『私を見て、ぎゅっと愛して』七井翔子さん著
「私を見て、ぎゅっと愛して」(七井翔子著・河出文庫)上下巻、読み切った。
いじらしいぐらい、懸命に生きている著者の姿に、ずっと、寄り添うような気持ちで、読み進めてきた。
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ついさっき、上巻を読み終えた。
ズタズタに傷ついて行くその誰もが、悲しいくらい善人でしかない。
悪人がたった一人でもいてくれたら、こんなに苦しまなくて済むのにと、関わる誰しもが、優しく繊細なまなざしで描写されていくのを、ただただハラハラしながら、読んでいる。
アイデンティティとは何かと考える。
もしも、著者に、少しでも残酷さがあったなら、きっと幸せになっていたに違いない。
もしも、著者が、世慣れていてずるかったら、きっと幸せになっていたに違いない。
こんなに傷つきすぎるほど、繊細ではなかったら、もしも、著者に、開き直るということができるだけの、確固たるアイデンティティが確立されていたなら、傷は傷ではなかったかもしれない。
優しさを、ぶった切るほどの、怒りを持てるほど、著者に、磊落な気質があったなら、これほど病は深くなかったかもしれない。
どうか、助かってほしい、間違いを見逃されて欲しい、救われてほしい、幸せになってほしい、そう思いつつ読み進めたが、日常は足元からどんどん粉々になって行って、病は深くなり、心は砕かれた。
誰が悪いわけでもない。
たったひとつの「空隙」が、著者の心に幼い頃から穿たれていた、それがいつしか「病」となった、アイデンティティを保つことが困難な、細い枝のような著者の心。
しなることなく、容易く折れるような、細い枝。
それでも、幹から、細々と水を吸い、幹に繊維を伸ばし、手折られても、手折られても、懸命に、伸びていこうとする、小さく細い枝。
そんな、印象を受けながら読んだ。
明日は、下巻を読む。
どうか、雨風に耐え、雪に耐えて、最終章が、春でありますように。
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ここまでが、昨日読んで書いた感想である。
上巻で、満身創痍だった著者は、下巻では、そのボロボロの身体で、ボロボロの心で、時には血を流しながら、本当に一歩一歩、自分というものをほんの少しずつ掴んでいった。
自分を見失ったというよりも、自分自身を確固として手にすることができなかったまま生きてきた著者が、自分自身を見出し、捕まえていく作業。
よろけながら、転びながら、怪我をしながら、よくぞ、よくぞ、そういった想いしかない。
近くにいたら、どれだけでも駆け寄って抱きしめたくなるような、そんな小さな心が、そんな痛々しい心が、毅然と自身の足で立ち上がろうとする姿。
救われてくれ、救われてくれ、何度もそう願いながら読み、涙を流し、一読者としてそう願った心は、著者と一緒に、昇華された。
そして、安定と安寧を願わざるを得なかった、著者の眼差しで描かれる全ての登場人物たち。
その救いが、それぞれにあったことが、どれだけ嬉しかったか分からない。
こんなにも、著者を間近な人のように想い、こんなにも、本気で応援しながら読んだことは、エッセイと呼ばれる本の中でも、そうそうない。
永田カビさんの、「一人交換日記」を読んで、咄嗟にメールを送った時、あの時と同じ感覚である。
ただ違っていることは、この本が書かれたのが、だいぶ前のことだということ、その一点だけだ。
ネタバレになってしまうので、これ以上は書かないが、著者の、ただただひたむきな、どこまでも不器用な、なんのずるさもない剥き身の心だけが、生真面目なほどの真摯さだけが、最初から最後まで、愛おしく、いじらしく、痛かった。
読みながら、ある時は友として、ある時は母として、言葉をかけたいという感覚に襲われた。
どうか、興味をもたれた方、お読みください。
私は、この本が読めて良かった、そう思いました。
この歳になり、この本を読めたことは、私が母として、そして夫を介護するものとして、そういう立場にある今だから、良かったのかも知れません。
ただただ、この本に登場する、すべての愛しい人々に、全力で祝福を願いたい気持ちです。
どうか、幸あれ。
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