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地を這うくじら

物心ついた頃から、わたしにはそれが見えた。

いや、おそらく、生まれたときから見えていたのであろうそれらが、物心ついた頃になにかの拍子で覚えた「くじら」なのだと認識したのだ。

どのように見えるのか…というと、あらゆるところに見えている。視界が邪魔されるほどではないが、それは海の中に在るのと同じように、地面の下、壁面の中、はては空の雲に重なるようにして自由自在に泳いでいるのだ。しかしながら水中ではないために、わたしにはそれらが這っているように見えるのである。

なまず…かとも思われた。輪郭ははっきりしないが黒色こくしょくで、地面の中にいるものだから、あれが地震のもとなのかと最初は思ったものだが、地震が起きる時にはそれらの姿はどこにも見えないので、そういうわけでもないらしい。
あるいは知らないだけで、なにか影響があるのかもしれないが、それを追求する術はない。

なぜ「くじら」だといい切れるのか…というと、一度、交差点の真ん中で潮を吹く仕草を目撃し、思わず声を出して飛び上がってしまったことがあったからだ。時折、ジャンプする姿を見掛けることもあり、不意に訪れるとびくりとしてしまうこともしばしば。当然、わたし以外のひとには見えていないのだから、わたしの微妙な動きがまわりの人間には、交差点の真ん中で「目覚めた人間」とでも映ったかもしれないし、急に奇声を発した「おかしなひと」だとでも思われたかもしれない。

大人になってだいぶ慣れたが、大きなくじらが自分の足元を横切るとき、ついぞ避ける行動をとってしまい、水たまりにはまったり、電柱にぶつかったりすることもあった。そんな時、くじらはにやりとこちらを見ていたりするのだ。
そう、まさに「にやり」である。彼らにもわたしが「見えている」ことは認識されているらしく、時折そんな交流があることもある。

ゆっくりと緩やかに大きな黒い影がのろのろと通り過ぎていく。
それになんの意味があるのか皆目見当もつかないが、特に害を及ぼすわけではなく、単純にそこに巣まわっているのだろうと思えた。後を追ってみたこともあったが、彼らの移動距離は計り知れず、たとえ緩やかだとはいえ道なき地面を流れてゆくので限界があってあきらめた。
それはとにかくわたしたちが地面として足をついている薄い境界を隔て、その下がすべて水槽か海であるかのように、家の軒下だろうが、山の斜面だろうが、川の中だろうが奇妙な画面えずらとして流れていくのだ。

それは最初、雲の影…ではないかと思ったこともあった。雲の影が地面に移っているだけなのかとも考えたが、雲の影は家の軒下に潜ることもなければ、山の斜面に消え入ることもないし、川の流れに沿って移動することもないのだ。くじらはそれとしてそこに在り、自覚を持って動いている。
あるいは「くじら」の形を模したなにか、、、なのだろうか?

「ま~たぼーっとして」
不意に声を掛けられ、自分が立ち止まっていることに気づく。
「あれ? ごめーん」
慌てて駆け寄ると「空に風船でも浮かんでるの?」と聞かれた。

いいや違う。

時折、昇天していくくじらが在るのだ。
まるで命を落とした生物が、生をまっとうし天に召されていくかのように、空に向かって昇っていく。昇るというよりは、吸い込まれていくと言った方が適当か、言葉通り空に溶けるようにして消えていくのだ。そんな時はなんだか、空を見上げるこちらも厳かな気持ちになる。

(どこに行くのかなぁ…)

なぜわたしに見えるのか、だれかほかにも見えているひとがいるのか、確かめようもないので解らないが、ただわたしのように、ついぼーっとしている姿を見掛けると、その先にくじらがいやしないかと確認してしまうのだ。

「くじら、すきですか?」
などと、突然声を掛けられたらどんな顔をするだろうか。
だれか、わたしと同じように、わたしの様子を見てそんな風に感じることがあるだろうか。

あぁ、今日もくじらが這っていく。
それを楽しんでいるわたしがいる。

このくじらには家族はあるのだろうか。海に巣まうくじらのように、彼らにも子どもを産んだり、育てたりする機能が備わっているのだろうか。
いろいろと知りたいことはたくさんあるが、今はただ流されていようと思う。ずうっと見えているという保証はないのだ。

いつか見た映画のように「子どもにしか見えない」ものだったりするかもしれない。わたしもいつか、見えなくなってしまうかもしれないのだ。わたしの心が澱んだり、もっと大人になってしまったら…あるいは時が過ぎるにつれ、薄れて行ってしまうのかもしれない。だから今は、この時を大事にしようと思う。






まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します