どうしてあの時、地理学だったか
大学4年の冬、卒論を書き終えあとは卒業を待つだけだった私は、なぜ最後に地理学という学問に突然目覚め、残りの時間のほとんどをそこに費やすことにしたのだろうか。それをし始めた時にもnoteにまとめようとしたが、結局納得できる結論を得ることができなかった。卒業までには一旦やりきって、そこで振り返って結論を出すつもりだったのだが、そこから既に一年半が経過していた。
気づいていたこともある。当時の私は、充実した学生生活を総括したかった。4年間で私は何を学び、どう成長してきたか。その過程でどれだけの人に出会い、恩を受けてきたのかを整理して、感謝したかった。
そこでいざ過去を振り返ってみると、なぜか「地域」や「土地」への特別な感情が湧き上がってくるのを感じた。確かに「地域」という言葉は私の活動において身近だった。地域活性化を目的としたインターンシップに参加したり、散策マップを作成したりした。白状するが、地域という言葉が私はどうも苦手だった。地域活性化に寄与できているという確証を持てたことは一度もなかったし、本当の意味での地域活性化(移住?就職?結婚?)的な部分において力になれそうにない以上、むしろ私の活動が住民にとっては害なのでは、とも考えられた(深い意味はない)。
そんなひねくれた私が今、「地域」そのものに対して感謝の気持ちを抱いている。いったいこれは何なのか。人にとって「土地」とはどのような意味を持つものなのだろうか。ここに答えを出すことが、曲がりなりにも「地域活性化」に関わり、それを通して青春を過ごした私の学生生活の総括と、今後の指針に繋がると考え、それを主題とする地理学を学ぶに至った。一年半前に出すはずだった回答を今日、提出する。
風土学との〈出会い〉
鍵となったのは地理学(哲学)の一分野、風土学だ。地理学の教科書を読んでいく中で、特に関心を持ったのが地理学を人間主体に考える「人文主義的地理学」(Humanistic Geography)だった。地理、空間の本質は場所であり、人間にとって場所とは何かを考えるところから土地の理解を始めましょう、ということだと捉えている。
その中でも気になったのが今回紹介する風土学である。教科書には風土学について、「人間は地理的な存在である」ことを明らかにするための主張を展開する、と書かれていた。その中身についての説明はなんのこっちゃ分からなかったが、「人間は地理的な存在である」という主張を説明する論理は私の問いへの回答になりそうだという直観があった。何より、風土学という響きが気に入った。
木岡伸夫(2018)『〈出会い〉の風土学―対話へのいざない』幻冬舎
この本(以下本書)に出会ったのは卒業してから半年が経った頃だった。途中まで読んだ段階で、これは私が言いたいことを言ってくれている!という感動があり、浅い理解のまま勢いでnoteを投稿した(当然、全く伸びなかった)。特に、人間と環境には因果関係を超えた相互作用的な関係性が存在する=通態化(trajection)という考え方に衝撃を受けたのを覚えている。
しかし最後の主張まではたどり着けずに本棚に並べてから、一年間が経過した。久々に手に取って頑張って読んだところ、やはりこれだという確信が得られた。その論理について自分なりに説明したい。
〈沈黙から語りへ〉の移行
風土学はその目的を、「(風景について)語られる以前の身体的実践から、言語によって文節された文化的な世界認識へ、〈沈黙から語りへ〉の移行がいかに生じるか、が追求されなければならない」(p.133)と説明する。その移行がどのようにされるか表わしたのが、以下の図である。
まず、経験が形を成す以前の原型Xが存在する。人が認識する以前の環境のことである。その上にある基本風景とは、個人それぞれが生活の中で認識する日常的な景色のこと。美麗な眺望も不快に思うものも含めてのものである。
その上にある原風景とは、基本風景について語り合うことで共有される〈型〉としての風景である。個々人の多様な視点が集団全体の認識に包摂されることで原風景となる。
さらにこの上にある表現的風景とは、社会に対して自立する個によって、表現へともたらされた世界経験の内容を指す。原風景を土台に表現としてのあらたな形が生まれる。それを表現的風景と呼ぶ。
