
 その行為自体、そもそも不思議であるが、送り主が違うと言った鈴木さんは当然送り主を見たのであろう、、その上で、私ではない、、、と。もちろん、同姓同名の人はいるだろうが、問題がそこにないことは鈴木さんも気づくであろう。
 しかし、私が不思議がっていても仕方がない。201号室の鈴木さんが帰ってくれば全てはっきりすることになる。どこで、、誰が、、何を、、間違っているのか。もしくは、嘘をついているのか。何も間違っていないことはあり得ないだろうが、誰の動機にもなりえない。。。
 まだ何も乗せるものがないテーブルの上に荷物の箱を置くと、どっと疲れを感じた。引越し当日でもあり、普通に疲れもあるだろう。他人の荷物の箱について考えることは放棄して早々に眠った。

 翌朝、起きてまず目についたのは、やはりその荷物である。これが片付かない限り、これ以上何も片付かない気がするので、荷物を持って201号室に向かった。おそらく留守であろう、、、と予想したのは、少なくとも寝ている間に私を起こすほどの音が聞こえなかった、、とそれだけの根拠である。果たして...、その勘は外れた。201号室の「鈴木恵梨香」さんは、いたのである。ドアのベルを鳴らすと、すぐに落ち着いた、よく通る声で「はい」と返事があった。
 その後、私は少しだけ開かれたドアの隙間に向かって、昨日と同様ながら、昨日より少し長くなった事情を説明した。それを聞いてゆっくりと開けられたドアの奥に、真っ白い顔が浮かんだ。彼女は「それはご丁寧に...」と社交的な言葉で探りながら私を玄関に迎え入れた。そして、当たり前ではあるが訪ねて来た私の続きの言葉を待った。
 私はまずその顔に驚いた、、というのも、203号室の鈴木恵梨香さんとそれぞれのパーツが同じ作りをしていたからである。目尻も唇も同じような形をしている。ただ、髪は長く、その肌の色、何より佇まいが全く別物であった。今目の前にいる女性は活発というより、物静かなしなやかさを表している。
 私が例の箱を渡すと、彼女は「どうも...」とお辞儀をしながら荷物を手に取り、宛名を確かめた。しかし、やはり首を傾げている。そして次に発した彼女の言葉は私をさらに混乱に陥れた。
 「私も、ここに引っ越してきたばかりなんですよ。この201号室には、今203号室の鈴木さんが住んでいたらしくて、、私はその後に入ったもので...。おそらく、彼女が201号室にいる間に、203号室に引っ越す自分に送ったものではないでしょうか。随分とおかしな話しですけれど」
 にこりと笑ったその笑顔は似ている気がする。私は愚直に「何かご関係でも?」と尋ねてみた。すると彼女はクスクスと笑い、
 「いいえ。全く何の関係もないんですよ。越してきてからも一度ご挨拶しただけで...」
 、、、そんなわけは、あるまい、、、しかし、私はこのことでこれ以上、頭も神経も使いたくなかった。この荷物の所有権が誰にあるかを知って、その人に届けて、特に明確な義務のない仕事をさっさと終わらせたくなった。ここにいても何も解決しそうにないことに気づいた私は、引越しの挨拶だけにこやかに済ませて201号室を後にした。早々に荷物を片付けたかったので、その足でもう一度203号室を尋ね、ベルを二度ほど鳴らしたが、今度はこちらの鈴木さんの反応がなかった。

 ウトウト、、と、している時に隣の部屋に気配を感じた。安いアパートの壁の厚さでは、どうしても他人の存在は無視できない。どうやら203号室の鈴木さんが帰ってきたらしい。
 水をコップ一杯飲んで目を覚ますと、再度私は203号室を尋ねた。一応、私の声は覚えてくれていたのか、ベルを鳴らして声をかけるとすぐにドアを開け「こんばんは」と歯切れのよい挨拶をしてくれた。私が手にまた同じ荷物を持っているのをちらりと見やると、何か慮ったのか、玄関に入るように招かれ、ドアが閉められた。仕事用なのか、濃紺のエプロンを羽織ったままである。
 私が今朝、201号室で女性に会ったことと、彼女とのやりとりの内容を伝えると彼女は軽く苦笑いをして、少し意を決したように口を開いた。
 「201号室の鈴木さんはどんな印象でしたか?」
 あまりにこれまでの流れと関係のない質問に、すぐには返す言葉もなかったが、難しい質問でもないので素直に答えた。
 「同姓同名ながら特に関係はない、と仰ってましたが、すごく似ていると思いました」
 目の前の鈴木さんはもう苦笑いすらしておらず、少し眉間に皺を寄せ、困ったような怒ったような目で私を見ている。
 「そんなことを聞いているのではないですよ。あなたも知っててはぐらかしているんでしょうけど」
 私は正直、彼女が何を言っているのか分からなかったし、おそらく分からないという顔を明確に彼女に提示してしていたと思う。また、何を言っているか理解しようとする動機もなかった。怒りもイライラも、悲しみも喜びもない、平坦な気分を続けていた。そのトーンのまま、彼女に答えだけを求めた。
 「この荷物はどうしたらいいですか?」
 彼女は何かに気づいたようにはっとして部屋に戻り、ペンを持ってくると「もう、、気持ちの問題だけですけど...」と言いながら受領印の箇所にサインをした。
 「これはあなたに差し上げます。おそらくあなたに必要な物だと思いますので」
 軽快に話していた彼女が、少し声を顰めたその言葉には、真剣な眼差しもあいまって妙な説得力があり、断るわけにはいかない雰囲気があった。
 しかしながらこの時点で、何かしら背負っていた、軽いながらも至る所に細かな棘のある債務は私から消えた。その達成感だけで今日は良い日だったとすら思えた。そこで、荷物を持って部屋を出た私の脳裏にふと疑惑がよぎった。ここにきて、急に呪縛がとかれたかのように活動をし始め、身の回りで起きている事象に興味を持ち始めた。
 今、201号室は不在なのではないだろうか?それはもはや勘というレベルを超えた肌感覚を持っていた。私はその足で201号室の前まで歩き、ベルを鳴らした。果たして、、、鈴木さんは留守であった。

