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『表す』~痛烈な恐怖と羞恥とエゴの中で~

『 全身小説家~ 作家・永沢光雄は いかに生き、 死へ向かったか~』 プチ 文壇バー・ 月に吠える( 肥沼 和之) 著、を 読んだ。

■全身小説家 ~作家・永沢光雄はいかに生き、死へ向かったか~|プチ文壇バー 月に吠える|note(ノート)
https://note.com/tsukinihoeru/n/nb67a75a838aa

私はこれを読む前、 著者の 肥沼 さんに、 こう伝えたのだった。

「 私には、 他者の 人生を描くという 責任や 重圧には 耐えられません。 故に、 私事ばかり 描くという ことしかできないのです」
私は非常に 気ぃ遣いで 臆病である。

肥沼さんが『 永沢光雄』 を愛し、 多大な影響を受け、 『 永沢光雄』という 一人の作家を 書き記したい、 その一念で 膨大な時間をかけ 取材をし、肥沼さん自身が見た『永沢光雄』。

それは一つの 恋文のようでもあり、 夢を追って追って 世界を旅する 青年のようでもあり、 そして この文章を 描き上げた ことによる、 どこか 卒業 式 の ようなものでもあった。

迷い、 惑い、 つまずき、 さまよい、 走り、 時には迷路に入り込み、 しかし まるで少年のような 憧れという 1点の光 に向けて この文章は描かれている。

肥沼さんが 途方もなく旅して旅して 描き上げた、『永沢光雄』に、 私は 素直に感動した。

私自身も『永沢光雄』 という人物を 垣間見て、 引き込まれ、魅了された。

最後まで 読み終わった時、
「 私にはやっぱり、他者を 描き出す 勇気も度胸もない。 ちまちまと 私事の小ネタを ひり出すことしかできない」
ずしんとそう思った。

責任と重圧。

それが嫌というほどのしかかってきた。
例えば私は描けるか?
そう思い思いしながら、 読んだからである。

私が せめて 描き出すことができるのは、 自分の夫のことだけである。

夫は、 私の永遠のモチーフである。

だから どこかは 突き放したような視線で、 描写することは可能だ。

しかし私には、 それだけでいっぱいいっぱいである。

私が 私自身を描くことは、 半ばうんざり と いい加減に 飽きてきて はいる。

それでも害はないし、 私自身であれば、 いかように滑稽でも、 ダサくても情けなくても、 ちょっとぐらい 見栄を張ったりしても、 所詮は 私なので 私以外 困らない。

そんな小さなところで、 私は私自身を描いている。

肥沼さんの、 一人の他者を 描き 出す 執念。

一人の他者を 描き出す 冒険。

一人の他者を 描き出す 責任と重圧。

それに耐えること。

ノンフィクションは 描かれた時点でフィクションであるが、 そこにどれだけ 自分が反映されていることか。

その恐ろしさ。

まるで、 私事を ちまちまと 描き出していることよりも、 ノンフィクションを描こうと する中に 立ち現れる フィクション、 つまりは自分自身が これほどまでに 鮮やかに 滲み出ることが 非常に恐ろしく感じられた。

まるで裸にされるようである。

ひょっとしたら、 自分ネタ ばかりを、 私事ばかりちまちまと 描く こと よりも、「他者」 という存在を 描き出すことの方が、 翻って 自分自身を如実に 浮き彫りにさせるのかもしれない。

私は、 著者である肥沼さんに 自分を 同化させるようにして この文章を読んだのだった。

「視線」というものは、「 言葉」 というものは、 何とも 逃げられず、その人本人であるだろう。

今更ながら、描き表すことの 本質に、 恐れおののいてしまった。

「 表す」 のでは ないのだ。

「 立ち現れる」 ものなのだ。

自分自身を振り返る。

猛烈に恥ずかしく、 だがしかし やめられず、 表したいという欲求が、 今まさに 痛烈な 恐怖と羞恥とエゴに まみれて、 私は立ちすくんでいる。

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