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2022年ウクライナ情勢をより深く理解するための歴史文化背景雑学

当方はウクライナやスラブ研究者では無く、米国大学にてホスピタリテイ・観光経営分野で研究系博士教員をしている日本人米国永住者です。ウクライナには縁があって旧ソ連崩壊後数年であった1995年から往訪しており、渡航回数は30回程度です。過去5年は年に数回のペースで渡航していました。

普段ウクライナの名前が出るのはチェルノブイリ原発事故に関連した話程度で、ここ数か月のロシア軍国境集結と侵攻のニュースで突然によく名前を聞くようになった人が多いのではと思います。 ウクライナとロシアの関係を理解するには、歴史文化の背景を知っておくと深く理解が出来ると思いますので、それがこのメモを書く動機です。気軽にご笑納頂ければと幸いです。

1. スラブ文化の発祥

ロシア語、ウクライナ語は似ていますし、教会の外観や聖職者の服装も似ています。プーチン大統領は同じ民族だと言っています。果たしてどうなのか、歴史俯瞰が役立ちます。

もともとはスカンジナビア半島の北方民族が現在のフィンランド辺りから南下して現在のセントビータズブルグの南にノブゴロド(新しい街の意味。新京ですね)を開拓したのがスラブ文化の始まりです。

その時の地図を見ると今のイスタンブールに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルがあり、そこと北欧・スカンジナビア半島との貿易するにはより中間地点が良いだろうと、西暦882年、ドニプロ川西岸に自然の高台を持つキエフに首都移転となったのです。この当時はまだロシア、ウクライナ、ベラルーシという区別はなく、キエバナルス(ルスの土地:ルスはスカンジナビア人を意味)という名称でそれがキエフで発展した点が重要です。以下の図のピンク色部分、現在のウクライナ南部以外・ベラルーシ全部とロシア西部であり、これが一つのキエフ公国だったのが重要です。またこれら人々に金髪青目・白い肌の北方民族の容姿をしている人が多いのは、地図の左上のスウエーデン等のスカンジナビア人がフィンランド辺りから南下移動してきた人達が入植してキエフ公国としてスラブ人を形成していったからです。

Source: 2011 Encyclopedia Britannica 

2.ウラジミール王の決断

980年から1015年まで統治したVolodymyr (Vladimir the Great)の時代にこの王は今でも影響のある世界史上でも重要な決断をします。それは国教をどうするかという決断です。キエフ公国の王になった時に「国家宗教どうしよう?」という話になり、イスラム教、ユダヤ教、カトリック、東ローマ正教等について使者を送っていろいろ調査させたのです。「キエフ公国人は酒好きだし豚肉も好物だからイスラムはダメだ、エルサレムを守れなかったユダヤ教徒は弱いからダメだ、で、カトリックは地味だ」、そしてコンスタンティノープル(現イスタンブール)の東ローマ帝国の宗教儀式の荘厳さに感銘を受けて、それを国教と決定したのがこの人。今のロシア・ウクライナ・ベラルーシ等スラブ正教の共通の発端。一見小さな史実ですが、ここで別の宗教を選んでいたら、宗教の勢力図だけでなく、日本の隣人は今と大きく違っていた事は想像できます。キエフに旅されると、市街中央に高台の公園があり、その高台から大河ドニプロ川を東南に見下ろすVolodymyr 王の像があります。

source: photo by the author taken in 2019
キエフ中心部、ドニプロ川沿いの西岸は小高い丘が続き、そこにユネスコ世界遺産が複数続きます。ヴラディーミル王はモンゴル軍来訪を見張るかのように東南を見ています。気持ちの良い散歩道で聖ソフィア聖堂、聖ミヒヤエル金ドーム修道院、ダイナモサッカー場*、キエフ洞窟教会と歩けます。ダイナモサッカー場は、以下のような実話があります。
ナチス占領時代にドイツ軍と捕虜で親善サッカー試合をやろうという話になり、第一回目はウクライナ捕虜が勝ち、怒ったドイツ側がより強いチームを呼び寄せたがまたウクライナ捕虜が勝利、怒りまくったドイツ側が3回目は国家代表チームを呼び、前半でまたウクライナ側がリードし、ハーフタイムに武力威嚇をしながら八百長を迫ったのに後半ウクライナ側が逃げ切って三連勝し、怒ったナチスはウクライナチームの一部を処刑及び強制収容所送りにした実話。