 二人は同一人物ではないか。。。それは根拠が薄い。どうやって違ったタイプの女性を生き分けているのか、それ以上に、その必要性が全く見えない。ただ一つ、根拠と呼べるのは、二人の香りが同じだということである。それは香水やコロンなどの匂いではない。強いて言うなら、彼女の細胞1つ1つが吐き出す唾液の匂いである。
 しかし、これ以上の推測は無駄である。下手な推測をしても損をするだけである。そう思った時、、、留守であった201号室のドアが開く音が聞こえた。鈴木さんが帰ってきたのか、それとも...。
 消そうとしていた好奇心が、再び大きく膨れてくるのが自分でも分かった。そっとドアに近づくと外を歩く甲高いヒールの足音が聞こえる。201号室から出たその足音は、私の部屋を通り過ぎ、203号室の前で止まった。。。
 居留守をしていたのだろうか、、とすると、、私の好奇心はさらに膨れ上がった。今度は203号室のドアの開く音が聞こえ、様々な音が交錯したあと、再びハイヒールの音が甲高く響き始め、遠ざかっていく。思わず私はドアを開け、顔を出してその足音の主人を見ようと目を凝らした。廊下の灯りに照らし出されている後ろ姿は、、、二つ。二人の鈴木さんのものであった。
 二人は仲良く何かを話しながら出口に向かっている。私の好奇心は完全に裏切られた。「鈴木恵梨香」さんは二人とも、目の前に実在する。短髪と長髪、色黒と色白、それでいて同じ顔の同姓同名の二人は存在する。好奇心は増すばかりである、、、が、それを鎮めてくれるはずのものが手元にあることに気づいた。預けられたこの荷物は一体何か。。それが大変軽いものであることは分かっていた。

 包装紙を破ると、洋菓子でも入っていそうな箱が顔を出し、その蓋は簡単に開いた。箱の中は緩衝材で敷き詰められ、その緩衝材もセロテープで入念に巻かれていた。テープを剥がすと、、急に両手に重さを感じた。
 包まれていたのは、銀の鎖であった。ブレスレットか、ネックレスにでもなりそうな、しかしそれほど飾り気はない。見覚えはあるし、身に覚えもあるが、特に思い出はない。しかし、、そのジャリジャリとした手の感触からして、おそらく私が探していたものである、ということは直感的に理解した。どうやら、彼女たちは本物らしい。どちらが、、というものではなく、結果二人になったに過ぎない。どちらの見た目がどう、、ということもなければ、どちらの佇まいがこう、、と詮索する意味もない。あの二人にとって、この銀鎖は今日、意味を失い、意味が私に移った...。それだけである。
 私の好奇心は静まっていった、、というより既に満たされた。この贈り物はこれから常に身につけておく必要があり、そうしている限り彼女たちとは赤の他人でいられるはずだ。アクセサリーなどしたことのない私は、銀鎖をそっと右腕の手首にお守りのように巻きつけた。彼女らが赤の他人でいる間に、然るべき準備をしなければならない。


異心②


 私と彼女はまだ騒がしいデパートを出た。彼女は私の右肘に寄り添うようにして歩いている。 私は彼女を見て「あのひと」だと認めることはできたが、既に彼女の顔を忘れている。今、私の右後方にいる彼女の顔を思い出しながら歩いていた。それと同時に彼女が何を考えているか、を想像して歩いていたが、それは彼女の容姿を思い出すよりもまるで簡単な作業だった。
 彼女は微笑んでいるに違いない。そしてそれは私のおかげに違いない。しかし、それではまだ不十分である。彼女が私を信頼するには、まだ何かが必要である。それについて特別な作戦がある訳ではない。ただ、いずれ彼女は私を信頼するであろう。それも既に定められた事実になりつつある。否、、、既になっている。ただ、私は彼女とともにそれを確認すればよいだけである。

 私は彼女と病院に入った。その病院の院長は私の知り合いである。受付の看護婦にそれを告げるとすぐさま病室に入れてくれた。彼女も私の後ろに着いて入った。
 「久しぶりだな。幸い他に患者もいない」
 それだけ言うと、院長はすぐ診察を始めた。後ろにいる彼女のことは全く気に掛けていない。彼女は何も言わず、じっと私の後ろ、または横に立っているだけである。
 私が何も言わないまま、院長は診察を続けていた。血を調べ、尿を調べ、レントゲンもとった。看護婦は一人だけで、それも働いている様子はなく、ほとんどは院長自らが調べてくれた。
 私の資料が一通り集まると、院長は私に病室の椅子で座って待つように指図して、自分は奥の部屋に入った。おそらく全ての資料から私の現状を割り出してくれるのだろう。私は彼女とその結果が出るのを待った。おそらく私は解毒剤も飲んだことであるから、異常は無いと思っていた。それに毒といわれて飲んだものも実際は毒など入っていなかったのであろう。今回のことが彼女が仕組んだものであるなら、そんな危険な真似はしないであろうし、今こうして平然として私と一緒にいられるはずがない。
 結局二人が何も喋らないままに小一時間ほど経っただろうか、院長がようやく奥の部屋から現われた。別段神妙な顔もしていないが笑ってもいない。私は院長の言葉を待つしかなかった。
 「大変珍しいことなんだが。君の飲んだものは純粋な液体なんだ」
 唐突に喋り始めた院長の言葉に、私はうなずいた。
 「普通それを飲むと人間は耐え切れ無いんだな。何か異常が出る。その異常というのは、肉体的なものだけじゃないんだがね。君にはその異常が見られない」
 「あの、、、純粋な液体って、水のことじゃなかったのかな?」
 「違うんだな、水は液体の種類ではあるが、純粋な液体は全く違う。それは普通、人間では耐え切れないほど純粋なんだよ」
 「ああ、でも私は解毒剤を飲んだから」
 「いやね、君の飲んだのは解毒剤といっても、最初に飲んだものと同じ、純粋な液体なんだよ。確かに普通の人間はそれで平常に戻るんだが、君の場合、そこで異常が表われた訳だ」
 「異常、と言うと?」
 「精神じゃなく、肉体の方に異常が表われたんだな。また、これから如実に異常が出てくるだとう。残念ながら、君はこれから、そう長い間生きていることはできない」
 私は一瞬愕然とした。
 と、同時に彼女の顔をかいま見た。その彼女の目の輝きを見て、私の心境はまたもや一変した。
 やはり、これは彼女の仕組んだものであったのだ。彼女は私を試したのだ。そしてその結果がこれである。私の思惑通り、この結果で彼女は私を信頼することになりそうである。しかしそれは私の思惑通りとは言いながら、彼女の導いたものであり、またそれも未来に位置していた事実が現在に辿り着こうとしているに過ぎない。

