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拘束 〜治療のため?〜

ここは酷いよ、日中は無理矢理起こされて、何か言っても聞いてくれないし返ってくるのが2日後だよ。先生とも話せないし、身体中痛いし助けてよ。助けて。


涙を流しながら震えた声で吐き出されたその言葉には、悲しさ、悔しさ、憤りが染みこんでいた。その言葉を聴く私の視線の先に、カルテを眺め、記録を書く職員らがいた。夕食の準備がはじまった病棟、病院勤務最終日のことである。


イトウさん(仮名)は、幻聴に向けて大きな声で対抗し、戦っていた。確かに辛く、苦しそうであった。そして隔離、身体拘束が始まった。「治療のため」である。


私は低下した身体機能の回復を目的に、主治医と看護師からリハビリを依頼された。イトウさんは自分で自分の腕を持ち上げられない状態になっていた。

柄もない病室でひとり過ごす。顔が痒くても、掻くことすらできない。おしっこもうんこもオムツの中。そのまま放置され、ありとあらゆる気持ち悪さと戦う日々。…治療のためである。


拘束帯を外してもイトウさんは動かない。虚ろ目でこちらをみている。抜け殻のようになったイトウさんと体育館で一緒にスポーツをしたのは数ヶ月前のことである。


精神症状はなくなった。それと同時に生きる気力、希望までもなくなっていた。


固まった関節、細くなった手足。その手足を一生懸命動かす私。イトウさんは何も言葉を発しない。


その後、入院が長期化したため私の担当していた病棟から転棟した。数ヶ月が経ち、退職日を迎えた私はイトウさんのとこへ行った。イトウさんは車椅子に乗り、ベルトをされていた。拘束されていたのは身体だけではなかった。言葉も拘束され、解放を求めていた。


そして、私は病院を後にした。



医療スタッフは言う。「安全のため」「人手が足りないから」「他の患者さんを守るため」そして「治療のため」。何度この言葉を聞かされただろう。医療スタッフもまた、組織の習慣、ルール、制度に思考を拘束されている。ミトンや車椅子ベルト、スピーチロック、多剤大量処方も広義の拘束である。


人が人を縛ることを、これらの言葉に帰結させていいわけがない。少なくとも、病院に勤務していた当時の私がやれることは全てやったのか、と後悔しない日はない。

日本の精神科病院での身体拘束はアメリカの266倍、オーストラリアの599倍、ニュージーランドの3000倍である(100万人あたりの身体拘束数)。

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