赤と青の少年

 少年二人が、向かい合って地べたに座っている。リフレッシュを兼ねて通りかかった森林公園。子供の数は少ないのに対して犬の散歩中の人がやけに多くて、途中から遡って数えたりしていた。そして公園内に点在している大小さまざまな広場を横目に石畳の通路を進み、数えてちょうど十匹目になるチワワとすれ違った時、正面の広場で背を丸めている彼らを見つけた。私は広場の中心を向いているベンチに腰掛け、バッグから残り三分の一ほどのペットボトルを取り出し飲んだ。彼らは妙に静かだった。周りにボールやラケットと言った遊ぶ物は無く、向かい合ってずっとコソコソとしている。半端な視力のせいでコンタクトするのを渋ってしまう日があり、よりにもよってそれが今日だった。数メートル先の彼らが何で遊んでいるのか分からず、じれったい気持ちになる。ゲームにしてもあれだけ静かになるかな、などと思いながらどうやって真実に近づこうか考えていると、彼らが先にアクションを起こした。
「…なんで毎回俺が負けんだよ」
「知らねえよ」
「てかこれ揃ってなくね」
「は? 揃ってるよ」
「だってさっきこれとペアだったじゃん」
「ちげえよ」
「絶っ対そうだったよ。バカじゃんお前」
その瞬間、バチンと音がした。言われた奥の少年が、手前の少年に平手打ちをしたのだ。
「チッ」
そしてあっという間に取っ組み合いが始まった。地面にゴロゴロ転げて立場が入れ替わりながら、二人のか細い腕から拳が何度も振り下ろされる。私は突然の出来事に面食らいながらも、彼らの元に走った。
「ちょっと、やめなって」
彼らがまだ幼くて助かった。組み合っている彼らの胸辺りに手を潜らせ思いっきり外に力を加えると、案外簡単に引き剥がすことが出来た。その後しばらくは遠い方の肩に手をやって腕の全てを使い彼らの衝突を押さえていたけど、私が見知らぬ男であることに段々と気づいたのか、花が萎むように彼らの力が抜けていった。少年たちの顔を見る。口は何か文句を溜めているようにしながら、私が映っている黒く丸い目は揺れていた。あれ。その時に気づいた。少年二人の顔が、ウソみたいにそっくりだった。
 そっくりなのは顔だけじゃない。腕や足の細さ、黒いTシャツに短パン、運動靴という格好までそっくりだった。唯一違うのは黒Tシャツの真ん中に位置するブランドのロゴの色。私から見て右側の少年が赤、左側の少年が青だった。それと何となく、こう言っては悪いけど二人の家庭環境は恵まれていないのだろうと想像がついた。黒く硬そうな髪は散らかり(取っ組み合いのせいでもあるけど)、Tシャツはよれ、腕や足には古傷のようなものがいくつも付いていた。二人は学校で習慣付いているのか並んで体育座りをし、私は広場の草むらに胡坐を掻いて相対していた。
「えっと、あのさ」
なぜか説教する感じになっていて、おどおどしてしまう。学校の先生たちも実はこんな気持ちだったのだろうか。
「二人は小学生?」
赤の方がコクッと頷いた。
「そうだよね、うん。ダメだよケンカしちゃ」
「こいつがウソつくのがわりぃんだよ」
「ついてねーよ」
「おい、もういいから。どんな理由でも人をぶったり殴ったりするのは絶対にダメだ」
語気を強めると二人は目に見えてシュンとした。それを見て、先生たちはきっとこんな気持ちだったのか、と分かった気がした。私は知りたくも無かった真実から目を逸らすように、辺りを見回した。
「そういえば、二人は何で遊んでたの?」
「ババ抜き」
赤の方がいじけたように言う。
「え?」
改めて広場を、特に取っ組み合いが起きていた場所を見回した。でもそんなものはどこにも。
「ウソのトランプだよ」
青の方はきまりが悪そうに言った。
「ウソ?」
「うん。無いから葉っぱでやってる」
