見出し画像

「駅」 #78

最近、NHKBSで中森明菜のライブ(伝説のコンサート 中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版)が放送されていたのを観た。
彼女は今年の5月でデビュー40周年になる。そのライブが素晴らしかったこともあり、そしてその昔大ファンだったこともあって、最近改めて彼女のことを考えている。

中森明菜は、小学生から中学生の頃に大ファンで、彼女が出る歌番組は全て録画して見るくらい好きだった。デビュー当初は超絶可愛く、こんなに可愛い人が世の中にいるのかと驚いたものだ。

当時は彼女の歌を聴いていたわけではなく、彼女の顔や表情、立ち振る舞い、仕草の一つ一つにキュンキュンしていて、ただただそれを見ているのが好きだった。

本人はアイドル的活動は10代までと決めていたかのように、20才前後になると大人の女性の艶やかさを出し始め、元々高かった歌唱力とクラシックバレエで培ったダンススキルを駆使して、楽曲の世界観を魂込めて表現するアーティスティックな方向に舵を切り始めたように思う。

YouTubeでその当時の映像を観ると楽曲に対する表現力は本当に素晴らしく、今さらながら鳥肌が立った。神々しい綺麗さと相まって、30年以上前とは思えないほど古さを全く感じさせないパフォーマンスは圧巻だと思う。

実は当時はそれに全く気づいていなかった。ただただ容姿に見惚れてただけなので当然かもしれないが、理解するには少し若過ぎたのかもしれない。
今思えばアイドルの枠を超越したまさに時代を代表するアーティストだったと思う。

ところで、「駅」という曲がある。
一般的には竹内まりやの曲として知られているが、元々は中森明菜の曲で、1986年にリリースしたアルバム『CRIMSON』の曲として竹内まりやが提供したものだ。

竹内まりやの「駅」は1987年のアルバム『REQUEST』に収録されており、セルフカバーとなっている。その後シングルとして発売され、1991年には松竹映画「グッバイ・ママ」(脚本・監督:秋元康)の主題歌に起用されるなど、竹内まりやの曲として世間に浸透していき知名度を得ていった。

僕は中森明菜版のことは知らなかったので、オリジナルは竹内まりやのものだとずっと思っていた。

この「駅」という曲にはその世界観の解釈においていくつかのエピソードがある。

一つは歌詞のストーリーについての論争である。
歌詞の中に以下の一節がある。

今になってあなたの気持ち
初めてわかるの 痛いほど
私だけ愛してたことも

この中の「私だけ 愛してたことも」という部分に対して、

「私だけ(を)愛していたことも」
「私だけ(が)愛していたことも」

と異なる解釈をする人たちがいて、どちらが歌詞の解釈として正しいのかということが論争になったということなのだ。

2通りの解釈があるというのはどういうことなのか、歌詞全体を見てみると、

作詞:竹内まりや
作曲:竹内まりや

見覚えのあるレインコート
黄昏の駅で胸が震えた
はやい足どりまぎれもなく
昔愛してたあの人なのね
懐かしさの一歩手前で
こみあげる苦い思い出に
言葉がとても見つからないわ
あなたがいなくてもこうして
元気で暮らしていることを
さり気なく告げたかったのに…

二年の時が変えたものは
彼のまなざしと私のこの髪
それぞれに待つ人のもとへ
戻ってゆくのね 気づきもせずに
ひとつ隣の車両に乗り
うつむく横顔見ていたら
思わず涙あふれてきそう
今になってあなたの気持ち
初めてわかるの痛いほど
私だけ愛してたことも

ラッシュの人波にのまれて
消えてゆく後ろ姿が
やけに哀しく心に残る
改札口を出る頃には
雨もやみかけたこの街に
ありふれた夜がやって来る

となっている。

ストーリーとしては、ごくシンプルで、主人公の女性が駅で元カレの姿を見かけて、当時を思い出し、感傷に浸るというものである。
ある程度の大人なら多くの人が経験する感情かもしれない。