 私が病院を出る前に、彼女が先に病院を飛び出した。私はそれを止めようともしなかった。彼女は再び帰ってくることが分かり切っていたからである。おそらく彼女は既に私を信頼しているだろう。あとは私がどう裏切るかである。
 しかしあの院長が最後に言った言葉が気にかかる。
 「君がいつ死ぬか、はっきりとは断定できない。何しろ私も初めて見る状態だからね。明日死ぬかもしれないし、二十年後かもしれない。帰る家はあるんだよね?」
 私はいつまで生きられるのだろうか。それがはっきりと分かっていれば対策も立つが、もし明日死ぬのであれば、、取り敢えず急いだほうがいいらしい。
 私はあらゆる可能性を思案しながら家に向かった。
 しかし彼女がいないとどうしようもない。彼女を間接的に裏切るのでは私は完成しない。直接、彼女の目の前で裏切るには彼女がそばにいなければならない。そこがまた私の限界でもある。どう裏切るか。しかも彼女がその裏切りを認めるように、また彼女が幸せになるように。
 私は家に着くと玄関で寝そべり、思案を続けた。
 と、そこに彼女が現われた。どうしてここが分かったのか、それも聞かなかった。彼女は私の隣に座り、少し興奮したように頬を紅らめて私を見ている。完全に私を信頼している目である。この目が例え一時的にでも沈鬱の目になると思うと、ため息が出た。
 ここに不純な私の良心が存在する、、。がこのまま引き下がる訳にはいかない。ここまで来たからには、裏切らなければならない。できるはずである。不安になる必要はない。今まで通り、頭をひねっていれば必ず達成される。裏切る瞬間は必ず目の前に現われる。とにかく考えるのだ。

 その時。。。
 一人の男が玄関の扉を開けた。全く見覚えの無い顔であるが、私の顔を一瞬見てから、彼女を睨みつけた。彼女は頬を引き締め、その男の目を逆に睨み返した。どうやら彼女の知り合いらしい。
 「また暴動が起きる。君の指図通りにな。やっぱりこの街は一度潰れないと駄目らしい。それじゃあ、待ってるから」
 それだけ言うと、その男は私には目もくれずに立ち去った。そして彼女のため息が一つ聞こえた。しかしその目にはまだ沈鬱は見えない。じっと玄関の扉を見ているが、焦点は合っていない。しかしいずれその目は私の目に向かうことになるだろう。そしてその時の目は信頼に溢れているに違いない。その目で私に何を求めてくるのか、私の頭は急激に回り始めた。
 昨日も彼女は暴動の中を堂々と歩き、「私のせいですから」と言って去った。そして今の男の言葉からすると、今日もまた彼女は暴動を起こすらしい。おそらく彼女は自分のしていることを正義と信じてはいない。彼女は、自分でも自分のしていることを疑いながら、日々、生きているのである。
 そこに、ようやく信頼できる人間が現われた。疑いの中に一つだけ確固たる人間が現われたのである。それが私であることは言うまでもない。彼女の中では、信頼を通り超し、信仰となっているやもしれない。
 果たして、彼女の視線は忠実に私の視線と重なった。そして当然その目は信頼に溢れていた。
 「助けてね...」
 彼女はそう言った。私は当然うなずいた。
 この瞬間、私の頭の中で裏切りの構図が描けた。つまり、彼女を裏切る瞬間が今、目の前に浮かび上がった。彼女の信頼は脆くも崩れ去る。そして私の願いが実現されるのだ。

 私が立ち上がると、彼女も吊られるように立ち上がった。その暴動の現場に向かわなければならない。もちろん彼女はその場所を知っているのだろう。私はそれに着いていき、彼女の手助けをすればいい。彼女はそう信じているだろう。そうでないと全ては達成されない。玄関を出て私と彼女は歩き始めた。彼女は何も言わず、ちらちらと私の顔を顧みながら、少し前を楽しそうに歩いている。
 私という助人を得たのが嬉しいのであろう。彼女は既に私の手の内にある。彼女の私を信じる純粋を裏切って、私が純粋を得るのだ。もちろん彼女は純粋を失うであろう。しかしそこにこそ彼女の幸せはある。私は全く間違っていない。
 しばらく歩くと、バス停が見えた。そこに、ちょうどバスが来た。どうやらそのバスに乗るらしい。彼女はバスの時間まで見計らって歩いていたのだろうか。そこに彼女の特異性があるが、それも私にとっては取るに足らないものである。
 そのバスには乗客がいなかったが、彼女は一番前の席に座った。私は彼女の隣に座り、緊張のためか思わず彼女の手を握った。彼女の手の温かさに一瞬驚き、彼女の顔を見た。彼女も私の顔を見返し、にこりと笑った。その時、ふと手首に重みを感じたが、手は離さなかった。
 二人は黙り込んだまま席に着き、前方をじっと見ていた。私らの後に乗ってくる客もいない。運転手も全く口を開かない。バスのエンジンの音だけが響いている。他に何も音が聞こえないから、エンジンの音は無いも同然である。彼女の手の温かさも、既に感じられない。彼女の体温と私の体温もおそらくは同じになった。少し右手を動かしてみて、ようやく自分の感覚が自分の感覚に悟られる程、彼女は静かであった。
 バスはいつしか山道に差し掛かり、バスのエンジン音が少し大きくなったが、それも一瞬のことで、また何もかもが止まった。
 と、その時、彼女の右手がぴくりと動き、それに反応してか私は手を離した。気が付くと前方にトンネルが見える。そのトンネルの前に黒い人だかりが見える。どうやら機動隊らしい。既に何人か、その機動隊ともめている。
 いよいよだ、と思うと、心臓が高鳴り始めた。と逆にバスはスピードを落とし、そのエンジン音は静かになり、やがて止まった。私はゆっくりと立ち上がり、彼女を振り返ると、やはり彼女も立ち上がった。
 おそらく、このトンネルの先に彼女の目指す場所はあるのだろう。しかし、ここを本当に突破できる気でいるのだろうか。それほどに私を信じているのであろう。私はバスを出て、周りを見回した。様々な怒声が響いている。私はその中心に向かって歩いたが、誰も私を気にするものはなかった。

