見出し画像

他者を優先し過ぎてしまう方へ

人に侵入されやすい人。
あるいは人のニーズに応えすぎてしまう人。



それらはどちらも他者とじぶんの境界線が曖昧なのだと言える。



そして上に書いた二つは現象として別のように見える(侵入されると介入していく)が、実は表現が違うだけだ。


通底しているものは、「じぶんのニーズは後回しにする」ということ。
それも徹底的に、かつ無意識に。



だからこそ疲れやすかったり、思いもよらないタイミングで感情が溢れたり、じぶんのニーズがそもそもわからなかったり、いろんな影響が現れる。



でもフェアなコミュニケーションや関係ってどういう形をしているの?と聞くと多くの人は答えることができる。
少なくとも「じぶんのニーズを後回しにする」ことがフェアな関係性ではないことは認識しているはずである。


しかしそうしてしまうのはなぜなのか?


それはじぶんのニーズを出すことが危険で良くないことという学習をしている可能性が高い。

出しても嫌がられたり、無視されたり。
とにかく受け取られない。
もしくは何かを解決するために話し合いが必要なのだけど、そのために並べたじぶんのニーズのせいで、より面倒くささが増すなど、やり取りが成立しなかった体験なのだろう。

これらの体験をすると、人は学習し、苦痛なことがじぶんのニーズを出すことと紐づいてしまう。
下手をするとじぶんのニーズを出すことやあることにさえ罪悪感や居た堪れない気持ちが発生する可能性さえある。

それならばじぶんより他者はどうだろうと、他者のニーズに関心が向く。

しかしこれは残念なことに友愛や好奇心というより、警戒などの反応に近いだろう。

そして人とのやり取りの中での関心ごとが、じぶんと相手の互いの居心地の良さではなく、他者のニーズをどうやって飲み込もうか、じぶんの体内にいかに不快感を少ない形で取り入れようかという方に考えがシフトしていく。
もちろん慣れていれば無意識に。


なんとも言えない違和感や締め付けるようなどこか身体の痛みなどは、もしかしたらじぶんの本来あるはずのニーズでは嫌なこと、したくないことを、じぶんの体内に無意識に取り込んだ瞬間かもしれない。



じぶんの枠組みを、ニーズを守れなかったことのサインかもしれない。



でもじゃあどうしたらいいのか。


それは当然認めていない異物を入れないことと、入ったものは外に出さない限り、違和感は消えないはず。
住んでる家に帰宅したら泥棒がいて、その泥棒と一緒に暮らすようなものだからだ。

暮らせるわけない。
泥棒に出ていってもらわない限り、違和感やざわつきは消えない。



他者関係で言うと、どこがポイントになるのかと言えば、初めに書いた通り、他者のニーズを過度に優先し、じぶんのニーズをないがしろにする形が存在しているのだから、まずは分かりにくくて朧げだったとしても、何らかの違和感や嫌悪感を感じたら、「他者のニーズを優先し過ぎてはいないか?」「他者のニーズを飲み込んだか?取り入れたか?」と疑ってみると良い。


そして可能ならじぶんのニーズが何だったのか?
ほんとうはどうしたかったのか?を問うてみるといい。


おそらくほんとうはこうしたい、こうしたかったという気持ちが見つかるはずだ。


そしてこの気持ちを出さない方がいいと思っているから、わからなくなってくるし、出せなくなってくる。


ほんとうに危ない人の前では出さない方がいい。
しかし全員がほんとうに危険で出さない方がいいのかというと、またそんなこともないはずで、実はかなり多くの人を危険と判定しているはずである。


だがもし、その中にあなたがわかり合いたいと思っている人がいて、相手もそう思ってくれていたとしたら、危険と判定するのはもったいない。
なぜならお互いのニーズをすり合わせて関係性は紡がれて、育まれていくものだし、何より大きいのはその人があなたが抱えている他者への警戒感や危険だという予測を、いい意味で裏切ってくれる可能性が高いからである。



受け取られないと思っていたものが、受け取ってもらえたという体験こそが、新たな価値観やイメージを学習させ、そしてどこまでじぶんを出してよくて、どこからは他者を優先した方が良いのかという、かつて学べなかったほんとうの意味での境界線を学ぶための体験に、他ならないからだ。



それができたら苦労はしないし、他者をほんとうの意味で信頼することはむずかしい。


しかしそれでも身の回りの誰か一人。その誰か一人だけ信じてみることからしか体験できないことはある。


他者は信頼しても大丈夫ということをじぶんの手で掴みに行く勇気が、最終的にその人の苦しみを和らげ、生き様を変える大きな力になることは、忘れたくない。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?