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在る小説家の苦悩

ある売れない小説家が「恋愛小説」を書きたいと思った。

彼は主に「SF小説」や「怪奇小説」を執筆していたが、それで生活が成り立っているわけではなく、打開策として「恋愛小説」を選んだのだ。
しかし、売れない小説家は「売れない」だけあって、ひととかかわることもなければ、己の恋愛事情にも乏しく、加えてそれまで書いてきた作品の中でも「人間の情愛」云々を絡めた執筆などしたことはまったくなかった。

ある時彼は、新作が思うように進まず、憂いた感情そのまま戯れに書いた「官能小説」を、皮肉半分面白半分に担当編集者Bに突き付けた。それは、日頃のうっ憤を女の体に吐きだした、最悪最低な内容だったにもかかわらず、担当編集Bは歓喜小躍りしてその原稿を持ち帰っていった。

あっけにとられたまま取り残された売れない小説家は、そのあと激しく後悔することは言うまでもない。

文法もなにも無視し、肉欲まみれで、擬音だらけの原稿を持ち帰った担当Bは、嬉々としてそれを「だれが書いた」とは述べずに編集長Zの前に差し出した。
いつも仏頂面を外さない編集長Zは片目だけを吊り上げ原稿を受け取り、2、3ページ捲ると、今度は両の目でBを見上げてひとことも発せずに机の上に原稿を頬り投げた。なにも言わずに回転いすを窓の方へと向け、それはだれもが「却下」と受け止める行為であったのだ。だがBは見逃さなかった。わずかに編集長Zの口元が、片側だけ吊り上がったことを!

それは大絶賛の合図だった。

「ありがとうございます!」
Bの声がフロア中に響いた。
「だれの小説だ? 新人か?」
静かにAは問い詰め、Bがしぶしぶ売れない小説家の名を出せば「信じられない」と言って押し黙った。そしてその原稿を、彼の名ではなく「別名義で出してはどうか」と持ち掛けた。
売れない小説家の名をそのまま出しても「人目に触れない」と思ったのか、それとも落ち込んだ雑誌の片隅に、別なだれかを「新人」として必要としていたのかは定かではないが、とにかく「一度試したい」と言った。

売れない小説家は面白半分のその小説を「世に出そう」などとはさらさら思ってもいなかった。当然「売れるはずはない」と思っていたし、せめて「書き直させてくれ」と訴えたのだが、当然受け入れてはもらえずにその原稿が売れない小説家の手に戻ることはなかった。
彼はこの編集社は「もう終わりかもしれない」とさえ思ったものだった。どうせ終わるのなら、だれの記憶にも残らないだろうと『未明』というペンネームを添えて掲載を許可した。
だが皮肉なことに、さほど期待されないと思われたそのくだらない「官能小説」は、終わろうとしていた雑誌のその月のベスト4にランクされ、さらにはその官能小説のためのペンネームは、本業のペンネームよりも世間に知れ渡ることとなってしまったのだ。

売れない小説家は、自分が「官能小説」を書くことを良しとはしていなかった。なぜなら、その小説を書くこと、自分の脳内で繰り広げられるそれらが「自分と重ねられてしまうのでは!?」と思ったからだ。だがだれもその妄想を止めてくれようとはしなかった。結果、売れない小説家は『未明』という名のそこそこ売れる官能小説家になったというわけだ。
『未明』の官能小説はそこそこ売れた。これまでの売れない小説家の書いてきた小説を上回るばかりか、売れない小説家の名を埋もれさせるほどの勢いがあった。おかげで生活は潤ったが、心は乾いたままだった。

売れない小説家は熟れた小説家になった。

Bはある時『未明』に疑問を投げかけた。「この小説はどのようにしてできたのか」と、こんな原稿が書けるなら本業の「SF」ももっといいものが書けたかもしれないとさえ思っていた。しかしながらBは、元の売れない「SF」を求めているわけではない。
『未明』は答える。「オレは歳をとった」と、これまで書いてきた小説に傾けて来ただけの情熱や気力が「持続できなくなったのだ」と言った。
そしてこうも言った。
「オレは傑作を書いている」
官能小説ではない「傑作が書ける」のだと・・・・。

「充分、傑作ですが…」
Bは官能小説をほめたたえる。今さら路線変更されても困ると思ったのか、今のまま「現状維持でお願いします」とまで言った。だが『未明』は首を振り、
だが、傑作は、どう頑張っても取り出せない!
そう言って両手で髪を鷲掴みにし、脳内の文章を引き出すかのように上部へと引っ張った。

「オレはいつも眠りの中で書いている」

「どういうことですか?」
「傑作が思いつくのは決まって寝ている時なのだ」
思いつくまま眠りの中で、筆を走らせ傑作を書き上げている。だが、
「目覚めると力尽きて続きを書くことができない」
「それって、書けてないんじゃ…?」
「一作仕上げてるんだ、寝ていれば」
「あの、だから、それって」
だが!
『未明』は空を撫でるように、まるで頁を捲るかのようなしぐさをし、ひとりの漫画家の名をあげた。
「あの男なら、記憶を引っ張り出してくれるはずだ」
「あの男? え? だれですか…?」
だが!
そして『未明』は、今度は体をくねらせ、奇妙な立ち方をした。
「だが、彼は動かない…」
「は? なんですか?」
「いや、なんでもない」

「あぁ、なんて口惜しい」
当然のことながら彼の傑作は世に出ることはなかった。しかし、官能小説家としてはまぁまぁ生き残ることができた。本人が「書きたい」と思っていた「恋愛小説」ではないにしろ、とにかく人間同士が絡み合う執筆は成功したのだ。


あぁ、・・・・

まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します