 しかし、、、である。
 彼女がバスを降り、少し足を進めると、機動隊は一斉に彼女に向かった。それでも彼女は逃げようとしない。先ほど家に来た男性も含めて、何人かの男がその機動隊を防ごうとしたが、抑え切れるものではない。何人かの機動隊は彼女を目がけて走ってくる。彼女は私をじっと見つめて笑っている。
 今こそ彼女を裏切るときであった。それも簡単なことだ。彼女が捕まるのを見て高笑いをすればいい。
 常にその場で声の大きいものを正義として振り翳し、その正義の化身である機動隊は一挙に私をすり抜けて彼女を捕まえるのだ。
 ところが…。
 何がどうなったのか、私の横をすり抜けて行くはずの機動隊の一人が、倒れた。否、、、私の腕が機動隊員を殴ったのである。痛みは感じない。他の機動隊員は予期せぬ私の反撃にたじろいだ。
 それからは全く訳が分からなかった。とにかく私の肉体は機動隊の面々を叩きのめしていた。こんなはずではない。計画通りにここまでたどり着いた裏切りの計画は、これでは達成されない。私は必死になって彼女を振り返ろうとした。しかしそれもままならない。
 、、、刹那、、、
 私の意識は薄れ始め、体が後ろに倒れた。目に映ったのは、私の右腕の手首にからんでいる銀鎖である。その先に見えるのは、空と彼女と、彼女の持った銃であった。彼女が倒れた機動隊のものを奪って、私を撃った。
 それが一瞬の間に浮かんだ私の憶測である。私の思考回路もぼやけているようだ。彼女の顔がぼやけてよく見えないのが残念であった。
 私が目覚めたのは病院のベッドの上だった。枕元に例の院長が立っている。
 私が目を開けたのを見ると、院長は目を細めた。おそらく笑ったのであろう。
 「気が付いたね。君はまだ生きている。しかしこれからも同じ様な事が起こるかもしれない。しばらくはここに居てもらう。私も君を研究してみたいんでね」
 私はうなずくのも億劫な程、体中に重みを感じていた。上体を起こすのも面倒で再び目を閉じた。私は何かに失敗した。それがよく思い出せない。思い出すのも面倒である。何かを求めていたのであるが、それも分からない。
 女性の顔が虚ろにまぶたに浮かぶ。私はこの女性を愛していたのだろうか。そうかもしれない。それでその女性を求めて失敗したのだ。それならば忘れてしまうのは都合がいい。所詮、人は自分の最も欲するものを忘れている間だけ幸せになれる。もちろんその期間が最大の不幸でもある。
 そうだ。。。やはり忘れている訳にはいかない。何とかして思い出さなければ。何とかして気付かなければ。彼女は一体何者なのか。それが分かれば全てが明らかになる。しかしまた頭が重くなってきて、手も足も、まぶたさえも思うように動かないが、なんとかもう一度目を開けた。
 揺れる視界にこやかな彼女が近づいてきた。色々と聞きたいことがあるが、主語すら定まらず、唇が少し震えただけだった。そんな私の横に立った彼女は、まだ手首にまとわりついていた銀鎖をそっと取り外し、まるで最初から自分のものであったかのように首にかけて、私の耳元で囁いた。
 「まだ、熟してないのよ...」
 、、、裏切られたのは私なのか。。。
 何か思い出しそうだが、意識が遠のいていく。これ以上は考えることも許されないのか。しかし意識が薄くなるにしたがって、彼女の顔がはっきりと瞼に浮かぶようになってきた。それでいい。私は決して諦めない。次に目覚めたときは必ず彼女の正体を知り、全てが明白になっているだろう。この院長の正体さえも。
 ただ、彼女に会う時期が間違っていた。焦るべきではなかった。それだけだ。
 しかし、会うべき時は少しずつ、少しずつ近づいている。それは肉体の痛みが如実に語っていた。


機縁


 彼はちょうど一年、この地下室で洋服のシミを抜き続けた。彼にとってそれは天職のように感じられていた。朝9時から夕方5時まで、途中1時間の昼休みをはさんで、ひたすら洋服のシミを抜き続けた。醤油であれ、赤ちゃんのよだれであれ、油性インクであれ、どんなシミでも彼は全く跡が残らないように仕上げた。
 作業量としては、1日に延べ1メートル四方程度のシミ抜きをする。使うのはある透明な液体と、8キロの重さのアイロンだけである。それだけでどのような汚れでも完全に落とすことができた。だからといってそれほど高い金を取るわけではない。それならば評判になりそうなものだが、特に客が増えるわけでもなく、もちろん減るわけもなく、同じ仕事を同じ量だけ毎日こなして日々を暮らしていた。毎日同じ時間に仕事を終える彼は、毎日同じ喫茶店で休憩していた。コーヒーと氷水を飲みながら一日を振り返り、吐いた煙草の煙を眺めながら、今日もまた落とせなかった汚れ、、、がなかったことを再確認するのである。

 ...その日、、彼が喫茶店に入ると、他の客は四人連れのサラリーマンだけだった。仕事帰りらしい四人はビールを飲んでいる。四人がそれぞれに店に入ってきた彼を見たが、すぐその失礼をかき消すようにそれぞれが話をし始めた。それきり彼への興味は消え失せたらしい。
 彼はレジの奥に見え隠れしている新人らしきウェイトレスが自分に気づいたのを確認して、窓際の席についた。座った席からは、既に陽の落ちた街を行き交う人が、白い息を篭らせているのが見える。彼はコートと深緑のベレー帽を脱ぎ、適当に丸めて向かいの椅子に軽く投げると、煙草に火をつけた。一息煙を吐くと、ようやく店内に小さく流れていたピアノの音が頭にも届き始めた。

 重なる人の流れを眺めながら、異様に落ち着いた彼は、そのまま煙草を一本吸い終えた。喉には渇きを覚えている。しかし、予想以上に時間がゆるりと流れていたものか、誰一人として彼の声を聞きに来る者はいない。彼に気づいたはずのウェイトレスは一体どうしたのか、、、と、一度落ち着かせた首を持ち上げた。
 そこには、光の少ない厨房の前で柱に背を寄せ、こちらを見ている女性がいる。アイロンの通った白いブラウスの袖が微量の光を反射し、その上に濃紺のエプロンを羽織っている。見かけない顔ではあるが、そのブラウスとエプロンは見慣れたものである。実は、、彼が働き始めた頃から、この店のユニフォームは彼のところにシミ抜きが頼まれており、もうかれこれ二桁以上、この店のブラウスは真っ白に仕上げてきた。
 その女性は彼の視線をまともに見据えながらも、まだ動き出す様子が無い。しかし、彼の来店を忘れてしまったわけではなく、その焦点は、まさに彼の顔面に注がれているのだ。彼は手を挙げる事をためらった。

