見出し画像

【エッセイ】ボストン 〜ある冬の日にもらったもの〜

「もうこんな時間か。早くチェックインしないと」
 2月のある日、私はジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン空港で時計を見てため息をついていた。デトロイト経由でボストンに着いたが、すでに夜8時を回っている。明日は朝から仕事があり、またとても寒かったため、とにかく早く宿に行きたかった私は空港の出口へ早足で向かった。

 海外駐在や出張の経験があっても、初めての場所はいつも緊張する。今回の訪問先であるボストンのある東海岸はこれまで訪れたことがなかった。しかもフライトの到着が夜である。フランスの夜でもそれなりに警戒していたのに、アメリカの夜なんて怖すぎて外出したくない。けれど、今夜は空港からホテルまで行かなければならないのだ。その味わいたくない緊張感を私は存分に堪能していた。

 私は宿泊するホテルの最寄りの停留所に止まるバスの番号が書かれたバス停を探す。並んでいる人はいない。多くの車やタクシーが忙しく行き交う中、私はポツンとそこでバスを待っていた。しかし、なかなかバスは来ない。これは海外あるあるで、時刻表には書いてあるがもう来ないパターンか?と不安になり始めたその時、シルバーの巨大なバスが大きな音を立てて目の前に止まった。慌ててバスの外に書いてある番号を確認する。大丈夫、このバスだ。

 緊張する私の前でバスの扉が開く。
「よお、このバスに乗るのかい?」
 初老の黒人男性が運転席から私に声をかけた。私は頷き、スーツケースを持ってバスの中に入る。そして、運転手にホテルの名前を書いた紙を見せた。
「このホテルに泊まるのですが、このバスは近くのバス停に止まりますか?」
「●●ホテルか。ああ、もちろんだ。このバスに乗っていれば大丈夫だ」
 運転手は私の不安そうな顔を見ながら笑顔で答える。
「出発するからそこらへんに座ってな」
 私は空いている席に腰掛ける。といっても、乗客は私一人だ。相変わらず大きな音を立ててバスは動き出した。日本のバスと比べるとかなりゴツくて頑丈だ。ただ、乗り心地は決していいとは言えない。装甲車のようなバスに揺られながら、とりあえずバスに乗れた安心感に私はホッとしていた。

 夜の暗闇の中、ボストンの街中へ向かうバスの中で運転手が私に話しかけてきた。
「どこから来たんだ?仕事か、それとも旅行か?」
「日本から仕事で来ました。アメリカには以前来ていますが、ボストンは今日が初めてです」
「日本か、また遠いところから来たな」
 私のバカ丁寧な英語が変なのか、こんな時間に日本人がただ一人バスに乗っているのが面白いのか、運転手は陽気だ。
「俺もいつか日本に行ってみたいと思ってるんだ。この前旅行に行ったダチから日本はいいところだって聞いてるしな。まぁ、ここボストンもなかなかいいところだぜ」
 例えリップサービスだとしても、自分の国を褒められて悪い気はしない。私の緊張感は少しずつ解けていった。

 空港を出てから30分程経った頃、周りはビル街に変わっていた。そろそろ降りるバス停のはずだ。私はバス停の名前を言うアナウンスを聞き逃すまいと耳をそばだてていた。
 するとバスが急に止まった。まだバス停ではない。アナウンスも出ていない。しかも道路の真ん中だ。
「ここ、バス停じゃないですよ」
 動揺する私に運転手は微笑んで言った。
「ほら、泊まるのはこのホテルだろう?ここで降りな」
 窓の外を見ると、私が持っている紙に書かれた同じ名前がビルの入口に書いてある。まさしく今日の宿泊場所だ。私は驚きながらも荷物を持って降車口に向かう。
「あの…どうもありがとうございます」
 私がバスを降りる際にお礼を言うと、運転手はウィンクをしながら言った。
「ボストンもなかなかいいところだろ」
 バスは私を降ろすと、また大きな音を立てて進み出した。私はその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 “ボストン“と聞くと、いつも名前も知らないこのバスの運転手を思い出す。ある冬の日に、私がボストンでもらったものは温かい親切だった。
 海外では思いもよらないトラブルもあるが、予想外の素敵な出会いもたくさんある。私にとってボストンでの出来事は忘れ難い大切な思い出だ。
 運転手からもらった親切を、今度は私が見知らぬ誰かに返す番だ。その時はもちろんこう言うつもりだ。
「日本もなかなかいいところだろ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?