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ぼくが『奢られ屋』になったワケ

「どうして奢られ屋になろうと思ったんですか?」

これは、僕がここ数年のうちに千回は耳にした問いだ。

正直にいうと、かったるいなぁ、と思う。たしかに僕は、その名のとおり「奢られること」を職業にした人ではある訳なんだけれども(職とは?)。べつに、なろうと思ったことなんてないのだ。

これはしばらくして分かったことだが、どうやら多くの人にとって、職業とは「正解をえらんで」「そうなることを目指すもの」であり、そう「なるために、直線的な努力をするもの」という前提があるようだ。

だから、「どうして〜なろうと思ったんですか?」という問いが、彼らの間では当たり前に生じるし、それがまかり通っている。そういうものだから、そうやって聞いてくるわけだ。


なろうとしてない。なってしまった。

僕は内心、いつもそう思う。

高校のとき、自律神経失調症と、うつ病を診断された。感覚過敏で、靴下を履くと発狂してしまう。町中ではネズミ除けの超音波が流れていて、多くの人は気づきもしないが、僕の神経はそのモスキート音に切り裂かれる。マトモに生きていられなかった。そうなってしまった。ただ、それだけだった。

僕は、いや、きっと僕たちは、皆「いつか与えられたもの」しか持っていない。「自分で手に入れた」と思っているものも、その「与えられた道具」が、「自分に手に入れさせた」ということにすぎないだろう。

職業だって、そうだ。結局、僕たちはできることしかできない。未来においても、「今できることの先にある、できるようになり得ること」しかできない。それが現実だ。

職業を選ぶんじゃない。選ばれるしかないのだ。


職業とは「えらばれて」「なってしまうもの」だ。


職業とは、そう「なるまでは気付かず、ただひたすらに、ムダともに思える経験の連続が、ぐるぐると回転して加速して、その結果として、気付けば他人からはそう見えているもの」だ。

だから、「伏せた模範解答の裏側をチラ見しながら宿題をする」ような生き方で『正解の職業』を選ぼうとしても、決して職業には選ばれないと思う。


自分の内側から答えを出さない人は、答えを間違うことすらもできない。

間違ってもいいんだ。正解なんて、選ばなくてもいいんだ。それでも、自分の内側から答えを出さなくちゃ、それは絶対に0点なんだ。

できないことは仕方ない。できることをやるしかない。できることの中から「やりたくはない、けど、やりたくなくもないこと」を、どれだけやり続けられるか。

そうやって、やり続けたことが職業になるんだ。

職業を選ぶんじゃない。
正解を選ぶんじゃない。

それがどんなことでも。
やり続けたこと、
やり続けるしかなかったことが、
あなたの職業になるんだ。

それが、いつか。
正解になるんだ。
正解にするんだ。

それは、いつかあなたが。

正解を選ぶんじゃない。
選ばれたものを、正解にするんだ。

ただ、なってしまえばいい。
与えられた姿、そのままに。

そうやってね、あんまり誰かになろうとしていると、「誰かになろうとした人」になっちゃうよ。それは、きっと「向上心の皮を被っただけの、究極の自己否定」だよ。ただなってしまえばいいんだよ。与えられた姿、そのままで。

そのまま、ニュルッと生きていこう。
川に流れるように。

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