山

おやまのたからもの

みなさんは、どうして赤ちゃんが夜泣きをするのか知っていますか?

赤ちゃんはみな、遠いお山に宝物を隠しているといいます。夜、眠りにつく前に激しく泣くのは「宝物をどこに隠そうか」とあがき、目覚めてから激しく泣くのは、その宝物が「盗まれた」と訴えているからなのだそうです。
これはそんないい伝えが信じられていた昔々のおはなしです・・・・


ある小さな村に、若いお嫁さんがおりました。若いお嫁さんはまもなく、かわいい赤子を授かり若いお母さんになりました。若いお母さんは赤子がかわいくてかわいくてたまりません。貧しい暮らしではありましたが、せめてかわいい赤子だけは丈夫で元気に育てようと、毎日一生懸命に子育てをしておりました。ところがこの赤子、とても夜泣きがひどく若いお母さんはほとほと困りはてておりました。

ふつう生まれたばかりの赤子は、おなかが空いていたりおしめが濡れていたり、眠くなったりするとむずかって泣くものですが、時々機嫌が悪いのか激しく泣き続けることがあります。そんな時はたいてい、お母さんがやさしくあやしたり、抱っこしたりすれば安心して泣き止むものなのですが、どういうわけかなにをしても泣き止まないことがあるのです。

この若いお母さんの坊やも、毎晩寝る前になると堰を切ったように泣き出し、どうにも泣き止まないときがありました。そんなときには、外に連れ出し数時間おぶって歩くということがほとんどだったのです。
若いお母さんは、すべてが初めてのことでしたので、もうどうしていいのかわかりません。それに、この家にはなんでも知っているやさしいおばあさんがいませんでした。

この村は小さな村で、住んでいる人もまばらなら、隣の家まで行くにも少し歩かなければ民家が見えないような閑散としたさみしい土地でした。しかも、なにもない平坦な土地でしたので、畑も田んぼも実りが悪く、働くところもありません。男衆はみな藁を編んで草履を作ったり薪を集めたりして、行商をしているところはまだいいのですが、大概がみなひと山越えた遠くの町へ出稼ぎに行っていて数か月に一度しか戻らないことが当たり前でした。

この若いお母さんの家も例外ではありません。ですので、若いお母さんはたったひとりで、乾いた土地を耕しわずかな蓄えを食いつぶしながら赤子を育てておりました。町で育った若いお母さんには、そんなさみしい村の中に知り合いもなければ、頼れる人もおりません。なにがなんでもひとりで切り抜けなければならなかったのです。

その晩も若いお母さんはやつれた顔で、どうにも泣き止まない赤子をおぶって、子守唄を歌ったりあやしたりしながら暗い夜道を散歩しておりました。若いお母さんは大変に働き者で、日中遠く離れた川まで何度も何度も水を汲みに行き、枯れた畑をどうにか耕そうと働いていたので、疲れ果てておりました。足が棒のようになり途中眠ってしまいたくなるのを我慢しながら、ようやっと眠りについた赤子を連れて家に帰ります。
若いお母さんはとても不安で仕方がありません。ひとりきりで赤子の面倒を見ることもそうですが、毎晩なかなか寝てくれない赤子が、自分が寝不足なのと同じように疲れ果てているのではないかととても心配だったのです。そこでとうとう、ずっと気になっていたことを実行してみようと決心したのでした。

この若いお母さんも幼い頃、自分のおばあさんから「おやまのたからもの」のいい伝えを聞いて知っておりましたので、その「たからもの」を探しに行ってみようと考えていたのです。若いお母さんは決して「たからもの」が欲しかったわけではありません。その「たからもの」がなんなのか、おばあさんも知りませんでしたのでどこをどう探したらよいのかまったく解りませんでしたが、とにかくお山に行けばなんとかなると決心したのです。「たからもの」が無事であれば、毎晩赤子が泣くこともないと思ったからでした。

「こんなにも毎晩泣き切って、わたしの坊やはよほど大きな宝物を持っているに違いない。きっと大きすぎて隠しきれずに泣いているのじゃろう…」
若いお母さんは自分がお山に登り、その大きくて隠し切れない「たからもの」を上手に隠してきてやろうと考えたのです。

