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「親ガチャのせい」でいいのか?

「他責思考はダメ」とする考え方がある。

「他人は変えられないんだから、他人を責めてもダメだ」

というところまでは同意できるのだけど、この主張は大抵「だから、自分を責めよう。自分を変えよう!」というところまで伸びてくるので、「いや、いや、何を言ってんねん」という気持ちになる。


近年は「親ガチャ」という言葉が流行るくらい、おおよそ「他責的な思考の人たち」が多い時代なんだなぁ、と感じる。25歳になったばかりの若造なので、前の時代は知らないのだけれど。多いというのは、時代との比較というより、人口比的な話だ。

すべての主張がそうであるとは全く思わないけれど、やはりどこか「自分の人生がうまくいかないのは、すべて親のせいである」と短略的なことを言いたい人たちが多数いるから、こんなにも「親ガチャ」という1つの単語が流行るのだという仮説は、現実からそう遠くないと思う。「親ガチャ」という言葉は、他責思考の賜物だ。

ところで、

他人を責めてはいけないのだろうか?

そうであるなら、それはどうしてだろうか?

僕は、こう仮定する。おそらく、「他人を責めてはいけない」というのは、問題解決の合理性に欠ける、ということだ

現代文では、「合理性に欠ける」ということが「良くない」と言い換えられることが多い。文章というものは書かれた時代を考慮して読むべきで、現代に書かれた文章も勿論のこと、現代の「信仰化した合理性」を前提に書かれていることが多いからだ。

問題解決を合理的に行うには、まず「1の力に対して、より大きな解決が期待できる問題」を選択する必要がある。たとえば、洗い物をするときは『フライパン』から洗うだろう

それと同じように、あらゆる解決は「フライパンのように、洗面所を占める割合は大きいけれど、洗うためのコストは他と大して変わらないもの」から手を付けることが合理的であるからだ。

こう考えると、「人の在り方を変える」という選択は、非常にコスパが悪い。

人がそう簡単に変わらないからこそ、現代人はダイエットし続けることができる(本当に痩せたら、ダイエットはできない)。だから、ダイエットに関わる産業は常に潤い続けている。これが「人の在り方はそう変わらない」ということの証明だ。

「人はそう変わらない」という事実をもとに考えると、確かに「他人を変えるためにエネルギーをさく」という行為もまた、合理性に欠けることがわかる。他人も自分もひとhuman beingである。合理性に欠けるから「ダメ」なのだ。

ただ、この前提は、さらに別の事実も導く。他人を責めることがダメなのが「変わりづらいことにエネルギーを割くのは合理性に欠けるから」だとすれば、それと同じように、自分を責めることもダメだ。

なぜなら、自分も他人も、ひとであるひとは、そう変わらない。変わらないことに執着するのは合理性に欠けるから、「ダメ」なのだ。


すると、じゃあ、何のせいにしたらいいのだろうか?そうだ、自分の親だろうか?否、親も人である。ひとは変わらない。では、なんだろうか?人でないなら、なんのせいにして、なにを解決したらいいのだろうか?

その人生の「フライパン」は、何か?


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