よるべなき男の・・事情
序章:慕情、そして恋情
それは、風の強い日のこと・・・・。
とある屋敷の門前に行倒れがございました。
「奥様…」
そこを通りかかりましたのはそのお屋敷の主…とは申しましても、ほぼ一年ほど前に主人を病で亡くした未亡人でございまして、稼ぎのない未亡人は喪が明けると同時にその屋敷を出ねばならないという身の上でございました。
奥様と呼ばれたその女は、ついとその行倒れの様子を下男に伺わせ、
「こと切れてはいまいか」
そう尋ねたのでございます。
下男は素早くその者の傍らへ、鼻に手をかざし、首に手を当て確認致しまして答えるに、
「辛うじて息はあるようです」
「ならば、屋敷へ」
「ですが、」
下男は行倒れの成りを訝しみ、一応はお止めするのですが、主には逆らえませんでしぶしぶと従うばかりでございました。
「屋敷の外でどうにかなられては、また面倒です。ひとまず」
心優しい奥様は、自分の身も顧みずに行倒れの面倒を見ることになったのでございます。
行倒れの男は衰弱しておりましたが、表立って怪我をしているわけでも病を抱えているようでもありませんでした。そればかりか身なりはしっかりとしており、なにより来ている着物が庶民のそれとは思えないほど見事なものでしたので、それなりの身分のあるお方のようにも見受けられ、そのままにしておいては逆に面倒をしょい込むのではないかと、勘のいい奥様は算段した次第でございます。
その屋敷はさるお旗本の病弱な三男坊のために用意されたもので、奥様はその面倒を押しつけられる形で数名のお女中と下男をいただき、ひっそりと暮らしていた場所でございました。ですが昨年そのご主人様が身罷られた後、懇意の女中と行き場を失くした下男を除いて屋敷の者はすべて、本家であるお屋敷へ引き下がりを命ぜられたのでございます。主なき今、奥様がその屋敷に滞在を許されたのは喪が明けるまでとのお約束でしたので、それもあとひと月…という時の出来事でありました。
なんの頼りもない奥様は、一年とはいえ僅かばかり蔵に残された米に、庭の小さな畑、形ばかりの礼金で暮らしを立て、あとの始末をしなければなりませんでしたので、節約に節約を重ね細々と日々を送っておいででした。
ですが、いくら「銭はいらぬ」と言われてもただ働きをさせるには忍びないと、自分を慕って残ってくれた女中には嫁ぎ先を世話し、体の利く下男には新しい働き口を探してやり、最後は老い先短い老夫婦とのさみしい暮らしがせいいっぱいだったのでございます。そうして喪が明けた暁には人知れずその命を立とうと考えておいでのようでした。
三日三晩とは実にありきたりな時間のようで、当時は生き死にを左右するには長い時間でありました。行倒れの男はひとくちの水も口にせぬまま高熱に見舞われ、奥様は甲斐甲斐しく介抱して差し上げておられました。とても命を吹き返すとは思えなかった容体ではございましたが、奥様の温情か、執念からかその甲斐あってようやっと言葉を発するまでに回復なされたのでございます。
聞けばその男、江戸では名のある生家の出で、家業は呉服問屋を生業としているとのことでした。そんな身分の成りをして行倒れとは如何なことかと突き詰めますと、なにやら奇怪な癖を持っており、自身の家屋の周りや身内に死人が出たり、川べり辺りでうっかり土左衛門と遭遇致したりとなると、なにやら解らぬうちに気を留め置くことができなくなり、どこぞへと「いかねばならぬ」という気に駆られるのだとか…普通ではありえない状況に持ち込まれるとのことでございました。当然その間のことは身に覚えなく、時には山中、時には海岸、ある時には上方の方まで足を運んでいたことさえあるとの話でございました。
半ば信じがたいことではありますが、このような辺鄙なところではありましたが時折物売りなどが出入りする際に、江戸のどこぞのぼんぼんが「物忌みのように行方知れずになることがある」との噂を持ち込んだことがありましたので、なるほどそれが彼の「事情ではないか」と合点がいったようでございました。
「大変世話になっておいて申し訳ないが、家の方へは知らせずにおいていただきたい」
男はなにやら神妙に頼み込みましたので、奥様は黙って頷かれました。
「ですがわたくしも、まもなくこの家から出ねばなりません。斯々然々、やんごとなき事情がありまして、あとひと月も経たぬうちにこの家を出て行かねばならないのです。ですから、その間だけということになりますがよろしいですか?」
奥様はご自分の事情を短く説明し、最善を尽くすことをお約束されました。