さて「たからもの」はどこにあるのでしょう。解るはずはありません。しかし、どこかのお山のどこかにあることは確かなのです。しかし・・・・
このころ、この村のある地方では「山上他界」という言葉が信じられており、死んだ者はみな山の頂上近くに召されるという信仰が伝わっておりました。お山の頂上には神様が棲んでおり、具合が悪く生きる望みのないひとや、死びとはみな毎月決められた日に決められた人間がお山の決められた場所におさめに行くのです。ですので、お山に登ることは禁忌でした。

神様の棲んでいるというお山にの入り口には、神様の使いとされるカラスがたくさんおりました。普段は姿が見えませんが、侵入者を見ると途端に一斉に鳴きだすのです。あの炭のように黒々と妖しく光る鳥たちが、高い木々の上からじっとこちらを見下ろしているのかと思うと、村人たちはとても恐ろしくて仕方ありませんでした。だから死びとを見送る儀式の日はそのカラスを黙らせるため、いつもたいまつを焚いて用心したほどでした。むろん、若いお母さんもそれを承知しておりましたし、例外ではありません。なによりそれは、山の神様に逆らうことになってしまうからです。

それでも若いお母さんは、山に登らずにはいられなかったのです。日々の疲れと赤子を心配するあまり、神様のばちなど考える余裕がなくなっていたのでした。若いお母さんは自分の赤子を救いたい一心で山を目指すことにしたのです。

「坊や、かあちゃんはきっと、大事な坊やの宝物を上手に隠してきちゃるけぇね。それまで安心して寝ておいで…」
その晩ようやっと寝付いた赤子の疲れ切った頬を撫で、一番上等の着物で身支度を整えると、若いお母さんは夜が明けぬ暗いうちにたいまつを片手に山へ入ることにしました。

若いお母さんは、最初は赤子も一緒に連れて山へ入ろうと考えていました。ですが、7つにならない子どもは、大人には見えない天狗妖かしにかどわかされ、連れていかれる危険性があるため、思い直して家に残していくことにしたのです。山の教えに逆らってまでしようとする所業へのいいわけのように、せめて身を清めようと川の水をかぶり、一番ましな着物を羽織って山へ挑むことにしました。

夜も明けぬ山の中は当然に暗く、そこかしこから木々のざわめきや獣のうめきが聞こえ、とても気味悪く命の危険さえ感じました。ですが、赤子を守る以外のことが頭にない若いお母さんは聞こえないふりを決め込みました。
山の中腹まで来るとようやっと夜明けの兆しが見え、薄暗くなったあたりにちらほらと黒い塊が見えだしました。神様の使いのカラスたちがこちらを見ているのです。若いお母さんは恐ろしくて引き返してしまいたいと思いましたが、立ち止まってしまうと足が動かなくなってしまうような気がしたので、ひたすらに頂上のみを見つめて歩き続けました。そのうち、夜が明けるとバサバサバサ…っと大きな羽音があたりに響き渡り、一斉にカラスたちが飛び立っていきました。

若いお母さんはそれに驚きしりもちをついてしまいました。ですが、カラスが飛び立った後の山の中は日の光が差し込み、幾分明るくなったので気を取り直して道を急ぐことにしました。
ふと、家に残してきた赤子のことが心配になりましたが、その坊やの為だと思い込むことでなんとか気を保ち、勢いをつけて再び歩き出しました。しかし今度は、痛いほどの静寂が若いお母さんの気持ちを凍らせました。耳が聞こえなくなったのかと思うほどの静けさがかえって恐怖を誘うのです。

その頃、当の赤子は母親の気配のなさとともに、なにかに怯えたように顔をゆがめて今にも目覚めようとしていました。
家の周りにはどこからやってきたのか、カラスが次々木々に留まり、屋根に降り立ち、庭に降り立ちと、あっという間に家の周りが黒々とカラスで埋め尽くされていきました。庭にいるカラスは目を見開いて、赤子のいる家の中の様子をうかがっているようでした。
カラスたちはまるで小声で話でもしているかのように、忙しなくくちばしを動かし、一羽が一声立てようものなら今にも奇声を発し騒ぎ出しかねないほどの落ち着きのなさでそこにあるのでした。

赤子は今にも泣きだしそうな顔でもがきます。まるで悪夢にでもうなされているかのようなその様に、若いお母さんは気づくべきでした。なぜなら、赤子が怯えているのはカラスのせいではないからです。赤子は今にも奪われんとする「たからもの」を案じてうなされているのでした。