 「私が誰であるかを知っている。。。」
 彼女の視線はそれを忠実に語っていた。そして彼は彼女を知らない。毎日のように来ている喫茶店であるが、脳裏には、思い出す兆候さえ微塵も現れない。もちろん、この店の店員全員の顔を覚えているわけではないが、いつも決まった時間に来る彼と顔を合わすウェイトレスは人数も絞られる。その中に彼女の顔はない。この店以外で会っていたとしても、それほどまっすぐに見つめることは許されるものではない。
 彼女の視線は彼の黒目を直線上に捕らえ、それ以外の一切を無視し、少し微笑んでいるように見受けられる。その笑いには、嘲りや愛想は含まれていない。どちらかと言うと親しみに近いものが溢れている。もちろん問題はそこにはない。それが何であれ、彼女の視線から主観が感じ取られる。。。それが、彼の動きを止めているのだ。
 普段、他人と目を合わすことの極力少ない彼は、この痛烈な直線に脅えさえ感じた。軽く彼女から目を逸らし、肩の力を抜いた。椅子の背もたれが小さく音を立てた。二本目の煙草に火がつき、煙も無事天井を目指して昇っていった。それで時間もようやく再び音を立て始めた。

 サラリーマンの密談する声が再び耳に響き始めたとき、テーブルの横に濃紺のエプロンが立った。
 「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
 ようやく、あるべき姿が顔を出した。澄んだ、接客用の声である。コトリと氷水が置かれる間に、彼は一応メニューを眺める振りをして、ブレンドコーヒーを頼んだ。
 「はい...」と小さな声が聞こえ、レシートがテーブルの隅に置かれた。彼の少ない人間鑑定の経験上、肌の張りからするに20代前半か。。爪には薄くマニキュアが施されているのか、色こそないが不自然に光っていた。
 あの視線のために、、、彼は不自然な部分を探すはめになった。一つ大きく煙を吐くと、注文を聞き取った濃紺が視界から消え失せた。誰にも気づかれない程度に、彼はその後ろ姿を目で追った。背中でクロスしたエプロンの結び目の上に、肩に辿り着かない程度の黒髪が軽々と揺れている。光の加減か、真っ白なはずのブラウスの首周りが、なぜか薄黒く濁って見えた。
 その後ろ姿が厨房の奥に消えてからしばらく、窓から外を眺めていたが、何も入ってくる情報はなく、ただ頭の中で先程の脅えがホロホロと転がっていた。軽快な後ろ姿も懐かしいというものでもなく、直視したはずの顔は、、、思い出そうと試みて、、失敗に終わった。あの、緊張から脅えすら感じた瞳さえ、今は脳裏に浮かび上がっては来ない。
 彼はそこで安堵を覚えた。
 「二度見た顔は忘れない...」
 それは、彼が唯一自慢できる特技である。他人と接する機会の少ない彼が、自ずと身につけた技である。自分が彼女に犯されていないことを証明したような気がして、彼は心底安心した。

 再び、、窓に人影が映った。濃紺のエプロンである。足音が彼の隣で止まったと同時に、彼はそちらを顧みた。それで彼女の全身を近くで見ることになった。右手の指を彫刻のように伸ばし、カップの置かれたトレイを支えている。
 「お待たせしました」
 快活な声が店内に響き、彼の空間が広がった。トレイを左手に移し、コーヒーカップが載った皿を彼の目の前に置いた。
 その爪であることを隠さない爪、関節であることを主張する関節、手の甲には血が赤いのであろうことを示す、碧がかった細い血管。そして、、何の違和感もなく、カップから指が離れた。
 カップは離れたが、彼女の右手はテーブル上の空間で少し戸惑ったかのように滞留すると、、、ザラリ、とした金属音ともにテーブルから消えた。
 カップの横には手品のように、銀の鎖が円を描いて延びていた。その鎖は彼にとってあたかも意味があるかの如く、ほんのりと光り始める。
 そして彼女は、既に視界から消えていた、、、と同時に彼は、胸の裏側あたりに、洗剤では落ち切らない染みが一滴落ちたような、気味悪さを覚えた。

 彼はカップに口をつけ、コーヒーの味と香りを確かめた。その間にも銀鎖は光を増していった。あくまで、彼との関係を主張するつもりである。その光から目を離し、再度窓を眺めた。そこには、ぼんやりと店内のライトが反射しているだけで、彼女の姿までは見えない。仕方なく彼女の顔を思い出そうとしたが、、、また、、消えていた。
 二度見たはずの彼女の顔は、彼の記憶からすっぽりと消え失せていた。軽快な後ろ姿は瞼に浮かぶ。その手、トレイを支えていた腕と肩、白い長袖のブラウスは生地が薄く、張りのある腕が頼りない光に透き通っていた。そこに掛けられた濃紺のエプロン。肩の部分の糸がほつれていた。その首の周りは純白のブラウスのはずが、薄く濁って見えていた。
 そこに隣接していたはずの顔は、顔は、、、銀鎖のツヤと重なってポロポロと消えていくのである。自分だけの約束が脆くも崩れ去ったのだ。
 「二度、見た顔を、思い出せ、、ない」
 その現実は、目の前で瞬く銀鎖を助長させた。もう一度、頭の中を隅から隅まで探してみる。
 脚は、、、素足に、高いヒールの黒いサンダル。素足は特に目立つような痣もなく、しんなりと長かった。エプロンの紐は背中で蝶結びにされていて、背筋はしっかりと伸びていた。そこまで覚えている。一度見た限りの後ろ姿は、細部に至るまで捉えている。
 ただ、顔、が、、だ。。。それほど無特徴で平均的な顔であったのか。確かに印象というものもない。奇麗だとも、可愛いとも、不細工だとも思わなかった。あの「美麗だ」という感覚は、彼に直線的に向けられた視線に対してであって、顔の印象ではない。あの直線に邪魔されたのだ。
 「顔」ぐらい忘れることもある。。。彼は、自分を裏切るしか自分を説得できなかった。そうしながらも、懲りずに彼女の顔を頭のどこかに隠れていないか、探し続けた。

 次に彼女を見たのは、四人のサラリーマンが店を出るときである。どれほどの時間が経ったのか、彼はその感覚を失っている。カップの隣でゆらゆらと光る銀鎖も、どれほど揺れようが、彼の知ったことではなくなっていた。四人のサラリーマンは一斉に立ち上がるとレジに向かった。レジは彼の視線上に有る。奥から小走りに現れたのが例の彼女であった。
 視界に入った彼女の横顔に、彼は「なるほどな…」と思った。平均的である。特にこれと言って目立つ部分がない。眉も描かれたものであろうし、鼻も低くなく高くなく、真っ直ぐでもなければ曲がっているわけでもない。口紅のついた唇はかえって目立たない。これでは、忘れるのも無理はない。。。
 彼はコーヒーをまた一口だけ啜った。まだ半分以上残っていたが、少し冷めている。銀鎖が映り込んだガラスの灰皿には、短い吸い殻が四本落ちていた。。