「それだけ時間があれば、わたしも歩けるようになるでしょう」
なんとも頼りない言葉ではありましたが、とてもぼんぼんといわれるほどの嫋やかさは感じられませんで、彼の見てくれは果たして快復したからといって通常の生活が適うのかどうか想像に難しい有様でございました。
「そうですか。それでよろしければ…」
そうお答えする奥様も、近頃はあまり食事をなさらなくなっておられましたので、ぼんぼん同様病持ちのように痩せこけておいででした。それゆえか、
「して、そのあとは」
と、男は訝しんで尋ねました。
なぜなら、奥様は死を覚悟しておりましたので、それまで死人に係り奇病を発していたぼんぼんでございましたから、すぐさま奥様の胸の内を射当てたということでございます。
「はい?」
「次のあてはあるのですか?」
ですが、奥様はその質問にはお答えになりませんでした。
日に日に正気を取り戻しつつあるぼんぼんは、奥様に屋敷を出たあとの行き先…を、食事の度にお聞きになるようになりました。
「次のあて、と申しますと?」
「棲み処はあるのですか、と尋ねております」
「それを訪ねてなんとします」
「なんとも。ただ、奥様は諦めた目をしていらっしゃるので気がかりで」
呉服問屋の御曹司は、なかなかどうしてただの阿呆ではないようでした。それどころか、必要以上に勘働きの鋭いように見受けられたのです。
「あては…。ないようであるような」
奥様は、まさか「死に場所を求めている」とは答えられずに言葉を濁し、
「決めて、いらっしゃる?」
そう問いかける御曹司の言葉には答えられずにおりました。
「お名前を頂戴してもよろしいですか…」
三日三晩、寝る間も惜しんで介抱なされた奥様は、在ろうことか行倒れ様の寝顔に行くばかりか同情ではない淡い想いをお寄せになっているようでありました。
ようやっとおもゆを口にできるようになった行倒れ様と、会話を重ねるうち、心安らかになられ打ちひしがれていた身の上をなぐさめられたのかもしれません。
「これは失礼。『蓬生(よもぎう)』と書いて『ほうせい』と申します」
おもゆを口に流せるようになったとはいえ、まだまだ起き上がれる力はございませんでしたので、奥様は手ずから運んで世話を焼いておりました。
「よもぎ…」
「なんでも雪の夜に生まれたとかで、先行き危うい命でありましたから。春先の蓬の取れる頃まで丈夫であれば…との願いあってと、産みの母親の頼みだったそうです」
「頼み…とは」
「わたしを抱えました際になにやら憑き物にでもあったのか、腹の中のわたしばかりがすくすくと育ち、わたしを産むと早々にそう言い残してこと切れたのだそうです」
「そう、ですか…知らなかったとはいえ、つらいお話をさせてしまいました」
「いえ、そうでもないのです。おそらく産みの母は、父が女中といい仲であるということを知っていて、子を産んだのちには離縁されると覚悟を決め、望んでそうあったのだとわたしは思っております。なぜならわたしは腹の中で、そう母親に教え込まれていたように思うからです」
「まぁ」
「誠に、奇妙な話ではありますが、この身の上に置きたる奇病もその温床を受けてのことと思うのです」
それはまるでこの世に在って無いもののように、行倒れ様…いえ、蓬生さまの目はどこか別なところをご覧になっているようで、それでいて離れられない業に縛られ、この世を儚んでいるようでもありました。
それから数日も経ちますと、蓬生さまは起き上がり、自分で椀を持ち粥を口に運べるようになりますと、とつとつと身の上についてお話になられるようになりました。
「蓬生さまは、父上様をお恨みに…?」
「いえ、そういうわけではなく。結局わたしも父親の血を引く子種ですから、母はわたしこそを恨んでいるものと思っております。ですから、今の身の上を甘んじているのです」
「そう、でしょうか…」
奥様はまた違った見解をお望みのようでしたが、
「それでいいのです…」
と、行くばかりかの笑みを称えて申しますので、それ以上の追及は喉元深く飲み込んだのでございます。
「奥様は、喪中と聞きましたが…」
「えぇ。然る御旗本の奥勤めをしておりまして…」
そう言ったあと、思うところあってか口を固く閉じられました。なぜならそれは、望まぬ相手のお手付きにより、仕える主人の奥方様に怒りを買って屋敷を閉め出された事情がございましたので、そんな身の上をようようとは語るわけにはいなかったのでございます。しかも宿下がりのつもりで向かった宿場で、なにやら暗黙のうちにやり取りなされた先に、有無を言わさずこの屋敷へ嫁がされた挙句、病床の主の世話を押しつけられてこの末路…などとは、とても言いたくはなかったのです。