私は青の方からそれを聞いた上で、再度広場を見回した。確かに、広場を埋め尽くす低い雑草の上に所々広葉が落ちている。緩く下りになっている石畳の先には葉の持ち主と思われる木々が乱立し、大きな影を作っていた。
「…どうやって?」
私は混乱したまま彼らに訊いた。
「だから葉っぱに数字付けて、一枚ジョーカーにして、ペアになったら捨てるの」
赤の方が面倒くさそうにババ抜きのルール説明をしてくれた。訊きたいのはそうじゃないんだけど、またケンカの火種になる予感がしたからこの話題は変えることにした。
「なに、トランプ学校で流行ってるの?」
「うん」
赤の方が頷いた。
「ふーん。でもお母さんが買ってくれないんだ」
赤の方が反射的に顔を背けた。お母さん、という言葉に反応したみたいだ。青の方はさっきから俯いて、細い葉の雑草を指に巻き付けて遊んでいた。
「絶対無理」
赤が憎むような口ぶりでそう言った。
「そうなんだ」
ふと、「お母さん嫌だよね」みたいな同調をしようかと思ったけど、彼らの表情や姿を見ているとそれも憚られた。私がかつて持っていたような「お母さん」の認識では到底分かり得ない何かが、彼らの中には渦巻いているようだった。こんな幼いのに家庭に何かしらの事情を抱えているというのは不憫でならなかった。
「トランプなら、おじさんが買ってあげようか?」
気づいたらこぼれ出ていた言葉に赤と青は全く同時に顔を上げると、全く同じ面持ちで私を見た。
「ほんと?」
「確かあっちのホームセンターに売ってたような気がするから、ナイショで買ってあげるよ」
あんまり嬉しそうな顔をするから、私は笑顔でそう言った。トランプを買うぐらいどうってことない。すると二人はしばらく互いの顔を見合わせ、そして顔に同じ複雑さを浮かべて私の顔に戻って来た。
「でも、俺たち今お母さん待ってるから」
「あ、そうなの? もう帰ってきちゃう?」
「分かんない。時間決まってないし」
「お母さん何してるの?」
「パチンコ」
たった四文字の言葉を前に、私はしばらくの間絶句してしまった。赤の方は骨ばった膝頭のかさぶたを爪で弄っている。
「じゃあ、お母さんがパチンコ終わるのをここで待ってるの?」
「うん。てかこの時間しか俺たち遊べないから」
「どうして?」
「学校とパチンコの時以外家から出してくれないから」
赤の方は苛立ち交じりにそう言った。青の方は終始無言で、抱えた膝の上に、今にも前に溶けだしてしまいそうな黒い瞳を二つ浮かべていた。
「学校には毎日行ってる?」
「当たり前じゃん。行かなかったら先生に電話されるし」
「楽しい?」
「…べつに」
赤の方はぎこぎこと身体を前後に揺らし、石畳を歩くシーズーを目で追いかけ始めた。
「そうか」
私は小さい二人の少年を前に、しばらくの間考え込んでいた。ただ具体的に何を考えていたのか自分でもよく分からない。恐らくそこは言語が足を踏み入ることの出来ない思考の最先端、または思考の最奥部だったのだと思う。それから私は、おもむろに雑草の上に手を付いて立ち上がった。片膝を立てた時にはまだ何をするのか分かっていなかった自分が、腰を上げ始めた頃にはすっと分かっていた。私を見上げる二人の少年。赤の方は口をぽかんと開け、青の方は無表情だった。
「よし。トランプ買いに行こう」
「だから無理だって。帰ってきたらヤバイもん」
「行ってすぐ帰れば大丈夫だよ。ほら、すぐそこだから」
ここからでも見えるホームセンターの巨大な看板は少し外を向いている。すぐというのはウソだけど、二十分もあれば戻って来られるはずだ。
「いや、えー」
赤の方は首を掻きながらぐずぐずとしている。お母さんかトランプか。彼らには気の毒な二択だと思う。ただ言い出してしまった以上こちらも簡単には引き下がれない。「君たちのお母さんはね」私はこの後に続く言葉を探していた。あんまり正直なことを言って傷つけるのは避けたかったし、かと言って気遣い過ぎても話は進まない。二人は自分たちのことを、果たしてどこまで分かっているのだろう。