 「ごちそうさま」男の声が計ったかのように四つ聞こえた。にこやかに喋りながら店の扉を開けて出て行く。残された彼女はレジの前でペンを持ち、何かを書いていた。客は、彼だけになった。コーヒーはまだ残っている。
 彼女がペンを置き、彼の顔を一瞥した。たったその一瞥だけで、席を立つことをためらうはめになった。逆に彼女はなんの躊躇もなくレジを離れ、近づいてきた。彼は判決を待つ被告人となり、身構えた。もはや彼女の顔を見る勇気はなく、足音を聞きながら、微かに揺れる観葉植物に目を凝らした。
 無情にも足音は、彼の真横で止まる。彼は彼女を見ることを強制された。顔を上げると、そこに覆い被さるように無表情な笑顔があった。
 「おかわりは、いかがですか?」
 彼女は自然である。「お願いします」と言った彼もまた、自然であると信じていた。しかし内心は、何か罪を犯したかのように、奇妙に波打ち、またある部分は滞っていた。そして、彼女が被害者であることの証明として、銀鎖が目の前に突き付けられている。

 これ以上、他人を疑うわけにもいくまい。自分をよく疑るべきである。その銀鎖に見覚えはないか、彼女に見覚えはないか、声に聞き覚えがないか。何か思い当たる節はないか。自分の記憶を徐々に遡っていった。
 しかし、「無い...」。キーワードどころか、引っかかるものも全くない。親しくなった女性など、高が知れている。顔見知りの女性さえ、その数は両手で足りる程度のものだ。その顔を全て並べてみようとした、、、その時、足音が耳に入った。
 彼は既に臆病になっていた。考えることまで放棄して、何度かこの店を立ち去ろうと試みた。しかし、カップに波々と注がれたコーヒー、その横に落ち着いている銀鎖を見ると、その勇気も失われた。この状況の終わりが見えないまま、彼は味のしないコーヒーを舐め、むせるように煙草を燻らせた。

 我に返ったのは、また足音を聞いた時である。もちろん足音の主が誰のものだか分かっていた。完全に彼を目指した気配に、顔を上げてそちらを見やった。白いブラウスの女性は、片手にコーヒーカップを持っている。彼女は既にエプロンを外し、業務を終えた顔つきである。唇の間にほんの少し空間を見せ、何気ない鼻は呼吸をしていない。
 「相席させて頂いて、よろしいでしょうか?」
彼女の声は、思ったより小さかった。先程までのウェイトレスは消え失せ、ただの見知らぬ女性が目の前にいる。
 「は、、、い」
 彼はうなずいて、小さな声を出した。彼女は愛想笑いを示し、自分のコーヒーカップをテーブルに置き、腰を下ろすと背筋を伸ばした。淀みのない一連の動作は、幾らか彼の緊張を和らげた。体は彼に向かったまま、目は窓に向かっている。脚を組んでいるらしく、机の端からサンダルの先が見え隠れしている。机の上で十本の指が丁寧に組まれ、親指だけが静かに動いている。ブラウスの襟元はボタンが二つ開けられ、首筋が顔の向きを示している。やはりブラウスの首元が薄汚れている気がする。
 全ては彼を意識したポーズであり、動きである。分かってはいるが、それがつい自然に感じられる。彼女の術中に陥るのは、少し気に食わない。
 「もう、閉店ですか?」
彼の声は、思ったより小さかったが、彼女は少し目を閉じて、こちらを向いた。
 「いいえ…。でも、もう私は…」
 それはそれで居心地の悪いことになった。事実、面と向かい合ったもののどうしたらよいか、見当もつかない。彼は目線を彼女の指に向け、そこでも落ち着かずに銀色の鎖に移した。気がつくと、自分の手も彼女と同じように組まれ、親指だけをゆっくりと動かしている。

 気まずさを隠せなくなった彼は煙草に手を移した。
 「煙草は、よろしいでしょうか?」
 「ええ、結構ですわ…」
 彼女の言葉は古風な響きを残し、それは芝居染みた場を作った。煙草をくわえ、ライターを持つと、この百円ライターがいつも通り火を点すのかどうか心配になった。大物女優と二人で舞台に立っているような緊張が、彼を襲う。
 火をつけた最初の一息さえ、喉に馴染まない。目を上げると、彼女はふと自分の鞄に目をやり、何か思い出したように鞄を手に取った。彼も幾分楽になった。目の前の相手が、自分以外のものに興味を抱いているうちは、何となく安全であるような気がした。この時点でもう彼は追い込まれ、へとへとに疲れていたのである。

 そんな彼の心境を知ってか知らずか、彼女は鞄から一枚の紙とペンを取り出し、徐に机に広げた。広げた後、銀鎖をちらりと眺めた。彼は一瞬身を固くしたが、それは恐れからのものではなく、苛立ちを抑えようとした結果である。敵、、、ではないにしろ、得体の知れない意識が目の前にいることに、彼の緊張は度合いを急激に増していった。
 彼女は彼がいないかのようにペンを走らせ始める。それでいて時折顔を上げると、その視線は彼の目にぴたりと止まり、おどけた風に少しだけ白い歯を見せる。彼の心拍数は完全に彼女に操作されている。窓の外で時間が動いていることを確認し、目の前に動くペン先は、片目の隅に追いやった。
 そして、、、ペンが止まった時、自然と二人の目が合う。彼の目の前に一枚の文書が突き付けられる。それは、履歴書であった。丁寧に彼女の顔写真まで貼り付けられている。
 「氏名、鈴木恵梨香、住所、、、学歴、、、」彼はその一部始終に目を通した後、彼女に返した。それを右手で受け取った彼女は、無造作に履歴書を鞄に投げ込んだ。彼から視線を外さず、机に両肘を突き、顔の前で手を組んだ。
 「私のことがお分かりになりました...?」
と、再び古風な響きを立てていたずらっぽく笑う。履歴書の名前や肩書きではない、彼女の細胞の吐息、、のような香りから、彼はおぼろげながらも道が見えてきたような気がした。そもそも履歴書の内容など、既に彼の記憶には1行たりとも残っていない。