一節では、赤子の「お山の宝物」を狙っているのは、光物の好きな、カラスではないのかと噂されることもありました。しかしカラスは神様のお使い、なんと言ってもカラスには山に可愛い七つの子がありますから、赤子に悪さをするわけはなかったのです。このカラスこそが赤子たちの「たからもの」の番人であり、赤子の健やかな成長を見守っていたのです。
カラスは赤子が眠るころ、山に登って「たからもの」の番をし、夜が明けると赤子のもとへ飛んでいき「きょうも無事だった」と告げる。毎朝カラスが喉を鳴らすようにがぁがぁいうのはそういうわけがあったのです。
近くに赤子がいないのにカラスが鳴いている? いえいえきっといるはずなのです。赤子はなにも人間の子ばかりとは限りませんから。

今にも目覚めようとしている赤子の、若いお母さんはそんなことにも気づきもせず、風の音ひとつしなくなった異様さ漂う山の中で、必死に頂上を目指します。山頂に近づくにつれ辺りは明るくなり、若いお母さんからもどんどん恐怖心はなくなっていきました。かわいい坊やの大事な「たからもの」を隠す手伝いをしようと山へ登ったことなど、頂上が近づいてくるとその達成感で本来の目的を失っていくようでした。今はもう、赤子の「たからもの」というものがなんなのか、知りたさに胸を沸かせているのでした。
本当ならこんなに短い時間で山の頂上など到底登り切れるものではありません。カラスがいなくなったことで、山のバランスが崩れ、若いお母さんの期待と好奇心だけがその足を運ぶのでした。

そうして若いお母さんは、なんとか気を張って山を登ることができました。もうすでに、若いお母さんの中で赤子の心配をする心もありません。家でむずかる赤子のことなど忘れてしまっているようでした。家の周りでそれを恐れて騒いでいるカラスのことも頭にはありません。
赤子の「たからもの」の番をしていたカラスたちは、今にも暴かれんとしていることを赤子に伝えようとしています。しかも暴こうとしているのは、あろうことか赤子がこの世で一番頼りにしているお母さんなのです。もし今、すぐそばにいたのなら、きっと大泣きしてお母さんを止めたことでしょう。どんなに大好きなお母さんでも、自分の大切なものを暴かれたらとても悲しいはずです。たとえお母さんであったとしても、大事なものを黙って覗くことは許されないのです。

しかし、今のお母さんにはそんなことを考える余裕はありませんでした。人の物を黙って見てはいけないという気持ちよりも、ここまで登って来たのだから、ひそやかに隠されている「お山のたからもの」を一目見たいという衝動しかありません。
そうしてとうとう、若いお母さんはお山のてっぺんまで登りつめました。

先の方に小さくキラキラと輝くものが見えます。近づいていくとそれは湧き水をたたえる泉でした。お母さんは迷わずその湧水を目指します。ずっと歩き通しで喉も乾いていました。きっとそこにたどり着けば、なにもかもがはっきりすると思ったのです。
なぜ、なにもかもが解るのか? それは母親だからとしか言いようがありません。若いお母さんはそれを過信していたようです。日々の暮らしに疲れ、赤子を心配しているうちに「なぜこんな思いをするのか」と、自分の気持ちばかりに一生懸命になってしまったためです。自分の赤子が、とても「たからもの」を大事にしていて、それをだれにもとられたくないと強く願っていることなど気遣うことができなくなっていたのです。

そうしてとうとうここまでやってきてしまった。
でもこれは、若いお母さんには仕方のないことだったのかも知れません。なぜなら若いお母さんにとっては、赤子を思うあまりの行動でした。赤子が「たからもの」を上手に隠し切れないのなら、自分が代わりに隠してあげようと思ってのことでしたから、だれにも責めることはできないのです。ただひとつ、自分も「たからもの」は大事にしまっておきたいものだ…ということに気づくべきでした。

足にまとわりつく木々のせいで、なかなか前に進めなかった若いお母さんは、やっとの思いで湧き水にたどり着きました。泉のふちに手をかけ、そして泉を覗き込んだ。その時です。けたたましいカラスの鳴き声が耳を劈くように響いてきたのです。それと同時に若いお母さんの赤子が泣き出しました。

おぎゃぁぁぁぁぁx

泉の中にあったものは、若いお母さんの顔でした。湧き出す泉は煌々と流れ、若いお母さんの顔を映し出しただけでした。その時、若いお母さんはやっと気づいたのです、かわいい赤子の「たからもの」がなんだったのかを。