「二人はさ」
私は視線を合わせるようにその場に屈んで、青、赤の順で顔を見た。訊いてみるのが早いと思った。
「お母さんの事好き?」
赤の方が返答のために息を吸い込んだその時、バッとすごい勢いで向かってくるように青の方が立ち上がった。私はそれに驚いてバランスを崩し、咄嗟に後ろに手を突いた。青い方は前髪で目深に影を作り、私を分からない表情で見下ろす。ただこの少年、何かを話し始めるわけでは無い。拳を握って口をきつく結んでいるだけだった。私は動転する傍ら、雑草と土では持っている温度が全く違うことに今更ながら気づいたりしていた。
「悪かった。今のは意地悪だった」
堪らず私から口を開く。そして体制を立て直してから片膝立ちをして、立ち尽くす青と体育座りの赤に話し始めた。
「そりゃあ誰だってお母さんは好きだよな。俺、おじさんだって自分のお母さんの事好きだし。でもそういう事じゃなくてさ。なんて言うのかな。まあだからオ、おじさんは単純にトランプを君たちに買ってあげたいだけなんだ。諸々の事情があるんだろうけど、子供が葉っぱを使ってまで欲しがっている物を大人が買ってあげない理由は無いだろう? ほんとに、ただそれだけだよ」
言い終わると、額に滲んでいる汗の一粒が左こめかみに流れた。すごい遠くで犬が吠えているのが聞こえる。
「…ほんとに買ってくれるの?」
「買うよ」
私の返事を訊いた青い方が赤の方に視線を送ると、赤の方は無言で立ち上がった。

 休日のホームセンターの盛況ぶりは凄まじい。入り口の自動ドアは休む暇もなく開閉を繰り返し、その度に人を吸い込み吐いている。駐車場の方から歩道を渡って来た子連れが私たちの前に入り、先に自動ドアを抜けて行った。そうそう、俺だって人から見れば子供を二人連れたお父さんとしか思われないよな。脳内で自分にそう言い聞かせながら歩道近くに立つ警備員の横を通り過ぎる。二人の少年はさっきまで忠実に私の後ろを付いて来ていたのに、いつの間にか二歩先を並んで歩いていた。そして、彼らにとっては巨大な自動ドアの前に立つと、不安げに私を振り返った。本当にお母さんに内緒でホームセンターなんかに入っていいのか、本当にこの自動ドアはぼくたちの前でも開いてくれるのか、考えられる様々な理由に対して私は力強く頷くと、青の方は腕を伸ばしてドアを開け、まだ開ききっていない扉の間を赤の方はすり抜けて行った。
 私は天井にぶら下がっている案内を頼りにおもちゃコーナーを探した。パソコンのマウスか何かを買いに来た時に何となく見た覚えがあった。少年二人は行き交う買い物カートや大型テレビに映る花火大会、粒粒の発泡スチロールを吸い込むお掃除ロボット、抽選の当たりを知らせるハンドベルなどに翻弄されながらも、何とか付いて来ている。こういう時に手を握れたらどれだけ楽だろう、と思ったりしていた。途中で人気ゲームタイトルの新作を宣伝している一角を見つけて行ってみると、すぐ近くにおもちゃコーナーを見つけることが出来た。
「あった。あそこだ」
向かいながらチラッと二人を見ると、それはもう目をキラキラと輝かせて、頬をリンゴのように真っ赤にしていた。赤の方は高くまで積み上げられたプラモデルの箱や種類豊富なホビーの棚を見て「すげー」と中々の声量で言葉を漏らしたりしていた。多分本人は気づいてない。そして棚を何列か過ぎると、突然棚の品揃えに統一感が無くなり、私はここだと目を付けた。二人を呼んで一緒に探してみると、間もなく青の方が棚の中段少し下辺りを指差し、「あった」と手を上げて知らせた。
「よっつある」
一つが人気アニメとコラボしたもの、もう一つがマジックなどでもよく使われている本格的なトランプ(赤と青の二種類)、そして最後の一つが何種類か遊び方が載っているルールブック付きのトランプだった。
