『理解といふこと』①現代の途方もない間違い
この論文は、「現代はとはうもないまちがひを犯しつつあるのではないか。」という一文で始まる。そして、「ほんたうに現代人はとはうもないまちがひを犯しつつあるのではないか。」という一文で終わる。氏の問題意識は、切実であるように感じる。理解するということに関して、我々は何か途方もない思い違いをしているのではないか。福田の問いかけが聞こえてくる。
福田は言う。現代から生きがいが失われている原因、それは、「過去にたいする後悔と未来にたいする設計とが、われわれの生の内容すなはち行動にとって代つた」ことだと。それは「あやまれる歴史主義」の影響下に「ひたすら過去と未来との連繋にのみ忙しく、現在の環を見うしなつた」結果といえる。
現代においては、行動することは常に間違いであり、正しさは常に認識の側に存在するように思われている。その点を福田は強く批判する。
「認識が行動の原理から脱落」したと言うのは一体どういうことか。簡単に言えば、客観的な観察とやらで、他人や自己を理解できるものだと考える甘ったるい人間が増えたということだ。福田はそのことを、「なにかを理解しうるといふことにたいする異常なる過信」と言い換える。
では、私たち人間には、なにかを理解することなどできやしないのか。福田の答えはイエスだ。しかし代わりに私たちにはできることがある。それこそが、愛することである。
では、愛するとは何か。それは、「相手のうちの理解しえぬ部分にたいする敬虔な感情」を大切にし、「相手をむりやりに自分の理解のなかに閉ぢこめてしま」はないことだ。私たちは、相手の全てを理解しているがゆえに、ある人を愛せるのではない。相手の内の理解できない部分を尊重しているからこそ、その人を愛することができるのである。
つづく
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