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パパ

「パーパー?はははっ、〇〇ちゃんはお父さんをパパって呼んでるのー?」
両親をパパママと呼ぶのは当たり前だった私にはそれには嫌気がさしていた。
お父さんお母さんと言い直すようになるまでこの子らは言い続けるつもりだな。そう悟るとあまり人前で口にしなくなった。

目鼻立ちが整っていてインテリな雰囲気をまとい、囲碁好き。
私にとってのパパは、ホームドラマから見る父親像とはかけ離れていた。
でも欲しいといえば何でも与えてくれた。
気の早いパパは私が2歳の時には学習机を買い与え、その机いっぱいに好きな物に囲まれた。

けれど、優しい言葉をかけられたりしつけのための愛情のようなものを感じたことが記憶にないのだ。
私が小一になると弟が生まれ、弟を可愛がるのを見て私には向けられたことのない眼差しに嫉妬した。
嫉妬のあまり赤子の弟の腕をつねったり意地悪をして泣かせ、めちゃくちゃ叱られるを繰り返し近寄り難い存在になっていく。悪循環。

年長さんの頃、周りのお友達がお手紙交換を楽しんでいた頃。
家では英語の教材に興じていた私。
色んなテキストで本棚は埋め尽くされ、図鑑や辞書、文部科学省推奨絵本がずらりと並んでいた。
そういえば、物心ついた時から英才教育を受けていた気がする。
習い事も沢山した気がする。

勉強で分からないことがあるとママは決まって「パパに聞いてみな、パパは頭がいいから」と言う。
頭がいいから聞いてみよう!と素直な私はおずおずと傍に行き聞いてみると決まって「自分で考えてみたのか?……辞書があるだろう、自分で調べろ。」とかえってくる。

トホホと自分の部屋に戻る。
なんだったのだあの時間は。といつも繰り返し。

数学の証明が分からない時期になると「授業を聞いていたのか?参考書を買え。」で終わった。
随分頭のいいこと!と反抗期もあり私はパパを軽くナメるようになっていた。
ここからはよそで聞く思春期に見られる父と娘の関係あるあると同じく。
気配を感じると息を潜めたり通過するまで息を止めたりしていた。

それから進学は無理だと涙目で告げられる日も、そして自分で稼ぐようになってからはさらに避けるようになっていく。というか、私には必要のない人という認識。

自分自身で養女であることを探り当てたのは、母方の祖母の家で。
たまに来るお年玉を沢山くれる紋付袴のおじさんとママの白無垢写真を見つけてしまった。
誰がどう見ても結婚式の写真だ。
ほうれみたことか!とこれまでの違和感、似てない顔とか、点と点が線に。
裏切られた感や私以外の人間の猿芝居には腹立たしく憤りを感じると同時に妙に腑に落ちたところがあって、複雑な心境だった。

その日は来た。
借金を返し終え、なんとも言えない達成感と高揚感に包まれた。
最後ばかりは窓口で堂々と返したかったけど、ATMであっさりとそれは終わった。

そして、ふと手紙を書きたくなった。
思春期に当たったことそりが合わなかったことの自己分析、手紙と言うよりnoteに書くようなエッセイに近いものになった。
改めて私が養女とわかってからの葛藤とかそういったものも、正直にそしてなるべく重くならないように。
書いては捨て書いては捨てしながら書き上げた。
照れるので郵便で送り、いそいそしている間に日が経った頃。

携帯に着信があった。
「病院に行きてえんだけど、病院の駐車場に車を停めとけないらしいから送迎してくれない?」急に凄い江戸弁のパパから。
「え?病院?なにどうしたの?」
「まあ、その時話すからさ」

約束の日に向かうと、行きは運転出来るからと私は助手席に乗り込んだ。
洋楽好きのパパは珍しく大ハマりしているMay J.をBGMにしていた。
急にコレにして、と渡したCDがビージーズのベスト盤。
そういえばディスコ世代だったな。
ディスコと言えばママだ。ブイブイいわせていたのをよく聞いた。
Massachusettsのイントロが流れる頃に、「〇〇、参ったよ。白血病だとよ。はははっ」

は?さわやかに言うな随分。
こんないい曲がなりだして話す内容としては似合わない。

「まー、どうなるか分からないけど心配しないでな。調べたりして俺より詳しくならないでいいから。」

パパらしい言葉だった。

間が空いて、ママはどこにいるんだろうなぁ。と言った。
知らない。どうでもいいよ。と私が言うと、「ママはお前の母親なんだからな、それは変わらないんだぞ」と優しく言った。
みんな酷い目にあったのに、どうしてそんなことが言えるのか不思議で悔しくてたまらなかった。

春のポカポカした日差しが眩しい。
帰り道は独りパパの車を運転して帰った。
I Started A Jokeの曲で余計に涙が溢れてきて、まともに運転が出来なかった。


一家離散して、一人暮らしなど住まいが変わっても常に持ち歩いているBOXがある。
一生で一度の無遅刻無欠席オール5の成績表と貰った手紙と写真が入っている。

幼い頃の写真を見つけるとホッとした。
私と並んで写真にうつるパパはいつも笑っていた。
目を大きく見開いて口をいっぱいに広げておどけたように笑う顔。
撮影しているのは母親で、きっと関係は良好だったのだと伺える。
2人が写真に収まるように、うちの写真は斜めに、ひし形の枠におさまったものがとにかく多かった。
自分の意思はないところで、並んではいチーズと言われる私の顔は全てが笑っているものではないけれど、おそらく連れ子の私をパパに懐かせたかったのだろう。
何を聞いてもパパを経由させたりしたのも、きっとそのためだったのだろう。

呼び方は愛情を持ったものだと気づくのは、母親に騙された私の闇歴史を見ればわかるだろう。愛が欲しくて呼び止めた「ママ」はどっかに行ってしまったのだから、そのうち呼ぶ気などなくなる。アレとかあの人とかになる。
いい年こいた今でも私はパパと呼ぶ。
パパはパパだから。

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