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offering flowers2023

ふと、思い出した。去年の自分の誕生日、1/4の朝のことを。

2022年に入り、福間さんのツイートをTL上で見かけなくなり、「お正月休みからしら?」などと思いつつ、また同時に「(大丈夫かな?)」と心配していた三が日。TLを漁っていると、少し遠い彼のことを知る方が訃報をつぶやかれているのを見かけた。心が止まる。不穏な気持ちをもったまま、日常生活を重ね、営むことを心がけていた。

1/4の朝、6時前ぐらいだったか。不意に玄関にチャイムがなる。こんな早朝に誰だろう?インターフォンを覗いても、誰もいない。

その後、1/7の昼、公式からの訃報。
仕事帰り、バスと乗り継いた電車の中でも涙したことを覚えている。
涙が熱かった。

すこし落ち着いてから、1/4の朝のことを考える。

「ああそっか。もしかすると、福間さんがお家にちょっと寄ってくれたのかもしれない」。

住所もしらないのに?

「だって、ヘリオスで買い物しているから、住所わかるじゃん。ほら東京ののお友達たちへの挨拶に巡られたあと、ちょっとだけ通り過ぎてくれたのかもしれないよ。ちょうど誕生日だったしさ。」

ふーん。そうかな。そうかもね。だったら嬉しいね。

「嬉しい。嬉しいけど、悲しいよ。嫌だよ。」


当時、そんなことを自分勝手なことを考えていた。混乱もしてたな。
最近すっかり忘れていたけど、今年の誕生日を迎え、それを思い出す。

やまだようこの「喪失の語り」の中で、アイルトン・セナの死に衝撃を受け、その中で必死に語り直しながら、生きて行こうとするファンの方の話がある。その方の気持ちが、とても身近に感じる。

語りの生成過程で、故人が自分の人生の大事な一部として明確になっていく。そして、それに支えられ、踏み出そうとする。あまりにも自分の一部になりすぎて、ときに見えなくなってしまうことがある。だけど、でもたしかに自分のなかにあることを確信する。その過程を、自分も踏んでいるのだろうか。

さらに新しい1年が始まる。
自分の語り方もかわっていくのかもしれない。

それを記し、これからも見つめていきたい。

追記
チャイム。「ああ、チャイムって音による存在感の提示だな。音を通じたメッセージというのも福間さんらしい」など、この記事を聞き出して想いつく。これも勝手な妄想だなと、笑ってしまう。

いちファンの自分の心を支えるために書き出した記事ですが、ご不快に思われる方いらっしゃったらお詫びします。自分にとって大事なことだったので感謝と合わせて書き出したくて、それを献花のように、内海に投げ込ませていただきました。

福間さん、みなさま、ありがとうございました。

志ノ田たぐる



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