「わたくしのことは、つまらないことですから…」
そう言い残し、今日はすっかりと全部食べ切った椀を手に立ち上がりました。
次の番のこと・・・・。
「そろそろ、ご出立できますね…」
奥様の看病の甲斐あって、蓬生さまは行倒れて死の淵に立たされていたことなど影も見えないほどに快復なさいました。
「あと三日ののち、わたくしもこの家を去らねばならぬので、お名残り惜しいことではございますが、旅支度をさせていただきました」
奥様は手を突き、頭を下げたままそう言いますと、黙って座敷を去ろうと致しました。これ以上の会話は、奥様には後ろ髪惹かれて辛すぎたからなのでございます。
「奥さん」
「やめて…」
呼び止める蓬生さまの言葉を遮り、奥様は小さくお答えになりました。
「確かに、わたくしはあなたからすれば歳もずっと上で、哀れな後家に思えるやもしれません。ですが不本意な身の末路、あなたにそう呼ばれることには…」
それ以上は喉が詰まって声にはなりませんでした。奥様は、確かに他人様から見ればだれかの奥方ではありましたが、心まで捧げていたわけではありませんでした。ですから今現在の奥様の心根は、蓬生さまの前でだけは「ただの女でありたい」と願ったのでございます。
「すみません」
蓬生さまも真面目な方でありましたから、すぐさま謝罪の言葉を述べました。ですが、それもまた奥様にはつらい言葉でありました。
「どうか、お元気で」
奥様は苦しい胸に手を当て、やっとの思いで言葉を紡ぎ早々に座敷を出ようとなさいました。その腕を、蓬生さまはしっかと掴み、それまで顔をあげられずにいた奥様を小さく震わせました。
「わたしと一緒に、江戸へ参りませんか」
「え…」
一瞬虚をつかれた奥様のお顔が蓬生さまを捉え、その目から温かいものが頬をつたいました。
「からかってはいけません。若様がそのような、戯れを…」
されど蓬生さまは力ない奥様を引き寄せ、やんわりと抱きすくめたのでございます。
「いつまた呆けてどこぞに向かうか解らぬ身ではございますが、あなたがいると思えば帰る場所を目指して正気にもなりましょう」
「蓬生さま…。でも、わたくしは」
「いいのです。あなたはわたしの言うとおりに、ついてきてさえくれればいいのです。ただわたしの傍にいてさえくれれば」
蓬生さまは切々と語り、そうしてまんざらでもない奥様は、根負けしたような形で江戸に向かうことになったのでございます。
「わたしは、あなたをなんとお呼びすれば…」
「お好きに…」
年上の引け目か、申し訳なさからか、奥様は何事にも控えめでございました。
「そうは参りません。いずれ夫婦(みょうと)になる身なれば」
「蓬生さま!?」
蓬生さまはすっかりと、奥様以上に奥様をお見初めになっておいでのようでした。
「わたくしは、紗雪(さゆき)と申します」
第壱話:よるべなき男の・・素性
江戸のとある町はずれに、その姿を見るだけで溜息の出るような見目のいい男が棲んでおりました。その者が町に出る際はいつも腰ぎんちゃくがついておりまして…。とはいえそれらは友でも身内でもない「生きた壁」の如く男を囲んでそぞろ歩いており、なんとも異様な光景でもありました。
男はそれを由とするわけでも甘んじる様子もなく、彼にとっては腰にぶら下げる印籠か煙草入れの根付けの如く、そこにあるのは主従関係のみでございました。
そんなわけですから、
「あ~また今日も伴をお連れだ…」
「芝居見物にでもおいでかねぇ…」
「あ~ん、相変わらずの仏頂面で」
「今日も拝顔できたっ💛」
「そうそう。日に一度、これがないとやる気も出ないねぇ」
このように、到るところでひそひそと、柱の陰や水桶の陰などからコソコソと、今日も今日とて、年齢を問わない女たちのため息がそこかしこで漏れ聞こえてくるようでした。
しかしながら…で、ございます。こう周りからちやほやとされているようで、当の御本人は至って孤独でありました。彼は知る人ぞ知る大変に裕福なお家柄のお育ちでありながら、周囲にはなぜかそれらを伏せられてあるようで、そのような孤独と妖しさが相まって、それがよるべなさを抱える要因と申しましょうか、大変に謎めいた人物のなのでございました。
特別な人間というものは、特別なものをも持っているようでございます。
