見出し画像

花火

 実はあんまりよく覚えていないんだ。あの夏の打ち上げ花火、どんなだったか。学生生活、初めての夏。突然、コンビニで雑誌を手に取った君が「花火、見に行きたい!」って騒ぎ出して、そのままふたりで浴衣を探しに行ったんだった。事件はいつも決まって君の気まぐれから始まるんだ。少なくとも、僕の目にはそう映っていた。

 少し高台にある君のアパートには小さな駐輪場しかなくって、始めのうちは、階段下の壁にもたれかけるように僕は自転車を止めていた。雨が降るとサドルまで濡れちゃうけど、我慢するほかなかった。6月になって1階の住人が引っ越して行ったから、駐輪場のポッカリと空いたスペースに君の自転車に並べて止められるようになった。あのとき、もう君の中に僕の居場所もあったんだろうか。

 まだ随分と明るい夕方。部屋の外で君が着替えて出てくるのを待っていた。「上がって待っててよ」って言われたんだけど、何だか落ち着かない気分になって、「いいよ外にいるから」って遠くでアブラゼミがミーミーなくのを聞きながら階段の手すりにもたれていた。ガチャガチャっと音がしてノブが回って、ドア下の隙間から赤い鼻緒と君の白い足先が伸びてきた。鍵を締める君の後ろ髪を結い上げたうなじにドキッとした。

 会場の河川敷まで向かう緩やかな人の波が動き始めていた。君のアパートから河川敷へ歩いて行ったって10分くらい。普段なら住宅街をすれ違う車の通りに随分と気をつかって進むところだけど、この日だけは提灯を軒先に飾って連なる屋台をのんびり眺めながら歩けるんだね。

 僕らが土手に腰掛けてほどなくすると、大きな空砲が鳴って、夕闇が迫る夜空に白煙が上がった。空に細く長い2本の線を描いたそれは西から吹く風に流されて薄い幕に形を変える。始まりの合図だ。牡丹花火が打ち上がった。
「た〜まや〜」「かぎや〜」
「何それ?」って君が僕の掛け声にこっちを向いて不思議そうな表情をした。
「かぎやって言わない?」「聞いたことない!」

 日が暮れて西風が次第に強くなった。最初の大玉が夜空に開いてこれから本番というときに、ポツリポツリと雨が落ちてきた。
「嘘でしょ、あんなに晴れてたのに」
「予報じゃ、五分五分だったけどね」
 遠くに雷鳴が聞こえた。黒雲の中に細い稲光が走った。それから大粒の雨に変わるまで、あっという間だった。

 渋滞する人の波に揉まれながら、傘も持たない僕らは雨に打たれ続けた。全く前に進めなくなって、これでもかというくらい、頭の先からびしょ濡れになりながら立ち尽くした。僕らはようやくとその波から抜け出して脇道に逃れた。君は一度立ち止まって着崩した浴衣を軽く整えた。耳にかけた髪の先から滴る雨滴が首筋に沿って胸に落ちていた。
 僕は君の後ろに着いてアパートの階段を上がっていた。浴衣が君に張り付いてシルエットを浮き彫りにしていた。部屋の軒下で君の白い手首が袖口から伸びて、巾着の中から取り出した鍵を手早く鍵穴に差し込んでドアを開けた。僕はためらいがちに開けた扉の隙間に吸い込まれていった。後ろ手に静かに鍵を閉めてサンダルを脱いだ。

 びしょ濡れの僕らにとって、その後の出来事は互いに説明のいらないくらい、きっと自然なことだった。どっちが先にシャワーを浴びるかは、君次第だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?