「どうする? この中だったらどれでもいいよ」
そうは言ってみたけど、二人は選び方が分からないと言った風にただじいっと四つのトランプの上を何度も行き来しているだけだった。
「このアニメは知ってる?」
「知らない」
赤の方が即答した。
「じゃあ、まあ初めて買うならこれがいいかな」
私はルールブック付きのトランプを手に取った。
「ちなみにババ抜き以外に何知ってるの?」
「ジジぬき」
「しちならべ」
赤、青の順で答える。ただそれ以降は続かなかった。
「大富豪とか知らない?」
「なにそれ」
「大富豪面白いよ。ほら、これに遊び方入ってる」
箱の裏面を指差して見せる。
「あ、あとこのスピードも楽しい」
「聞いたことある」
「でしょ。大富豪はみんなでやらないとあんまり面白く無いんだけど、スピードは二人で出来るから」
私はにこりと笑ってそう言った。少年二人がスピードで競り合うのが瞼に浮かぶようだったからだ。
「じゃあこれにするか」
ルールブック付きのトランプを「どうかな」と二人に見せると、赤の方は激しく、青の方は静かに頷いた。
 思わず、その小さな手を掴んでしまいそうだった。トランプを買ってしまえばもうここに用はなし。早急に公園に戻らなければならない。三人が同じ気持ちを共有しているから自動ドアに向かう足も速かった。私は右手にトランプの入った袋を持ち、少しドキドキとしていた。少年たちとの距離が明らかに縮まっていた。右に赤い方、左に青い方と、私のすぐ隣を歩いている。これで親子じゃないと言う方が不自然な気がした。少し目線を下げれば少年のうなじが見え、細い腕に骨ばった手首が見える。かわいそうに。両手で包んでやりたい気持ちになる。ちょっかいをかけて笑わせてやってもいいと思った。このまま二人の肩を抱いて、よーいドンと走り出したいとも思った。そして私は、彼らとの関係が右手に持つトランプのみで成り立っている事実に虚しくなる。
「あとはどうバレずに持って帰るかだな」
私は努めて能天気に言った。ピクリと少年たちが反応したのを気取ったけど、ただ真っすぐ見て歩くことに専念した。大量の人間と入れ違いながら自動ドアの外に出て、私はちょうど風が吹いている方向に足を進めた。少年たちの足には戸惑いが見られたけど、構わず歩いた。
 ホームセンターのある通り沿いに適当なマンションを見つけ、その脇にひっそりとある駐輪場に足を踏み入れた。住人が来たら不運だったと思おう。奥まで進んでから振り返ると、少年たちは最新とおんぼろの自転車の間で何やら不安そうにしていた。私はプラ袋からトランプを取り出し、厚紙とプラのパッケージを無理やり剥がす。ゴミはプラ袋へ。手にはツルツルの箱に入ったトランプと、手のひらサイズのルールブック。
「はい」
私は二人の顔を覗き込んでから、静かにそれらを差し出した。赤と青はパッと目を大きくして両腕を伸ばした。箱から早速トランプを引っ張り出して手触りを確認する赤。パラパラとルールブックを捲り、食い入るように読み出す青。そんな彼らを秘匿するように、どこからともなくカラスが鳴き始める。私はその光景を見て、公園で見たフリスビーを追いかける犬を思い出したりしていた。
「家帰ってからゆっくりやりな。今はとにかく公園に戻らなきゃ」
「うん」
二人はそれに素直に従い遊びを止めると私の目を見た。黒すぎる瞳には小さな光が零れている。
「トランプはさ、ズボンの後ろにポケットある? そこに仕舞えるかな」
赤の方は身体を捻じって後ろのポケットを目視しようとし、それが済むと口をわずかに開けながらトランプをねじ込み始めた。頑張っているようだけどこれが結構かかる。見兼ねた青い方が手伝った。
「後ろ向いてみて」
