人の生きがいは一つではない
1.生きがいを強制的に奪われてしまったら…
コロナ禍の影響で集団が集まって楽しむようなイベントを、
以前のように楽しもうにも楽しむことができなくなった現状があると思います。
ある患者さんは生の音楽ライブに年に数回参加するほどのライブ好きでしたが、
コロナ禍のせいでライブ自体が開催されなくなり、自分の生きがいがコロナによって奪われてしまったような制約を感じられたようです。
少し世の中の警戒態勢が緩み、小規模のライブは開催されるようにはなってきたものの、
それでは以前のような熱狂はなく、情熱も十分に満たされることはありません。
その結果、非常に体調を崩してしまったという方に対して、どのような言葉をかけてあげるべきでしょうか。
世の中どれだけ望んでも変えられないことはあるものです。
「他人と過去は変えられない」と言います。しかし「他人と過去に対する自分の見方は変えることができる」と思います。
だから変えられない事実に対してポジティブな見方をすることは一つの方法ではあるわけですが、
今回のように音楽ライブに対する想いもひとしおであれば、考え方を変えるといってもそんなに容易ではないかもしれません。
こういう時に私が大事だと思うのは、「失ったものに注目するのではなく、新たな可能性に注目する」ということだと思います。
2.生きがいの喪失は新たな生きがいへの第一歩
音楽ライブに参加するのには、お金も時間もかかります。
ライブに注目している限り、それに伴って失った喜びや楽しみにしか意識が向かないわけですが、
裏を返せば「新たに使うことができるお金や時間ができた」ということになります。
そのお金や時間を、今はまだ見ぬ新しい挑戦に費やしてみるのは一つの方法ではないかと私は思います。
例えば私はそれまで週6で働いていた医師生活を見直して、
フリーでオンライン診療特化型のクリニックを開業し、
本業が軌道に乗るまでの間の生活費を稼ぐためのアルバイトを週2回だけ行うことによって、
贅沢はできないものの、他の時間を自由に使うことができる環境を自分で作りました。
このような生活変化を私は「自主的に」行ったわけですが、例えばコロナ禍の影響で仮にそうした生活変化が「強制された」としましょう。
状況としては「音楽ライブにたくさん行けなくなった」と同じ構造にあると思います。
そのような状況で私は例えば、農業をする時間を持つようになりました。
あるいは外国語を学ぶという時間を持つようになりました。
その結果、新たな生きがいを手に入れることができました。
勿論、それぞれを行うきっかけはありました。ただその時に大事だったのは「何か新しいことを始めるときに先入観を持たなかった」ということではないかと思います。
自分が何に興味があって、何に生きがいを感じるかということは、長く生きていれば大体固まってくると思います。
しかし、それはあくまでも今まで自分の人生の中で触れ合ってきたものの中で構築されてきた価値観であって、
自分の興味がすでに触れてきたものの中だけにあるとは限りません。
もしも今まで生きがいであったことが何らかの形で奪われたのであれば、
新たな生きがいを探す旅へと一歩踏み出せばいいのではないでしょうか。
なぜならば人の生きがいは一つではないからです。
3.誰にでもある「無限の可能性」
「こどもには無限の可能性がある」という言葉がありますが、
何も無限の可能性はこどもだけに限定されている話ではないと思います。
大事なことはその人が「無限の可能性」を信じられるかどうか、だと思います。
大人はとかく、「無限の可能性」をあきらめがちです。体力も衰えてくるし、たいていのことは経験してきていると考える傾向があります。
しかし、人間というものがたった一つしか生きがいが持てないように設計されているはずもありません。
こどもに限らず、すべての人があらゆることに興味を持ちうる可能性を秘めているはずです。
だからこそ、どんなに辛い目にあったとしても、
人はまた立ち上がり、歩いていくことができるのではないでしょうか。
忘れないでください。人生の生きがいは一つだけではありません。
失っても、探せばまた必ず見つかります。
あなたが「あきらめる」ことさえしなければ。
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