よるべなき男の・・事情
第肆話:よるべなき男の心情
枷屋は呉服問屋の傍ら土地家屋を所有する地主でもありまして、自宅の裏手には未婚の奉公人の住まいと、神田や日本橋辺りには所帯持ちのための長屋をいくつか所有しておりました。
この時代地主が直接店子を「管理する」ということはなく、店賃《たなちん》(家賃)の回収等々は差配人と呼ばれる実質的な大家を介して行われておりましたので、地主が出張っていくことは滅多になかったのでございます。ゆえに地主は、奉公人以外の住人の様子を知る由もない…となりますが、ついぞ息子の異変には気づいておりまして、病の副産物として神田和泉橋近くの小さい長屋に住み着いた女には難色を示していたようでございます。
「それで倅はこの数ヶ月もの間、どこでどうしていたっていうんだい?」
帰ってくるなり奥に引きこもってしまった放蕩息子に、いちいち世話を焼いていられるほど「枷屋」の主人は暇ではございませんでした。なにせ稼業その他を教え込めるようなまともな身体を持ち合わせないことには心底がっかりしておりましたし、ゆえに倅の身上もろもろは、長く出入りしている大番頭の作平次に任せきりだったのでございます。
「へぇ。若の話によりますと、三月ほど前に上がったどざ…」
「あぁ、佐平次」
旦那さまはいつものように「違う違う」と目を細め、軽くかぶりを振りましてございます。
「へぇ」
「すまないがその…病のくだりはよしとくれ。それを聞いては気が滅入ってしまうんでね、はしょって頼むよ」
主人の忠介さんは息子の奇病に対し、頭では納得しているものの、ようよう受け入れがたくあり、表立ってその話をしたがらないご様子でありました。
「佐平治、言いたいことは解っているね?」
機嫌を悪くするまでのことはありませんでしたが、どうにも噛み砕けないようで、
「ぁぁ、へぇ。承知致しました」
そう返事をするよりないのでございます。
この作平次という男、痒い所に手が届く本当によく気の利く古くからの奉公人で、本来ならば主人に対するそういった「言われなくても解ること」は承知の上ではしこくございましたが、いちいちこのくだりをやり取り致しますのには彼なりの思いやりと申しますか、奇病に悩まされるご子息を慮ってどうにも繰り返してしまうのでした。
「若がおっしゃいますには、まだ日が高かったせいか、ついぞ歩き過ぎましたようで。田畑屋敷を見失ってからは霧に飲まれて居場所を見失ったようだ…と、申しており」
「結局どこにいたんだい」
「へぇ。それが…与瀬町の、手前の峠」
とそこまで言って、佐平治が上目遣いに様子を窺いますと、
「与瀬町だって!?」
主人の顔はみるみる真っ赤になっていったのでございます。
「はっ…」
「まったく。それだけの体力があるなら、反物の一本も持って歩いて商売でもしてきたらいいものを!」
「いえ、こればっかりは旦那さま…」
「もう、聞きたくないわ」
「しかし旦那さま。今月はもう寄合も仕入も済んでおりますから、ゆっくりと若と話をしてみてはどうでしょう」
幼い自分から奉公していた作平次と致しましては、当然に若旦那様の誕生からを見守ってきた経緯がございます。それがために若さまには真に心を傾けておられ、本音を言えば旦那さまに「もっと心を砕いてほしい」と願っているのでございました。
「あれに、まともな話ができるとは思えないがね」
「そんなことはありません…」
「おまえにはそうなんだろう」
枷屋の主人は、病弱で放浪癖のある息子に身代を任せるつもりなどさらさらなかったのでございます。ですが、大店の見栄とでも申しましょうか、大変に世間体を気にする男でもありましたので、こうして頭を痛めておいででした。
「して、得体のしれない旗本に厄介になっていたと?」
「へぇ。気づいた時にはどこぞの屋敷の中だった。…そうで、ご自身は衰弱しきっていて食べることもままならない状態だったと」
「それで?」
「はい。それで、屋敷の住人に並々ならぬ手当てを受けた…とのことです」
「困ったものだね…。いっそそのまま行方知れずになってもらった方が」
「旦那さま! 滅多なことは…っ」
「解っているよ、作平次。わたしだって、あれが憎いわけではない。しかしだね」
主人はしばらく考え込んだが、
「あとのことは解っているね。頼んだよ」
想念を押すように、しかしながらその目はとても厳しいものでございました。
「承知いたしましてございます」
さて、この呉服問屋のぼんぼん…老舗の御曹司様であられますが、その名も立派に「蓬生(ほうせい)」さんとおっしゃいました。が、しかし遺憾ながら放浪癖がある放蕩息子と名が広まっており、巷では「枷屋のぼん」またの名を放蕩者の「阿呆せい」と馬鹿にされておりました。また、事情を知らない町人には正しく本名が通っておらずに、いつしか「阿呆助」が呼び名となり、更には実の名にかぶせ縮めて「ほーすけ」さんというのが通り名になっていたのでございます。