 ブラウスの首の周りを見つめ、明らかに薄く緑青に変色しているのを確認し、彼女も見られていることをはっきり意識していた。
 「このネックレスをつけてたんですね...」
 「ネックレスでもない、、みたいなんですけれども」
 「私ならその汚れは落とせますよ。。。」
 「これは汚れ、、ではないですよ」
彼はその言葉も予想していたかのように、、、
 「出ましょうか。。。?」
 、、と、席を立ち、彼女もそれを予想していたかのように、傍らのベレー帽とコートを彼に手渡した。
 コートに袖を通した彼は、おもむろに銀鎖に手を伸ばして掴み、ジャラジャラと音を立てながらコートのポケットに入れた。奥から現れた中年女性のウェイトレスにお金を払い、外に出ると、思った以上に寒気が押し黙っている。店の中から、ウェイトレスの女性が不思議そうに見ている視線を感じながら、一つ、二つ、呼吸をして、帽子を被り、体勢を整えた。
 「つまり、この銀色を、、、」
ポケットに手を突っ込んでジャラリと音を立てながら、彼が言いかけた所に注して、
 「さあ、どうでしょうか。。。?」
 彼女はまだ、いたずらな顔を失わない。
 「こちらにいらしてください」
 彼は素直に彼女に近づいた。彼女の吐く息が届く程に感じられる距離で次の指示を待つ。彼女は少し上目遣いで彼を伺い、瞼を曇らせた。

 「目を閉じて、私の顔を、触ってみてください」
 ようやく彼の耳に届く程の声であった。彼は偽りなく目を閉じ、恐る恐る右手を伸ばす、、、その手を彼女がエスコートした。肩から首、そして顎へとなぞっていく。唇は温かく、鼻は異様に冷たい。頬の膨らみで一瞬止まったが、再びなぞり始める。長い睫毛を確認し、柔らかい眉を確認し、額はなぞる程の距離も無く、髪に触れた。
 この時、彼は既に考えることは放棄していた。指先からの情報は自然と閉じられた瞼に映し出されている。そしてもちろん、瞼に映る女性は、目の前にいる彼女の顔とは重ならない。そこにはまだ幼い少女が浮かんでいる。
 彼女は静かに手を降ろしたが、彼はまだ目を閉じていた。瞼に映っているのは、女性の顔だけではない。銀鎖もまた、そこに光っている。それが繋がりを持つのに、さほど時間はかからなかった。
 彼は目を開け、穏やかに微笑んだ。そして彼の口を衝いて出たのは、
 「おかえりなさい。。。」
 それである。
 「ただいま。。。」
 彼女もまた、白い息とともに微笑み、二人は言わずと同じ方向に歩き始めた。
 「つまり、この銀鎖は、、、」
 「そう、、、。きっかけ、というものですね」
 彼は心地の良い溜め息を、十分な時間をかけて吐き出し、それを見た彼女は少し頬を引き締めた。彼はポケットからもう一度銀鎖を取り出して、彼女の目の前にぶら下げた。
 「ようやく、、、」
 そう言う彼女を真横に見過ごした後、寒空を見上げると、月が明るい。彼女もまた、月を見ていた。
 「冷えるね。今夜は。。。」
 「それもまた、きっかけですから...」
 彼女はそう言うと、覚悟を決めたかのように一息ついて、公園に向かって歩き始めた。月の光に照らされて遠ざかるその後ろ姿を見ながら、彼はポケットの中で銀鎖をジャリジャリと握りしめ、時期が来た事を悟った。


救出


 それはひどく閉鎖的な街であった。街周は全てコンクリート塀で遮断され、ただ一つある入り口兼用の出口にも二人の門番が立っている。入る際、衣服を全て脱がされ、全ての所持品を調べられ、体重計のようなものに乗せられた。私の体重は65キロであったが、その計測器の目盛りには359と示されていた。それが何の数値なのか分からないまま、書類にサインをさせられた。最後に拇印まで押すことを強要され、ようやくその街に入ることを許された。

 乱立したビル、街を囲む塀、そのことごとくが青から緑に変色している。かびているのか、もしくは腐り始めているように見えるが、何であれ、じめじめと重い。人通りも有るにはあるが、物珍しいはずの私に誰も見向きもしない。
 今まで広がっていた空も見えない。昼間であることが何となく分かる程度にほのめいている。広い街道には街灯が並んでいるが、灯は入っていない。私は呆然として何を探すでもなく、どこかを目指すわけでもなく、ひたすら街を貫く一本道を進んだ。目的を忘れさせるほど、この街は妙な趣に満ちていた。

 14分ほど歩いたところで、電話ボックスにたどり着いた。公衆電話としては随分広く、中にはガードマンらしき男が厳重にも二人、電話に向かって立っている。向かい合ってぽつぽつと何か話しているようであるが、内容までは聞き取れない。この電話がこの街唯一外部との接触点であろう。それは直感である、、、が恐らく正しい。私の友人もここから電話をしてきたのだ。
 …そうである。それでようやく思い出した。私がここに来たのは、友人から受けた一本の電話のためである。彼とは何年か前に初めて会い、12時間ほど時間を共にし、それ以来会っていない。それでいて私の友人と呼べる数少ない人物である。おかしな話に聞こえるかもしれないが、実は誰もがそのような友人を、一人は持っているものだ。
 「できるだけ早く、俺のところへ来てくれ。あのきっかけだけ忘れないように、、、」
 彼はそれだけしか言わなかった。それでこうしてたどり着いたのだから、それで良かったのだろう。彼は正しかったのだ。後は本人に会えばいい。
 電話ボックスの周りをきょろきょろと見回したが、それらしき人物はいない。随分と空からの圧迫を感じる。この腐りかけたビルの中で人は活動をしているのだろうか、不思議に思ってビルの窓を見上げた。
 生命は感じないが、何か動いているようでもある。街を観察しながらふらふらと歩いてみたが、結局何の変化も無いまま壁に突き当たった。壁は近くで見ると相当高いが、変化の度合いが酷い。苔が生えているのでもない。溶けているようでもない。ただ、腐っているのだ。
 そこから左に折れ、狭い路地を歩くことにした。ますます光は薄くなる。一つ建設中のビルがあった。8階程まで完成している。何階建てになるのか分からないが、まだ上にクレーン車が見える。しかし、1階から3階ぐらいまでは既に深い青から緑に変色し、何か水っぽいものが染みを作っている。上部は黒と白の縦ストライプである。この街では初めて見る明度の高い色であった。