私は後ろを向いた赤い方の黒Tシャツの裾を持って、軽く引っ張った。Tシャツはお尻の半分ぐらいまで隠してくれる。お母さんが屈みさえしなければバレることは無いだろう。「オッケー」と背中に言うと赤い方は元に戻り、ポケットに手を添えながら明るい笑顔を浮かべた。一方、青い方はルールブックを筒状に丸めて固まっている。
「そっちは、背中とズボンの間に挟める?」
すると青い方は無言で背中に手を回し、しばらくすると前に一歩進みくるりと反転した。オッケーを貰いに来たのだろう。私は一瞬だけためらってから彼のTシャツを捲った。少年の背中。出来物一つないすべすべの肌。背筋に沿ってわずかなくぼみが通り、脂肪はどこにも見当たらない。そんな中、溺れてるみたいになっているルールブックの角を見て私はようやくハッとした。どうやらズボンのゴムが緩く、材質的に摩擦も少ないみたいだ。これでは歩いている途中で落ちてしまう。私はルールブックの角を摘まんで引き揚げると、急に青い方が私に向き直り、鋭い目を向けた。宙に舞ったルールブックが砂利の上に音を立てて落ちる。
「…なに?」
青い方が言った。
「いや、ずり落ちそうだったから。嫌じゃないならパンツの間とかの方がいいかもな」
何が彼の気に障ったのか分からなかった。目の前に落ちたルールブックを拾って手渡すと、青い方は私を睨んだまま背中に手を回し、そして元の立ち姿になった。彼の手元からはルールブックが消えていた。赤い方は私と目が合うと目線を外し、停めてある自転車に急に興味を持ち始めたみたいだった。
「まあとりあえず、これで簡単にはバレないと思うよ」
私は両手でジェスチャーをして彼らに外に出るよう促した。歩く二人の後ろ姿を見ても、しっかりと隠すことが出来ていた。
「もしお母さんが公園に居たらどうすんの?」
赤い方が訊いてきた。
「お腹痛くてトイレ探してた、とかでいいんじゃない?」
「でも公園にトイレあるよ」
「公園のは汚くて嫌だとか、和式だとできないとか、空いてなかったとか」
赤い方は満足した回答が得られたようで、小さく「わかった」と言った。
「お母さんがパチンコしてる間は絶対に公園に居ないといけないの?」
今度は私から訊いてみた。
「うん、絶対出るなって言われてる」
「へえ」
私はあえて聞こえるように鼻で笑った。
「もういいんじゃない? そうゆうの」
私たちは通り沿いの道に戻り、横断歩道に向けて歩いている。辿り着くまでに伝えられることは伝えようと思った。
「嫌でしょ、お母さんにいつまでも縛られてるのもさ。今日だって言いつけを破ったからこそ欲しかったトランプを手に入れられたんだし。ホームセンターも面白かったでしょ?」
スタスタと、同じ速さで二人は進んでいく。反応は無い。でも話はしっかりと聞いているような気がした。
「いつも二人一緒なんだから、もっと色々なことができるよ。学校の友達と遊ぶのもいいし、近所を探検してみるのもいいし、トランプも沢山やってさ。おじさんもそうだけど、いつかは誰だって親と別れるんだし、君たちの場合はそれが今でもいいと思うけどね。別にお母さんを嫌いになれって言うんじゃないよ。もちろんお母さんは一生大事にしなきゃ。でもお母さんばっかりになって自分たちがやりたい事ができなくなるって言うのは、おじさんはちょっと違うと思うんだよね」
私が行く方の信号は青くなっていたけど、私はそのままでいた。赤信号を見つめる二人。やんわりとでも伝えることは出来たはずだ。やがて点滅し始めた青信号が赤に変わる。
「…お母さんだって、たいへんなんだよ」
赤の方の、絞り出すような声だった。腕で顔の何かを拭っている仕草をすぐ後ろで見て困惑していると、彼らの前の信号が青に変わった。私を置いて二人が歩き始めると、青の方が赤の方の顔を経由して振り返った。
「ありがと」
右手を小さく上げる。赤の方も顔は見せないけど同じように手を上げ、そして二人は横断歩道を駆けて行った。