ところが、在ろうことか放浪の末に女を引き連れて帰って来たとの噂がまことしやかに囁かれますと、放蕩者の「阿呆助」さんは放蕩者の「阿呆助平」さんと、寿限無よろしく名が伸びまして、最近では「ほーすけべい」とまで呼ばれているらしいとのことでございました。
ハナブサはそう言ったお家事情や刃傷沙汰には大変に鼻が利くお方でございましたから、密かに入手したそれらの情報をもとに、枷屋の主人が息子の奇病に悩まされた挙句に、意に沿わない女に入れ込んでいるらしい…ことを嗅ぎつけたようなのでございます。
そうなってはお金の匂いのするその事情を利用しない手はございません。ちょうど、追い出しを掛ける予定の長屋にその女「紗雪(さゆき)」が住まわった状況を加味し、特に急ぎでもない仕事を前倒しして働きかけていたのでございます。
本来であれば小さな長屋のことなどは片手間に、たらたらと甘い汁を吸うが如くやんわりと攻め入るところを、思うところあって急遽仕込みを掛けるに至ったというわけなのでございました。
ハナブサは仕事の手を緩めることはございませんでした。が、今回迂闊なことに追い出しを掛ける長屋に住まう女に懸想をしてしまわれた。それを勘ぐる、自分の手元にいる女もまた仕掛の一部として長屋に住みつき始め、ゆえにあからさまに意中の女を庇うわけにもいかずにやきもきする羽目になったのでございます。
ひとまず手下や手元の女から興味を逸らすため、料理茶屋で中居をしているという長屋に住まう別の女に目をつけたのでございます。己の心中ではいつもの遊び心と決め込んでいたものの、どうにも気持ちが落ち着かないご様子で、もやもやとした日々をつらつらと重ねているようでもありました。
そんな事情から自分の行動が裏目に出ているとはつゆ知らず、とはいえ金の匂いを嗅ぎ分けるその鼻は健在で、なにやら別の美味しい仕込みを嗅ぎつけたようなのでございます。
「あんた、この辺じゃ有名な男なんだってね…。この辺の茶屋の女どもが羨ましがってたよ。どこで知り合ったのか…ってさ」
ハナブサは、どんな女でも「一目見たら恋に落ちる」と評判の男でしたから、当然にこの女中もすぐさま蛇のように芯の通らない体になり、くねくねとハナブサの誘いを受け入れたのでございました。がしかし、
「店の主人はあんたが座敷に上がるってだけで大喜びさ。…あんた、小判でも落として歩いているのかい?」
場を持たせようと、女である限りの手練手管を推しならべ話を広げようと持ち掛けますが、一方のハナブサはまったく心ここに非ずでございまして、ただひたすらに徳利の数を並べることとに精を出す始末にございました。
「なんだい…。色男って言ったって、面白くもなんともない。ただ居座るだけでなにもしないなんて、あたしにとっちゃただの厄介者だよ」
そうは言いながらただひたすらに、もの言わぬ色男の傍ら、酒を口に運ぶ仕草を眺めているだけで躰が痺れていくような、そんな錯覚に酔わされているこの女はただただ口惜しいのでございました。
ここ、浅草から少し離れた谷中の料理茶屋「游苑(ゆうえん)」にて中居をするこの女、名を「お栄(えい)」といいました。
「仲間に夜話を聞かせろとせがまれてもね、なんにもないんだから答えようもない。だのに出し惜しみだなんだってやっかまれて、最近じゃ着物を切られたり、物がなくなったりと、これ以上のとばっちりはごめんなんだよ」
ただ眺めているのも飽きたのか、ひとりごとのようにぼやいておりましたが、
「ちょいと…聞いてんのかい!」
などと、少しばかり声を荒げましたら厳しい目つきを浴びせられ、
「なんだい。あたしはなにも悪いことはしちゃいないよ…」
と臆するも、なんの反応も見せないハナブサに、もう自分を頼って「きてはくれるな」と涙目で訴えましたところ、
「では、着物を買い与えればいいのか」
静かに、下腹にでも響くような声が耳を突いたのでございます。
「なんだい、口が利けるじゃないか…いい声だねぇ」
目を細め、枕もとに吸い寄せられるように裾を滑らせ、
「もっと喋っておくれよ。着物なんて、どうせ古着さ。そんなことどうでもいいんだよ、退屈なんだよ」
それまでの退屈な時間を取り戻すかのように捲し立てたのでございます。
「まただんまりかい。…あんた、もしかして女が抱けない体質なのかい?」
「言ってくれるね…!」
その言葉は、さすがのハナブサも聞き捨てならないひとことのようでございました。