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悠久の時を刻む

ボクの部屋には大正時代の木製の古時計が飾ってある。



机の向かいの壁に掛けてあるものだから、オンラインでのやり取りでは当然映らずに、ボクしかその時計の存在を知らない。



針もなく、鉄は錆び、木は朽ちているが、たしかにそこに佇んでいる。



古道具屋さんで見た瞬間、部屋に欲しいと思い、わりと高いお金を出して家に連れ帰った。



時計としての実用性、モノとしての寿命は既に終わっている。



しかしこの存在にボクはどこか惹かれ、じぶんなりの意味づけをした。



あらゆるものは滅びるということの無常感と、流れるはずの時がまるで止まっているかのような感覚と、相反するものをその身に宿しているのがこの古時計で、ともすれば永遠に生きられるかのように過ごすじぶんへの、ある種の戒めとして、部屋に置いた。



生活用品、必需品でないものやアートと言われるものは、多くがこの形であり、その人がそこに何らかの意味を見いだすことで価値が発生している。



ボクは部屋にはこの古時計くらいしかアート的なものは存在しないが、気に入っていろんなものをお部屋に置いている人などは、世界のいろんなものにじぶんなりの意味づけをしているのだろうと思う。
そういう人の見ている世界がどういうものか気になるし、じぶんも世界を見るときにそのような眼差しで眺められるようになったらなぁと、願ってやまない。



実用性、有用性以外への眼差しが宿るといいなぁ。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
トップ画がその古時計です。

浅草橋の古道具屋さん



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