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ピエタの前で私は泣いた

エリーさんへ

 こんにちは。随分とご無沙汰をしていますが、お変わりありませんか。この前、といっても4年になりますが、お便りをしたときには、とてもお忙しそうでしたね。エリーさん、お父さんのお葬式に来てくださってありがとうございました。
 あの日、小学校から帰るとひどくお祖母ちゃんが慌てていて、お祖父ちゃんは物凄い剣幕で大声を上げていました。夕方、お父さんが帰って来て、いよいよエリーさんが家を出て行った事実がハッキリすると、あんなに大騒ぎしていたのが嘘みたいに、急にみんな深刻な顔になって、「まあ落ち着いて夕飯にしようよ」って、居間のテーブルを囲みました。

 僕は今、神奈川県の相模原に住んでいます。広告代理店に勤めながら、放送大学で勉強を続けています。この春には無事に卒業できそうです。ここのところ仕事が立て込んでいて、アパートに帰ると深夜の1時です。作り置きしておいた牛丼とお味噌汁を温めて食べるのが、ほとんど日課になっています。1日分の宿題を終えてようやく布団に潜り込む頃には、枕元のラヂオからTom Waits の New Year's Eye が流れています。そうそう!エリーさんが誕生日に買ってくれたあのラヂオ、今も元気に動いています。

 先週末にね、実はイタリア旅行から帰ってきました。今年は業績がとってもよかったから、社長が奮発して、海外旅行に行くぞって。誰も初めは信じなかったけれど、JTBの営業さんが事務所に来て、近ツーのお姉さんが来て、何社かの旅行代理店からカタログと見積が届き始めた時から、これはもしかすると、もしかするかもしれないって、僕も皆もソワソワし始めました。だって、うちの会社で社長以外、誰も海外なんて行ったことないんですから!後で分かったんだけど、スッゴい安いプランがあって、社長も「これだ」ってPC見ながら言ってた、てるみ何とかってツアーもあったけど、皆に変だからそこはやめとこうって言われたの、正解だった!

 てっきりイタリアだって聞いてたから、ローマとかミラノかと思ってたら、バチカンだったの!大笑い。でもね、僕も会社の皆も、海の向こうなら、四国だって大喜びだったんだから、どうでもいいの。
 エリーさんは知っているとおもうけど、バチカンにはね、サン・ピエトロ大聖堂という教会がありました。紀元4世紀には建立したというから、それはとても古くて由緒ある建物です。会社の皆はマルシェに買い物とランチに行ってしまい、僕は独りで街を散策していたら、ここに流れ着きました。

 静寂に包まれた神聖で厳かな空間でした。フィラレーテの扉を抜けて大聖堂の中へと進みました。普段は観光客でいっぱいなのだそうですが、何故かその時間だけは僕一人だけが広い聖堂に佇んでいます。そして僕は、出会ってしまいました。ピエタです。
 若き日のミケランジェロが、僕よりも5歳も若い彼が作った作品です。十字架から降ろされたイエスの亡骸を胸に抱いて、悲しみの表情を浮かべる聖母マリアの象です。告白します。僕はこの像の前で、20分間も泣き続けました。それはほとんど永遠に近い時間でした。そして僕はホテルに帰り、日本に帰ったら、真っ先にこの手紙を書こうと決意したのです。エリーさん。いいえ、お母さんへ。

 お母さん、僕はピエタの前で、あなたの愛を、僕に注いでくれたその深くて優しい愛情を知りました。何故、あなたは私を置いて行ってしまったのか。あの日から、私は途方に暮れ、人の愛というものがまるで信じられなくなってしまいました。言葉には一度も出したことはなかったけれど、きっとあなたを憎んでいました。でも今なら分かります。あなたの愛が。そして確信しました。私にも人を愛せる力があると言うことを。

 どうか、今度の週末に会いに来てください。あなたに紹介したい女性がいます。きっと来てください。

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