 一週間後、私はまた森林公園を訪れていた。曇り空の下、雨濡れた石畳の上を歩いてあの広場へと向かう。草木は晴れの日以上に色濃く映り、犬たちも心なしか嬉しそうにしているというのに、今日は何だか私にはただ関係のない物体としか思えなかった。横断歩道で彼らと別れたあの日から、初めの三日間は頭からどうにか彼らのことを排除しようと思っていた。トランプを買って、話すべきことは話した。これ以上の接触は自分にも彼らにも危険しかない。しかし、あとの三日は彼らに会える日のことばかりを想っていた。そして一週間後の今日、きっと彼らはあの広場に居る。それに、もし遊んでいる彼らの手に握られているのが葉っぱではなく買ってあげたトランプだったら、そんなことを考えると出処は不明ながら力が湧いてくるのだった。生憎雨上がりの今日にトランプ遊びは難しいかもしれないけど、でも話の一つや二つ聞くことはできるはずだ。コンタクトもバッチリ付けてきた。私はふくらはぎに力を入れて広場に急いだ。
 そして、彼らは居た。先週と同じ場所で、濡れた雑草の上にやはり向かい合って座っていた。私は綻ぶ口元を手で隠しながら遠巻きに近づく。違っているのは服装。どちらもクリーム色がベースの半袖の下に長袖を着ているような格好で、腕の部分がえんじ色なのが手前、青色なのが奥に居た。入れ替わっている可能性もあるけど、多分手前が赤で、奥が青だ。小さく咳払いをして喉を整える。幼い声がはっきりと聞こえる距離になった。
「俺のターン、ドロー」
青の方がそう発声して指に挟んだものは、大判の葉っぱだった。もう片方の手にも数枚、そして二人の間にも葉っぱは意味ありげに配置されている。「あっ」という風に青の方が私に気づくと、赤の方もまたこちらを向いた。
「また葉っぱでやってんのか」
私がしゃがむと青の方は露骨に顔を背けた。手元の葉っぱを一枚真ん中に出し、もう一枚を手前に裏側にして置く。何をやっているか分からないけど、トランプゲームではなさそうだった。
「トランプは?」
「家」
「あれからお母さんにバレてない?」
「うん」
青の方は生返事の後に「ターンエンド」と言い、するとすぐさま赤の方が「俺のターン、ドロー」と言って積み重なった葉っぱの一枚を指に挟んだ。そして手元の葉っぱを二枚捨てると、「何とかドラゴン!」とか言って雑草の上に綺麗な形の葉っぱを叩きつけた。
「…もう帰ってよ」
「え?」
「俺たち話すこと無いから。お母さんも帰って来るし」
青の方が抑揚のない声でそう言った。私は公園の外にある学校だか教会だか分からない建物の巨大な時計を覗くと、まだ三時を回ってもいなかった。
「ちょっとぐらい話聞かせなよ。スピードはやったか?」
「やったけどもういいって。別に面白く無かったし」
青の方は唾を飛ばしてそう言った。顔は決してこちらには向けまいとしている。赤の方はさっき出したばかりの葉っぱをおずおずと動かしていた。
「そうかい」
私は膝に手を突いて立ち上がると、赤の方は身体をビクッと震わせた。ただ青の方は俯いたままで、それどころか「お前のターン終わった?」などと知らんぷりで赤の方に訊いている。私は足元の雑草を踏みにじり、広場を後にした。
 踏みにじるものが無くなった石畳の上で、私はいくらか冷静さを取り戻していた。どうやらこの一週間で私は彼らとの関係に過度な変化を期待していたらしい。トランプを買ってやったからなんだ。彼らの家庭環境が改善されるわけでもない。犬でもあるまいし、たかだがトランプ一つで俺が彼らにとって何者かになれるわけがないじゃないか。向かいから来た毛玉みたいな犬に何度か吠えられ、通り過ぎた後に振り返る。毛玉を見るためじゃない。その先に居るはずの彼らが何をしているのか。わずかに見える。まだ同じ場所に座っている。