ここで解釈が分かれるのは感傷の浸り方で、前述の「を」と「が」の違いで言うと、恐らく、前者は恋を終わらせたのは主人公の方で、「(他にパートナーがいながら?)私だけを愛してくれていたのに…」という当時は彼を信じることができなかったという思いからであり、後者は恋を終わらせたのは彼の方で、「(結局パートナーの元に戻り?)わたしだけが(彼を)愛していた…」という切ない思いから、ではないかと思っている。

いずれにしても2年の歳月を経て、主人公にも待ってくれている人がいるということなので、既に新しい生活はスタートしている。

前者は少し後悔はしつつも、振ったのは自分であり、ある程度は吹っ切れているはず。一方後者は振られたのは自分の方であり、まだ少し未練がありそうである。

正解を言うと、竹内さん自身が歌詞の意味は「を」だと何かの場面で言っているようなので、論争の意義は既に失われている。
とはいえ、曲の世界観と解釈は聞き手に委ねられている部分もあり、作り手がそういう意図だからと言って、それ以外の解釈が許されないということではないと思う。

結局、聞き手は自身のこれまでの経験によって、歌詞の内容に対して想像力を働かせており、それぞれの経験の内容が異なるため、解釈に違いが生まれているのだと思う。したがって、その本人にとっては、どちらであっても正解ということになる。

そしてもう一つのエピソードがこの解釈を巡る山下達郎とのやりとりである。

中森明菜版と竹内まりや版の違いは聞いてもらえればすぐに分かるが、曲のアレンジが異なっており、中森明菜版はウィスパーボイスで情感たっぷりに歌いあげている一方、竹内まりや版は比較的アップテンポに歌謡曲っぽく歌われている。

前述の解釈の違いで言うと、(中森さんがそう言ったわけではないので、あくまで推測であるが)中森明菜版はどちらかと言うと後者の解釈で、竹内まりや版は前者の解釈で歌っているのではないかと想像される。

中森明菜版の歌い方にはもう一つ理由があって、それは収録アルバムである『CRIMSON』全体のコンセプトである。
この『CRIMSON』のコンセプトは、「東京・目黒…、場所は碑文谷あたりに住むOLの1日の生活をイメージしたもの」ということになっており、都会で一人暮らしをしているOLの孤独を描くため、アルバム曲全体が声のトーンを落として歌われている。この「駅」に関しても例外ではない。

ちなみに、中森明菜は、このアルバムの前作で、ボーカルの歌詞をわざと聞こえないように録音した前代未聞の問題作『不思議』というアルバムをリリースしている。セルフプロデュースということで、自身のアイディアだったそうだが、当時2年連続で日本レコード大賞を受賞するようなキャリアの絶頂期にあるにも関わらず、誰もやったことのないようなことに果敢にチャレンジしていた。
「ミ・アモーレ」や「DESIRE -情熱-」のサビを独特のビブラートを効かせながら声量感たっぷりに歌い上げていたこの時期に、全編ウィスパーボイスで歌うという試みも一つのチャレンジであったのかもしれない。

中森明菜のこれらのチャレンジには賛否両論あり、批評家や周囲からは理解されない面も多々あったようだが、今振り返るとレディー・ガガやビリー・アイリッシュが試みていたようなことをあの80年代の半ばに行っており、中森明菜の感性は少し時代の先を行き過ぎていたのかもしれない。

山下達郎の話に戻るが、山下さんはこの中森明菜版のパフォーマンスが気に入らなかったらしく、そのアンチテーゼとして、竹内さん本人はあまり乗り気でない中、セルフカバーをプロデュースしている。
その理由として山下さんは、竹内まりやの初期のベストアルバム『Impresssons』のライナーノートにて、