これらは図が表わす通り一方向的なものではなく、相互作用的である(通態化は、人の風景経験にも通じるものがあったと言える)。例えば、原風景を共有する画家がそれを絵にしたところ、その絵から集団にとって新たな風景の見方が生まれ、やがてその集団の個人の基本的行動としての風景観にも影響する、といった具合である。このように人は風景を経験する。
風土学的に見た「場所」「空間」とは
今更ながら、そもそも風土学って何なんだという話をする。風土学と言うくらいだから風土について学ぶことなのだろうが、では風土とは何なのか。木岡先生の定義は以下の通り。
非常に雑に言えば、場所と空間によって立ち現れる自然と社会の見方のことである。では場所とは何か。
ここで注目したいのは、①場所は空間に先行して生じる ②場所は住まわれること(出会うこと)で風景を成立させる この2点である。では、風土学的な観点からみる空間とは何なのか。本書では空間を3つに区分する。
1. 物語空間
共同体を包む親密な〈場〉の拡がり。先ほどの景観の図で言うところの原風景がこれに当たる。
2. 社会空間
権力の下に統括される異なる物語空間の複合体。多数の〈場〉とそのすきま〈空間〉により構成される。都市、国家など。
3. 普遍空間
異なる物語空間を持つ者、集団、個人がそれぞれの差異を維持したまま共存することのできる社会。均質化された空間ではない。理想的な社会。
個人的な解釈
ここまで風土学的に見た風景、空間について本書に沿って説明してきた。ここに個人的な解釈を加え、整理してみる。
先ほどの風景経験の構造の図における上昇-下降の動きは、単に風景観が生まれるということ以外にも重要なことだと感じる。語りによって共有化された原風景を持つことは、人を孤独から解放し勇気を与えることではないか。それを表現的風景へと昇華する行為は、自己実現の欲求を満たすことではないか。このように捉えると、風景の構造の図式の意味合いが変わってくる。
また、空間についての話の中で、理想的な社会のことを普遍空間と呼んだ。当然、そこを目指すべきであるのだが、その前に説明した場所の定義では「①場所は空間に先行する ②場所は住まわれること(出会うこと)で風景を成立させる」とある。普遍空間を目指す気持ちには、「空間に先行する場所 から生まれる原風景」を獲得することが必要だ、と解釈することもできる。その次に自分たちと違う集団の存在を認識する。最後には異なる社会集団との共存を願う。
それが人が認識する場所から空間への流れなのではないか。というより、そうであったら良いな、みたいな気持ちで書いている。しかし、わざわざ普遍空間という言葉を作っているくらいだから、本書にも同じ願いが込められているはずである。以下がイメージ式だ。
場所→原風景=物語空間→社会空間(差異の認識)→普遍空間(への願い)
〈出会い〉の風土学の主張
原風景(物語空間)が生まれる対話を実現するにはどうすれば良いのか。それは本書のタイトルの通り、〈出会い〉を通じて語り、あいだを開くことだという。本書では因果的思考と対局にある縁起的思考こそがその鍵であるとして、仏教、特に縁の論理についての説明に入る。薄学故説明はできないが、自分なりに落とし込んで行動していきたい。
また、対話の実践についてはたくさんの本や動画が存在する。しっくり来たものを選んで、落とし込んでいけば良いのだと思っている。縁の論理はその根本を支える一つの理論的支柱になるのだろう。
回答とこれから
土地への特別な感覚とは何だったのか。この問いに回答しよう。学生生活を通して原風景を獲得すること、それを通して表現的風景を表わすことを経験してきた。それは人と出会い、大切な思い出をたくさん作り、それを自分の言葉で表現して喜びを得ることの言い換えであった。思い出がいくつも重なった結果、一つ一つを並列する代わりに土地自体への特別な感情として浮かび上がったものが、土地そのものへの感謝の気持ちとなったのだろう。
そして、こうした経験こそが、他人と自分が異なることを認め、差異を認め合う社会(普遍空間)へと願う気持ちに繋がっていく。もちろん、土地とか風景観を得ることだけが幸せだと言っているわけではない。しかし私は、もはや土地へのこだわりを無くすことができない。私はこれからも、〈出会い〉を通じた風景観の発展に、何かしらの方法で関わっていきたい。
原風景ギャラリー
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