青の方はスピードを面白く無いと言った。果たして本当だったのだろうか。あれだけやりたがっていたトランプに一週間も経たずして飽きるものだろうか。いや。もしかしたら葉っぱだったから面白かったのか。ルールも何も決まってない。葉っぱ一枚に自らの想像、幻想、願望をのせることこそが彼らにとっては面白かったのではないか。赤い方がドラゴンの名前を唱えながら葉っぱを叩きつけていた姿を思い出す。きっと彼らの目には葉っぱの上にカッコいいドラゴンの絵が見えていたのだろう。だとすると、私は彼らの夢を一つ壊してしまったことになる。出来心とも言うべき親切をした挙句、何者どころか悪者になっていたわけだ。少し口元が緩んだが、それは諦めによるものだった。やっぱり、俺は人の気持ちが分かるような人間じゃないんだ。そういう星の元に生まれていないんだ。私はふと空でも見ようと思って目線を上げた。その時、「チッ」と音が聞こえそうなぐらい間近で人が横切った。驚いて目で後を追う。女の後ろ姿。両肩を隠すように伸びた明るい茶髪には所々金色が混じり、猫背に曇り色のパーカー、ぶかぶかの半ズボンからたくましい脚が伸びている。ズボンの後ろポケットには長財布。そして膨れた買い物袋を片手に、サンダルは空っぽみたいな音を立てていた。不快を感じていたのも束の間、私はあの女が二人の母親ではないかと直感した。女は明らかに不機嫌だった。茶髪を揺らしながら石畳の上をずかずかと歩くその姿は、犬ぐらいなら問題なく蹴り飛ばしそうな勢いだ。そしてそれと同時に、女は日常的に不機嫌であることも想像がつく。私は怒りを嘲りに変え背中を見送っていたが、女が十数歩先に進んだ所で、気づけば後を追いかけ始めていた。分かっている。こんな面倒そうな女と関わることなく死ねるのがどれだけ幸せなことか。ただ、もはや人ごとではないのだ。もし女が本当に二人の母親だったら、私は彼らのために、今度こそ何者かになってやるつもりだった。
 女は着実に彼らの居る広場の方向へ向かっている。私は途中で草むらに入って違う方向から広場に向かい、そして園内の禁止事項が描かれた立て看板の陰から様子を窺うことにした。二人の手にはまだ葉っぱが握られていて、さっきと変わっているのは座り方ぐらいだった。すると女が石畳から広場へ足を踏み入れた。もう間違いない。私は一度看板に隠れて大きく息を吐き、真っ赤な禁止マークがされた人間のイラストを数秒眺めてから元に戻った。女が買い物袋を逆の手に持ち替えると、音に反応したのか二人はぎょっと女の方を見た。あと腐れもなく葉っぱを捨てて立ち上がると直立不動、青の方が女から買い物袋を持たされる。恐らく毎度同じ流れなのだろう。それは実にスムーズに行われた。顎を引き背を伸ばす彼らには明らかに怯えが見える。女は低い声で彼らに何かを言ったあと、歩き始めた。黙って付いていく二人。地面すれすれの買い物袋は実に重そうだ。私は意を決し、看板の陰から飛び出し彼らの背中を追った。初めに私に気づいたのは青の方だった。何も希望の見えない顔でこちらを一瞥した後にもう一度、今度は目を丸くして立ち止まってしまったぐらいだった。青が気づけば赤も気づく。私は熱っぽい二つ視線を肌で感じながら彼らの横を過ぎた。あの女、子供が立ち止まったと言うのに気づきやしない。このまま三人で行方を眩ませるのも手だと思った。
「ちょっといいですか」
私の声に女はゆっくりとこちらを振り返った。そのゆっくりには意味がある。顔はまだ若く眉毛も目つきも強気そのものだったけど、流石に緊張の色が見える。私は喉仏を親指で触り、低い声を意識した。
「この子たちが遊んでいる姿を見たんですけどね、知ってます? お子さんが何で遊んでるか」
「…」
「葉っぱをカードにして遊んでるんですよ。葉っぱですよ? ちょっと見ていられなかったよ、かわいそうで」