おぎゃぁぁぁぁぁx

そうしてやっと、その耳に赤子の鳴き声が届きました。その激しい泣き声に、我に返ったお母さんはいてもたってもいられずに来た道を引き返しました。どうにも疲れて動かなかった足を叩き、喉の渇きも忘れて転がるように山を下りました。
道すがら、お母さんは恐ろしくてたまりませんでした。泉の中を覗いた瞬間、その澄んだ水にうつった自分の顔と、目と目が合った。そうして気づいた。赤子の大切な「たからもの」が自分であったことに・・・・

お母さんは泣き叫び、激しく後悔しながら走り続けました。今まで出したこともない力を振り絞り、足が折れても構わないと思いながら山を転がり下りていきました。
急にまわりが騒がしくなってきました。神様のお使いのカラスたちが山に戻ってきたのです。そしてカラスたちはお母さんの真上で覆いかぶさるように鳴きます。まるで責めたてるかように激しく鳴き続けます。

あぁ、なんて愚かなことをしてしまったのか・・・・
カラスが怖い。山が怖い。神様、ごめんなさい。
早く、坊やのところに帰りたい!
せめて坊や、無事でいて!!
お母さんは大きな切り株につまづき、とうとう動きが止められてしまいました。もう立ち上がれない。一歩も動けない、もう走れない。

お母さんは祈ることしかできませんでした。
心から赤子のことを思い、一心に祈り駆け続けました。

どうか、どうか、どうか・・・・

祈りが強くなるごとにお母さんの身体はガタガタと震え、まるで縮こまるように次第に前屈みになっていきました。

おぎゃぁぁぁぁぁx

その時突然に赤子の声が聞こえ、ハッと気づいて顔をあげると、お母さんは自分の家の玄関先に丸まっていました。祈りが通じたのでしょうか、お母さんは重い腰をあげて立ち上がり、急いで家の中に駆け込みました。
「坊や!」

すぐにも赤子に駆け寄り、抱きかかえます。
「よしよし、お腹が空いたね」
そう言ってお乳を吸わせようと着物の胸をはだけました。ですが、お母さんのおっぱいはもう、お乳をあげることができなくなっていました。
それでもお母さんは赤子の口に自分のおっぱいをあてがいました。必死に吸いつくもおっぱいが出るわけはありませんでした。いつもなら、こんなに長い時間おっぱいを含ませてやらないと、パンパンに張って漏れ出るほどのおっぱいでしたが、今はすっかりとしぼんでしまっているのです。ようく見ると、赤子にかかる自分の髪がいつもより透けて見え、赤子を抱く手も頼りなくしわしわで、まるでおばあさんのようでした。

お母さんは少し動きにくい体を持ち上げ、土間に降りて、水の入った甕を覗き込みました。

おぉぉぉぉぉぉぉぉx

お母さんは恐ろしくなって声をあげました。驚きのあまりにのけぞり、しりもちをついたほどです。なんと甕の水にうつった自分の顔はすっかりとコケ落ち、目も小さく骨ばって、しわしわのおばあさんになってしまっていたのです。赤子を心配し、無理をしたためか、髪は白く、若く美しかった自分は見る影もなくなっていました。

山の神様のばちが当たったのです。お母さんは呆然としました。ですがすぐに立ち上がり、赤子を連れて家を出ました。お腹を空かせて泣きつかれる赤子に、早くお乳をのませてあげたいとひとのいる方を目指しました。

お母さんは自分がおばあさんになってしまっても後悔はしていませんでした。赤子が無事だったのです。もうそれだけで充分なのだと思うのです。
お母さんというものはみんなそういうものなのです。自分がどうなろうとも、たとえ一気に老け込んでしまおうとも、我が子のために、我が子の為なら何物も恐れません。ただひたすらに我が子を思い、登れそうもない山に挑み、恐怖もものともせず走り、子のお腹を満たすために働くのです。時に子どもに理不尽なことがあったとしても、一心に祈り、子どもの為ならどんなこともなんでもないことにかえられる、それがお母さんなのです。


お山とは・・・・
歌舞伎では「女形」を指し、人形浄瑠璃においては「女役」の人形を指します。つまり「おやま」とは「女」をさし「おやまのたからもの」とは「女の宝物」というわけです。

 

おしまい







まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します