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【エッセイ】バンコク赴任101日目で屋台の常連になる

「ミディアム」
 夜のバンコクで、彼女は私の顔を見ながら真顔でそう言った。

 その日はバンコクに赴任してから101日目だった。7月にタイに入国してから約3ヶ月、その間に結婚式や葬式に出て、ビザとワークパーミットが取れ、そしてつい最近、銃撃事件がありと、なんとも騒がしい日々を送っていた。

 まさかタイに来るとは…今年の1月4日の夕方までは思いもしなかった。終業間際の夕方、上司からいきなり呼び出され、部屋に入るなり「タイ、行ってくれんか」と言われたのだ。青天の霹靂とはこういうことを言うのかと身をもって理解した。
 10年前にフランスに赴任したこともあり海外は初めてではないものの、かなり悩んだ。家族や友人、好きなお店など、心地よい空間の中にいたのが、いきなり知らない国に行って、また一から生活を立て、仕事をしなければならないのだ。体脂肪率が4%減るくらい悩んだ(ジムのトレーナーには褒められた)。
 それでも、最終的には海外赴任を決めた。それは、最初に打診をされた時に、海外で楽しそうに仕事をするイメージが頭の中に浮かんだから。その直感は間違ってなかったと今なら分かる。

 赴任してまだ間もない頃、同僚が「美味しい屋台があるんですよ」と教えてくれた屋台がある。それは、日本人駐在員が多く住むエリアの駅近くにあった。
「このカオマンガイ、無茶苦茶美味しいですよ」
 同僚があまりにも自信満々に言うので、夜、帰り道がてら2人で寄ってみた。
 いつもだいたい夕方5時くらいになると屋台が路肩出てくる。家族経営っぽく、お父さん、お母さん、お兄さん、弟さん、お姉さん、妹さん、どんだけ大家族なんだろう。お父さんとお兄さんが揚げ物などをし、お姉さんが鶏肉を切っている。弟さんと妹さんが接客だ。お母さんは洗い物をしている。屋台の横で食べられるし、持ち帰りももちろん大丈夫。サイズは、S、M、Lと3種類あり、茹で鶏と揚げ鶏と選べる。
「じゃあMで茹で鶏、持ち帰りね」
 バンコクで初めての屋台飯だった。待っている間、隣にあるショッピングモールの煌びやかな光と、決してきれいとは言えない屋台のコントラストになんとも言えない高揚感を覚えた。
「シックスティバーツ」
 妹さんがニコリともせずに言い、慌てて支払う。渡された袋の中には、紙で包まれたものが1つ、スープとソースが入った袋がそれぞれ1つ入っていた。

 家に帰り、皿とお椀に盛る。紙を広げると、ツヤツヤした鶏肉とご飯が出てきた。それに別袋のソースをかける。スープは鶏ガラを煮込んだもので、生姜やパクチーが入っている。
「いただきます」
 鶏肉とご飯をスプーンから溢れそうなくらいすくい、口に運ぶ。噛むとジワっと肉汁があふれ、ご飯に染み込んでいく。
「おいし、これ」
 思わず感嘆が漏れる。こんな美味しいカオマンガイは初めてだった。もうスプーンが止まらず、とにかく無言で食べた。ソースは唐辛子がかなり入っていたが、それよりも美味しさの方が勝った。食べ終わった時の爽快感はこれまで感じたことのないものだ。
 これは通うな、空になった皿を前に私は一人頷いていた。

 それから最初のうちは1週間に1回程度行っていた。持ち帰りもあれば、そこで食べる日もあった。そこは観光客も多く立ち寄る屋台なので、時間によってはかなり待つ時もあった。
 接客をする妹さんは結構無愛想で、言葉も少なめだ。初めのうちは私も観光客だと思われ、最低限の接客だった。それが1ヶ月以上通うと、顔を見るとちょっとずつ笑顔を見せてくれるようになったのだ。私の注文はいつもMサイズの茹で鶏。
 その後、久しぶりに同僚とその屋台に行く。
「サワディッカー」
 声をかけると、振り向いた妹さんが私を見て笑顔になった。横にいた同僚が詰め寄る。
「私、一年くらい通ってるけど、あんな笑顔見たことないよ!どういうこと⁈」
 首を傾げる同僚。ずっと「納得いかんわ」とぼやいていた。

 2ヶ月過ぎると、仕事が忙しかったこともあり行く頻度は落ちてしまった。それでも無性に食べたくなるときがあり、帰りに立ち寄っていた。
 その日も疲れて、久しぶりにカオマンガイが食べたくなり、足を運んだ。
「サワディッカー」
 私を見て、妹さんが真顔で言う。
「ミディアム」
 一瞬びっくりしたが、私は「イエス!」と反射的に答えた。妹さんはニヤリとして親指を立てた。私は思わず、彼女に抱きついた。
「覚えてくれてありがとう!!」
 彼女は照れくさそうに笑う。ふと横を見ると、休憩していたお父さんが笑顔で私たちを見ていた。

 たくさんの人たちが行き交う異国の屋台で、自分の好きなメニューをタイ人の彼女が覚えてくれたことが嬉しかった。持ち帰ったカオマンガイを見て、少し泣いた。こうやって少しずつタイに受け入れてもらうたびに私もタイが好きになっていく。

 タイに赴任してから101日目、大好きな屋台の常連に私はなれたのだ。

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