女は何も言わず、私の顔を塗りつぶしていくように見つめるだけだった。想定していたような反発が一つもなく、逆に調子が狂う。
「ね。色々あるのかもしれないけど、子供が一番でしょ。こんなに元気でかわいい子たちに恵まれてるんだから、もっと大切にしてあげた方がいいと思いますよ」
湿り気のある風が公園の草木を揺らすと、そのあと何も聞こえなくなった。何もかもが不安になる。なぜこんな女を呼び止めて一方的に話をしているのか。なぜ女は反応を示さないのか。あの二人は今どこにいるのか。女の顔を見ながら手をわずかに後ろにかいたけど、ぶつかるものは何もない。女の口元が掴みどころなく動いた。
「はぁ?」
女は顔の下半分だけで笑う。
「あんた大丈夫?」
一歩女が近づいた。そしてすぐに表情が失せる。
「ねえ、もしかして子供にトランプやったのあんた?」
これは予想外でつい目を逸らしてしまった。でもすぐに戻し、腹筋に力を入れる。
「…そうだけど」
「あり得ないんだけど。余計なことしないでくれる?」
私は口をぱくっと動かした。出てくれるはずの言葉が出なかったのだ。
「あのさ、私が何のために今までゲーム買ってこなかったと思ってんの。あんたのせいで子供が勉強しなくなったらどう責任取るつもりなの。実際子供は私から隠れてずうっと夜中までトランプしてたんだけど。ねえ。何も知らないくせに他人の教育方針に水差さないでくれない?」
女の甲高い声に気分が悪くなる。それがまさか自分に向けられているとは信じ難かった。私はまた両手を後ろにかいた。二人はどこにいる。それだけが気がかりだった。
「なんとか言ったら?」
女は勝ち誇った様子だ。ただそれはこっちだって同じだ。女はまるで分かっていない。自分が子供にどう思われているのか。お前の子供はどこに居る。後ろに付いて来てもいないじゃないか。母親が好きかと訊いて答えられなかった話をしてやろうか。公園から出てホームセンターまで一緒に行って、そこで彼らが見せた無垢な笑顔の話をしてやろうか。そんな身なりで子供たちを縛るだけ縛ってパチンコしてるようなお前なんかより、よっぽど俺の方が幸せにさせてやれる。緊張と興奮で唇が震えていた。私は奥歯を噛みしめてそれを鎮め、唾液を呑み込み、口を開いた。
「ごめんなさい!」
聞いているだけで胸が痛くなるような声だった。驚いて後ろを振り返ると、青の方が私に向けて頭を下げている。足元に置かれた買い物袋の口はだらしなく開き、即席麺が顔を見せていた。なぜ俺に謝る。一緒にお母さんと戦うのだろう。青の方が顔を上げる。
「いっぱい勉強する。夜もきちんと寝る。だからごめんなさい!」
そしてもう一度頭を下げた。私は呆然と青の方は見下ろしていた。青い方が顔を上げている間、私とは一度も目が合わなかった。
「ごめんなさい」
今度は赤の方だった。私の脇を抜けて女の側に立ち、そして頭を下げた。
「ちょっと、恥ずかしいからやめて」
女は今更周りの目線を気にし、彼らに怒鳴った。それでも二人は頭を下げ続けている。女の顔は豹変し、目は血走り頬に筋がグッグッと入るのが見えた。女は不自然な瞬きのあと、私を睨んだ。
「チッ」
火を思わせるような鋭い舌打ち。そして女は踵を返した。赤の方がすぐ後ろを付いて行く。衣擦れのような音がして振り返ると、青の方が足元の買い物袋を持ち上げているところだった。
「待て」
行くな。青の方は真っすぐ前を見つめていた。歩き出したのを止めようとしたが、青の方はそれを避けていく。それでも必死になって彼の後ろ姿に手を伸ばしたが届くことは無かった。茶髪の女の後ろを赤と青が付いて行き、やがて巨大な木陰の中へ消えた。その間、赤の方も青の方も一度として私を振り返ることは無かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?