この作品(「駅」)も、もともとは、さる有名アイドル・シンガーのために書かれたものである。
(中略)
そのアイドル・シンガーがこの曲に対して示した解釈のひどさに、かなり憤慨していたこともあって、ぜひとも自分の手でアレンジしてみたいという誘惑にかられ、彼女(竹内まりや)を説得してレコーディングまでこぎつけた 〈竹内まりや「インプレッションズ」曲目解説〉

と記して説明している。

ちなみに山下さんは後にラジオで「あれはアーティストが悪いんじゃなくアレンジ等のスタッフに対する意見です」と述べており、中森明菜本人を批判したのではなく、アレンジャーを含めたスタッフに対する意見だったと釈明している。

これらのエピソードはそれまで全く知らなくて、今回ネットで検索しているうちに見つけたものである。

これを踏まえて、両者の曲を聴き比べるという形で、改めて「駅」という曲を聴き直してみた。

僕の中では、「駅」は竹内まりや版の「駅」なので、こちらの方が聴き慣れているから、全く違和感なく聴ける。改めて良い曲だなあと思う。

一方、中森明菜版は…。

これまできちんと聴いたことはなかったけれど、山下さんがあそこまで言うほど「酷い」だろうかと思った。

アルバム全体のコンセプトに沿ってるし、情感あるウィスパーボイスはこれはこれで味がある。
夜に一人でじっくり聴くには逆にこちらの方が良いかもしれない。

竹内さんの声のトーンは、落ち着いた低音ボイスでありながらどこかあっけらかんとした明るさがあるので、確かに元カレを見かけて少しおセンチな気分にはなったけれど、家に帰ればそのこともすっかり忘れてすぐに日常に戻りそうである。

一方、中森さんの声のトーンは、声質や歌い方も含めて、過去を少し引きずってるような感じがあって、家に帰っても、しばらくは当時を思い出して物思いに耽ってしまいそうである。

それぞれ味があって、両方ありだなと僕は思う。

「駅」は、30年以上前の曲で、これらのエピソードもその当時のものだけれども、あの当時だったからこのようなやり取りが生まれたんだろうなと思う。

多様性を重んじる今の時代なら、普通に両方ありだよね、で終わってたかもしれない。

ちなみに僕は、前述の「を」と「が」の論争で言えば、あまり深く考えず、前者だと思っていた。

今は、聴き方や歌詞の読み方によっては、後者の解釈も確かにあり得るなと思っている。
というより、そう言われたら、逆にそうとしか聞こえなくなっている自分もいたりする笑。「気づきを得る」とはこういうことなのかもしれない。

この「駅」に関して、竹内さんは後に自身のオールタイム・ベストアルバム『Expresssons』のライナーノーツで、

'86年に中森明菜さんのアルバム用の依頼が来た時、 テーブルに彼女の写真を並べて、情景イメージが出て来るまでずっと見つめていました。
せつない恋物語が似合う人だと結論を得た私が、めずらしくマイナーコードで一気に書き上げたこの曲を、のちに自分も歌い、今のようにスタンダードな存在になっていくとは夢にも思いませんでした。
明菜ちゃんからの依頼がなければ書けなかった歌です

と、中森さんに対する感謝の思いも述べている。

中森明菜の『CRIMSON』というアルバムに対して竹内さんは5曲ほど曲を提供しているが、中森明菜版と竹内まりや版を聴き比べることのできる曲が他にもいくつかある。その中で特に好きな曲に竹内まりやが『REQUEST』の中でセルフカバーした「OH NO, OH YES!」がある。

内容は大人の女性の切ない恋を歌ったものであるが、この曲は断然中森明菜版の方が好きである。
どちらもR&B調にアレンジされているが、竹内さんの声はやはりどこかあっけらかんとしているので、他人事のような感じがあって、歌詞の主人公に感情移入できず、曲の世界観とあまり合っていないような気がするのである(もちろん、竹内まりや版も良い曲で好きではあるが)。

その点中森明菜版の方が、主人公に感情移入しやすく、切なさと都会的な雰囲気がよく出ていると思う。

この曲も興味あれば、聴き比べてみるといいかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?