人が物語を求めるワケ
アーノルドシュワルツネッガー主演の映画『ターミネーター2』を学生時代、何度も観ていた。
観ていた当時は、じぶんが何に惹かれていたのか分からなかったけど、大人になると少しだけその理由が分かってきた。
一作目で敵だったサイボーグが二作目では味方になり、液体金属の新型サイボーグが襲ってくる。
昨日の敵は今日の友の構造で、少年を頑丈なその身体で守るという物語。
少年とお母さん、サイボーグが主な登場人物だけど、ボクの目線はサイボーグに向けられていた。
何度倒れても立ち上がり、頑なに少年を守ろうとする姿勢に、形容しがたいものを当時抱えていた。
でも大人になって冷静に振り返ると、何かじぶんが困ったことになった時、親や親族が何とかしてくれるという感覚が、ほとんどないことを知った。
だからどこか力を温存したり、思いっきりやるみたいなことからは遠ざかっていた。
なぜなら責任はじぶんで取らなければならないから。
「何かあったときは心配するな、全力で行ってこい。」
そういう言葉の持つ安心感に、存在に憧れがあって、おそらくそれをターミネーターというロボットの中に見出したのだと思う。
コンテンツに触れていると、こういう不思議な体験をすることがある。
なぜか心が動いてそのシーンや言葉が忘れられない。
なぜか泣いている。
その時は分からなくて、ある時ふと分かったり、はたまたずっと分からなかったりもする。
だけど人の無意識みたいなものはそれを奥底では知っていて、体験として求めていたり、反応したりする。
じぶんには得られなかった体験も、コンテンツやじぶん以外の誰かの体験を通して体験することで、それを味わったじぶんの体験として記憶される。
人がコンテンツや物語を求めるのは、どこかこういうところに原動力があるのではと考えている。
じぶんが物語を通して味わった体験も、じぶんの体験であり、それらが下支えするものは、実体験と大きく違わないのではないだろうか。
それらを摂取して、補完して、今日も今日とて生きていく。
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