この男の周りは実に賑やか、華やかでございまして、異国の目と縮れた髪を持つ棒っ切れのような風来坊と、力自慢だけが頼りのようなガタイのよろしい輩、それと左片腕がなく右の目の潰れた小汚い小男の3人が常にまとわりついておりました。それらの輩はここ最近、三崎あたりに流れ着いた難破船の水夫、あるいは難破船を襲ったであろう異国の工作船の生き残りではないかという噂もあるようです。
さてさてこの色男、周りの人間からは「ハナブサ」と呼ばれておりました。務めて正体を隠しているわけでもございませんでしたが、ひとによってはその呼び名を使い分けられているようでもありました。だれに対しても同じ態度を貫く様からは少年のようにも成人のようにも見て取れ、そこから年齢を探ることはできず、やさ男に見えてその肌は浅黒く、着物を着ていなければ異国の住人と見間違うかのような容姿をして、遊び人風情のなりはいったいなにを生業として生活しているのかとても想像がつかないなど、実に胡散臭い多い男なのでございます。ですが、だれもが口を揃えて言うことには、とにかく「イケメン」である…ということでございました。
ハナブサというこの男、見てくれは30代前半に見られるようですが、正しい年齢を知る者はございません。62.7寸(190cm)という身の丈は、軒をくぐる時以外は「見目形」「風貌」と行った見栄の武器にもなりまして、町を歩けばその美しさに必ず女は振り返り、妖艶なその風情と生きざまに男はついぞ声を掛けたがるというわけでございますが、いずれも彼の眼力にそれ以上の接近を許された者はいないということでございます。
ですから、
「なにがそんなにいいのかねぇ?」
「縦に長いだけの男じゃねぇか」
などと、世間を知らない小者どもが陰口を叩きますと、一斉に周りの女たちの痛い視線を食らうのでございます。
「ぉぃ~、やたらなこと言うと…」
「おぉっと。はぁ…おっかねぇ、おっかねぇ」
「言わんこっちゃねぇや。くわばら、くわばら」
実に恐ろしきは女の色好くなり…。
このように、やれやれと肩を竦める次第なのでございます。
「あぁ、ハナブサ様。話し掛けたいけれど近寄れない…」
「まぁ、またそこがいいんじゃないか」
「一遍でも立ち止まってくれないかねぇ…」
「そりゃぁ、無理なこった」
それは、町娘だろうが吉原の女だろうが同じことでございました。ハナブサはよほどのことがない限り、声を発することはありませんでした。まして女に声を掛けるなど、上唇とした唇が縫い合わさっているんじゃないかと疑われるほどに、口は真一文字に閉じられておりました。
「ったく、なんだってんでぇ」
「でもよぅ。一度でも一緒に仕事したやつぁ、その腕前に惚れ惚れするんだという話よ」
「ほへぇ…まぁ一生分の銭でも貰えるんなら話は別だがね」
「馬鹿言っちゃいけねぇ。一生分の銭どころか、一生分の女も夢じゃないってことだ。でも、」
「ほぇぁ…そいつぁ…」
「期待するなよ」
「なんでぇ曰く付きかよ」
「そりゃそうだ。奴のお眼鏡にかなったモンだけが味わえるってぇ代物だ」
「けぇ~っなにさまだい」
「ハナブサ様よ」
このようにハナブサはとにかく見目奪ういい男でありましたから、彼に就きたい男や、身の回りの世話を焼きたい女はあとを絶たなかったということでございます。
「実際、そんなにいい目を見てるやつぁいるのかい」
「さぁね。でも、あの腰ぎんちゃくを見たら、そうは思えまいよ」
「どんな声で囁くんだろうねぇ…」
「下腹に響くような声音か、春風のようにこの身を包む美声か…」
「でも、あぁいつも周りを固められてちゃぁね…」
「それもこれも、あの女のせいさね」
「ホンっト、ずうずうしい女だよ。でも…」
「あぁ。度胸だけはあるらしいからね」
まだまだ、親しみを得るのは難しいようです。
そんな棘を孕んだため息をものともせず、彼に執拗に付きまとう女がひとりおりました。その名を「お美奈」といいまして、いくらか行き遅れに見える風体は、自らを「武家の娘」だと吹聴しているあたり、作法はまぁまぁではありましたが素性は定かではございませんでした。ですがこの女、相当にしたたか且つ粘着質でありまして、なにやら強引な手口を使ってまでしてハナブサの内縁の妻に納まったという話でございます。そうしておきながらもそれに満足できずに、彼に近づく女を目の敵に、ことごとく、そして甲斐甲斐しくもご丁寧に排除してまわっているとの噂です。
「ヒデさ~ん。お団子買っていきましょうよ~」
お美奈はハナブサを「ヒデ」と呼んでおりました。それが本名なのかどうかということはどうでもよろしいことでございまして、それはお美奈が好んで勝手に名付けたあだ名のようでありました。そうすることでお美奈は「自分は特別な存在である」ということを周囲に知らしめ、牽制して歩いているようでございました。
