見出し画像

『表現の倫理』絶対者不在の個人主義

 福田は問う。非キリスト教国の日本 —— すなわち絶対者不在のこの国が、個人主義の袋小路から脱するには如何なる道があるだろうかと。

初めに福田は西欧近代の歴史について説明する。西欧近代の歴史とは、「人間の発見であつたルネサンスが神と自然とから人間の自主性を奪取し、さらに数世紀の努力を通じて支配者の手から個人の自律性を奪回しきたつた歴史」であると。

このような歴史の説明は教科書を開けばしばしば目にするものであろう。しかし我々の大半は、この記述の意味することをなんとなくしか理解できないのではないだろうか。

まさにその点こそ福田の問いの中心である。

我々日本人が上の説明の意味をなんとなくしか理解できないという事実 —— 福田はその点に、日本の個人主義の限界を感得している。

人々は言うだろう。「神と自然とから人間の自主性を奪取し」たと言われてみても、カミサマはそこら中にいるように思うし、今日も我々の生活のそこかしこに自然は溢れているじゃないか。「支配者の手から個人の自律性を奪回」したと言われてみても、支配者は今もなお支配者である気がするし、そもそも「個人の自律性」とは一体全体なんのことを指しているのかわからない。

我々がそのように感じる根本の原因は、我々の中に絶対者が不在だからである。

絶対者が存在しない日本にはおいて、個人の追求はどこまでいっても自我と他我の分離分裂にしか帰着しえない。自我とは結局自己のエゴイズムのことであり、他我とは他人のエゴイズムのことである。要するに日本における個人主義とは、畢竟、エゴイズムとエゴイズムとの平面空間でのぶつかり合いでしかない。

しかし西欧の個人主義は根本的に性格が異なっている。それは絶対者の存在から生じたからである。西欧の個人主義は、自我と他我がそれぞれ絶対者の前に自律することで、結果的に自我が他我と並立しうるのである。少なくともそれを理想としうるのである。

私はこの論文のそこかしこに、キリスト教の存在に対する福田の羨望の念を感じて止まない。

「個人主義と自己中心主義とはクリスト教を否定せざるをえなくなつた ー にもかかはらず、それはあくまでクリスト教精神の継承者であり、それゆゑにこの否定を超えて、なほクリスト教の発想は生き伸びるであらう。」

『表現の倫理』福田恆存全集第一巻

「ぼくたちはふたたび、かのクリスト教の崇高なディレムマに逢着するのである。」

『表現の倫理』福田恆存全集第一巻

「ぼくはここで三たびクリスト教のはたしてゐる役割に想ひをいたし、近代日本の前途にほとんど絶望に近いものを感ぜざるをえぬ。」

『表現の倫理』福田恆存全集第一巻

「いや、クリスト教の洗礼を受けてゐないわが国の現代文学のまへにはただ逃れえぬ絶望しか待つてゐないのではあるまいか。」

『表現の倫理』福田恆存全集第一巻

絶対者なき国で、我々はどのようにして個人主義を乗り越えていけようか。いやそもそも、未だにこの国に個人主義は確立されていない。確立されようがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?