 …と、どこからかぶちぶちという大きな音が聞こえてきた。穏やかな音でありながら、四方のビルに響き、共鳴している。ふと、私の横で足を止めた人の目線を追ってみた。その先には徐々に高さを失う濃緑のビルがあった。それほど遠くはない。私はそちらに足を向けた。
 その場には既に人だかりが出来ていた。ビルが崩れるというよりは、ビルの屋上が降りてくるという感じで、実に優雅な風景であった。窓から人が降りる。しばらくして上の階が地上に降りてくると、その階にいた人間が窓から降りる。なかなか手慣れたものである。1時間も経っただろうか、ビルは完全に消え失せた。幾分か地面が盛り上がっているだけで、先ほどまでビルの役割を果たしていたものは欠片も見えない。近づいてみても量といい質といい、高層建築物を成していたとは到底思えない。
 私がほとほと感心していると、後ろから肩を叩かれた。振り返るとそこには友人がいた。

 彼は以前より幾分痩せたようであったが、他はそれほど変わっていなかった。顔色も多少悪いが、それも単に痩せたからであると思われる。彼に着いてゆっくりと歩き、路地裏に入ると、相当暗い。暗いが危険を感じるような息吹はない。湿っぽい路地で、地面も腐っているかのように見えるのに、不潔な感じはしない。ごみ箱の上に二人で腰を下ろすと、彼は大きく息を吐き出し、ようやく口を開いた。
 「俺はここから出たい。手伝ってくれ...」
 私は無条件に肯いた。彼はズボンの裾をひき上げ、脛を見せた。そこは腐ったキュウリのように深緑に変色し、彼が指で突くとぽろりと欠片が落ちた。その欠片が地面と一体化すると、私は事情を察して、もう一度念入りに肯いた。
 彼は上着のポケットからペーパーナイフを取り出し、私に手渡した。そして「刺せ」と、膝あたりを指差す。さすがに私も一瞬戸惑ったが、カテリを信じて脛あたりを刺した。刺したというより、ゆっくり押し込んだ。ペーパーナイフは足の存在を私の手に伝えなかった。
 「そうだ。こいつらは下から来るんだ」
 彼はしばらく黙り込んだ。痛みは感じないらしい。
 「出られないのか?」
 私の素朴な質問に、彼は砂が流れるように笑った。
 「すんなりと出るには、あまりに多くの過ちを犯しすぎた」
 しばらくしてペーパーナイフを引き抜くと、その先に少しだけ赤い色を確認した。彼はそれを私の目の前に差し出した。
 「見ろ。この街では滅多にお目にかかれない色だ」
 そう言って微笑み、再び眼を引き締めた。
 「俺は出る」
 彼は独り言のように呟くと私に財布を預けて何度か頷いた。特に中身に興味もなかったが、財布を開いて確認すると小銭入れのポケットに3枚だけ1円玉がひっついていた。その様子を見て彼は立ち上がり、今度は白く笑った。
 「他人の血を見るには、それだけの理由が必要なんだ」

 彼はゆっくり歩き始めた。私も立ち上がり、彼に続いた。歩きながら彼は喋り始めた。私が知っている12時間あまりの彼の中では最高に饒舌であったと思われる。
 「見た通り、ここでは何もかも腐る。皆それを知っている。だからビルも腐って構わないように造ってある。作り直すのも簡単で、ジグソーパズルを組み立てるようなものだ。しかし、いずれ腐るんだよ。面白いと思わないか?だから来たんだよ…ここに。しかし出られないんだな。何かすると何かそれに見合うものを吸収しないといけない。その取引がね、、お前も入るときに登録しただろうが、なかなか出るときに一致しない。俺は何も変わっていない。変わっていないはずなんだけどな。腐るんだよ。それがなぜか、誰も分からないし、誰も分かろうとしない。とにかく、ひたすら腐るんだ」
 彼は幾分楽しそうであった。歩く足も徐々に軽くなるように見えた。大通りに出て、電話ボックスの横を通る。
 「あいつらは別に監視しているわけじゃない。何かしら他人の情報を探してるんだ。ここは住み心地がいいのか、あまり出たがるやつもいない。それにこの街は人がいなくても動く街なんだよ。腐るだけでね。腐っても死にはしないんだが、俺は、ただ、腐りたくないんだな」
 彼は自分に言い聞かせるように喋った。その話を聞いているうちに出口らしき大きな門の前に着いた。門番の男が二人近づいてくる。私は少し離れてその様子を伺っていた。彼があの体重計のような機械に乗っている。その数値を見て、三人で首を傾げた後、彼は私に近づいてきた。
 「俺の取り分をもらっていいか?」
 「もちろん、、、そのために来たようなもんだ...」
 私はポケットに入っていた鎖をジャラリと彼に手渡した。彼はそれを右手で握りしめると再び門番の方へ歩いて行った。また例の機械に乗り、数値を覗き込むと、どうやらうまく行ったらしく、門番の男二人と笑いながら順に握手をした。
 そして、、、遂に彼は門の外に出てしっかりと足を踏みしめた。

 自分の足を確認し、背伸びをした後、こちらを振り返り私を呼んでいる。私も門番のところへ行って、名前と街に入った日付、時間を確認すると、男は私の書類を取り出した。持ち物を検査され、彼に手渡された財布が門に立て掛けられた古い机の上に置かれた。私は特に何の心構えもなく量りに乗ったのだが、その数値は378となっている。門番の二人は顔を見合わせて頷き、一人の男が置いてあった財布を私に渡した。数値が変わり、362となった。
 「少し取引の交渉が優しすぎたようだね」
 門番の男はそう言って乾いた笑いを見せた。門の外を見ると、友人がこちらを見ながらしきりに肯いている。門に近づくと、彼はそこに落ちていた空き缶を私に向かって軽く蹴った。カラカラと音をたてて足元に転がってきた空き缶には、何も入っていない。
 「あると便利だから...」
 彼は私が一通りの状況と事情を理解しつつあることを悟ったらしく、楽しそうに話しを続けた。
 「誰かしら裏切らないと数値が合わなかったんでな。まあ、その量りは表面のことしか分からないんだよ。よくよく計算して、その時が来たら俺を呼んでくれ。出来るだけ地面から足を離して暮らすんだ。あいつらは下から来るからな」
 私が頷くのを確認して、彼は街を背にした。私はそれを見て門を背にした。ふと気づくと、既に靴はポロポロと形を亡くし始めている。腐るのだ。どこか地面から足を離すところはないか、と探したが、一向に見つからない。
 「あいつらは下から来る…」
 一瞬、背筋が寒くなった。
 「すんなり出るには、余りに多くの過ちを犯しすぎた、、、」
 その意味も何となく理解できた。やはり彼は私の最高の友人であるとつくづく感心した。私がここから出るには、何かしら捨て忘れている色があるらしい。それを知るには、、、

 そう、、、もう一人、、、産まなければならない。

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