「ヒデさんったらぁ…」
こうして甘えた声を出し、たとえハナブサに鼻であしらわれようとも、それを「愛情の裏返し」と解釈、都合のいいように受け止めることを由とするふてぶてしい女でございました。
「ねぇ。芝居見物なら成田屋でしょうよ。成田屋のごま団子が食べたいわ」
武家の娘と申しながら、百姓のように日焼けしたその肌はおしろい程度では隠しきれずに、年齢に見合わない派手な着物でハナブサの周りをクルクルとよく回る、まるで猿回しのそれか、親犬を追いかけまわす仔犬ようなものでございまして、その様はこのあたりではすっかりと名物になっていたということです。
ハナブサは人目を避け、まるで隠れるようにして町はずれに居を構えておりました。ですが表向きは「飾り職人」を名乗っておりました。それというのもハナブサは意外に手先が器用なようで、てなぐさみにと竹を使った小物など、簪や耳かき等を好んで細工しており、それらを姑息な手下の輩どもがハナブサの許可を得て町で売り歩いたところ、大変に評判がよくいいお客がついたためらしいのです。彼の住まいは竹林の中ほどに在り、材料には事欠かなかったので、良い小遣い稼ぎにはなっていたようです。品物が売れた暁には、手下どもは料亭の板前を半ば強引に連れ帰り、屋敷に材料を運ばせハナブサの為と称して宴を催し、ご相伴に預かるのだそうです。
問題のその簪ですが、時に自分でも気に入ったものには屋号よろしく「英」と記しているようで、その印が施される品物は上がないほどに値が付くというばかばかしいおまけ付きでございました。ですので、最近では大奥にまでもその噂が広まり、いろいろと厄介なことになっているようでございますが、長くなりそうなのでその話は後日と致しましょう。
ハナブサに関してそれ以外は、名のある「旗本の御曹司である」とか、武家の殿様の「忘れ形見である」などと噂は数多にございましたが、彼の父親はどうやら異国からやってくる工作船やら密漁・密航などの不審船を相手に商いをしているらしいというのがいちばん有力な情報でございました。少々黒い噂でございますのでだれも追及する者はおりませんでしたが、実のところ彼の父親の存在はその所在すら表に現れてはいらっしゃらないようなので、それを確かめるすべは一切ございません。もとよりその姿を見ることは滅多なことではかなわないということでございました。それとは真逆に母親の方は、実に目立つ行動をしておりまして、時折彼の様子を見にどこからともなくやってくるようです。
ハナブサの御母堂様は見世物小屋を切り盛りしており、なにやら面妖ないで立ちの輩を暗い屋敷の中、鍵をかけて「飼っている」という嘘か誠か解らない話がございまして、ただその見世物小屋は「庶民の娯楽」というにはなかなかに高額な木戸銭を要するようで、その中身を知る者は少ないようでございました。父親同様こちらも曰くありげではございますが、ふっくらとした赤い唇としなるような身のこなしが大変に優雅で美しく、いつも異国の衣装を身に纏っているということも手伝ってか、ご本人様は大変な評判なのでございます。御母堂様はその界隈では「花魁にも負けない」と好評のようで、宴席への招待も後を絶たず、各大名方の高嶺の花でもございました。すべからくして、彼の容姿は母親似なのだろうということです。
そっけない彼の代わりに、美しい母の世話を焼くのはお美奈でございました。それはそれは神経を使い、とにかく気に入られようと励んでございますその姿はまるで米つきバッタのよう…いいえ、大変健気な様子でございました。
普段は邪魔のような体ではありましたが、したたかなお美奈の行動はハナブサにとりまして、そこだけは「使える女だった」ということでございましょうか、足元に蚊蜻蛉が纏わりついている程度の辛抱とでも思っているのかもしれません。
しかしながらそれを知らない御母堂様でもありませんで、お美奈に対しそうそう良いお顔をお見せすることはなかったようでございます。
「姐さん。今日はどちらまで…?」
そうなのでございます。御母堂様はお美奈に自分を「あねさん」と呼ばせておいででした。決して「てめぇ様のいいようにはさせまい」と「母御」と呼ばせることはありませんでした。なかなかに、御母堂様も食えない女なのでございました。
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します