静寂で賑やかな世界
単純作業の時、お供として動画や音声コンテンツを耳で聴きながら作業している。
ワイヤレスイヤホンの電源がなくなるくらいまで、聴き続けることもあるくらいで、それらの音がなくなると、静寂で何もない世界に放り込まれたような、不安な気持ちを感じることが、ままある。
でもふと音の摂取をやめてみると、実はじぶんがいる世界は決して静寂で、何もない世界ではないことに気付く。
バイクや車の走る音、近隣の学校の体育の声、風が窓と反響し、それらの風でいろいろなものが転がる音、鳥のさえずり。
じぶんの唾を飲む音、呼吸、鼓動、不意にする貧乏ゆすり的な動き、鼻歌、ため息。
音を止めると、別の音があったことに気付く。
これは同時に聴き取ること、感知することはむずかしく、初めにあったものを聴かなかったことで、元々あったものが聴こえ始めたということ。
そしてそれを見つけなければ、それらは無いことと同じになってしまう。
ほんとうに無いことの苦しさもあるが、あるはずなのにそれに気付けないことの苦しさも、同時に存在している。
時々摂取するものを減らすことで、その余白で見えてくることがある。
そんなことを静寂と思われた賑やかな世界から教えてもらった。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「贈与とは受け取り手が受け取った瞬間、初めて贈与になる」を思い出します。
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