3. モンゴルのくびきとモスクワの興隆

ところがキエフ公国はその後1237年にモンゴル帝国の襲来で数年間ほど占領されて(モンゴルのくびき)、そこから逃げたスラブ民族がモスクワに居を構えて、その後はそちらが経済的にも文化的にも発展してロシアになり、スラブ文化・経済の中心はそちらになって行った訳です。キエフから見たモスクワは日本で言うと、古都京都や奈良からみた東京のような感じと言えます。 

当初は強国モンゴル帝国の代理徴税をするような下請け業務からロシアは次第に力をつけ、モンゴル帝国の戦法を習得し、モンゴル帝国が衰退すると変わって広大な土地を統治するようになります。 欧州の歴史上重要なスウエーデン王との東欧の覇権争いで、1709年、現ウクライナのポルタバの戦いで、ピョートル大帝がスウエーデン・ウクライナコサック(武装農奴)同盟軍を破り、その後ロシア帝国はドニプロ川沿いに入植地を作り都市開発をしていきます。ロシア帝国ががウクライナ支配を確固たるものにしたポルタバの戦いの現場には、スウエーデン兵士達の無名戦士の墓としての盛土の横にピョートル大帝の像を描いた教会と博物館が今も存在し、現地ウクライナ人がきれいに整備をしています。2022年1月、ロシア戦車が国境に集結する中、ロシア側から見て重要なポルタバの戦いの博物館を見て来ましたが、ロシア皇帝の心情を理解するにはとても役立つ場所です。

Source:photo by the author, JAN-2022
Source: photo by the author, JAN-2022
緑の軍服がロシア帝国軍、青の軍服がスウエーデン王国軍。ポルタバの戦いでロシア帝国のウクライナ支配が確定。
Source: photo by the author, JAN-2022
緑の軍服を着たロシア帝国ピョートル大帝のポルタバの戦い戦勝を記念した大きなモザイクを飾った教会。今でも落書きや破壊行為も無くウクライナ人たちによって整備清掃されている。
Source: photo by the author, JAN-2022
青の軍服を着たスウエーデン王国軍歩兵の服装。左は国王か司令官かのデスマスクなのだそう。
Source: photo by the author, JAN-2022
スウエーデン国王兵3万人、ロシア皇帝側7万5千人が衝突。この地に散った数千名の無名戦士の塚と教会は300年前から当地に。
Source: photo by the author, JAN-2022
スウエーデン国王兵3万人、ロシア皇帝側7万5千人が衝突。この地に散った数千名の無名戦士の塚と教会は300年前から昔と変わらず、当地に。2022年1月の時点でもウクライナ人がきちんと綺麗に整備・管理している。

17世紀にロマノフ王朝が出来るとポーランド支配下にあったウクライナのコサック(武装農奴)に自治権を与え、18世紀のロシア帝国時代には、東はシベリアから太平洋まで、西はバルト海からポーランド、フィンランドの一部まで勢力を拡大しました。ドイツの王女だったがロシア女帝となったエカテリーナ大帝はオスマントルコに戦いを仕掛け、1783年にクリミア半島を併合し、モルドバを獲得し、且つコーカサス地方でもペルシャ(現イラン)をグルジアから追い出しています。

4. ロシア帝国の敗戦と崩壊、ソ連誕生

但し強大な覇権国、ロシア帝国も時に戦争に負けてそれで士気が落ちています。その一つが1853‐1856年のクリミア戦争で、欧州のバランスを維持するためには、ロシア帝国の拡大を防ぐべきとの意図で英仏伊がオスマントルコ軍側について、結果としてロシア側が負けて88万人の軍隊のうち約半数の45万人を戦闘と疾病で失っています。もう一つの敗戦は1904-1905年の日露戦争です。

1917年に大規模なデモが発生し、ニコライ二世は廃位となり、1922年にはロシア、ウクライナ、ベラルーシ、トランスカフカス・ソビエト社会主義連邦が誕生しました。

5.ウクライナの悲劇:ホロドモール虐殺

旧ソ連時代の1933年にモスクワの共産党本部が肥沃な土地であるウクライナにロシアの同耕地面積当り4~5倍の穀物供給を強要し、ウクライナで大量の餓死者が出た歴史があり、独立後ウクライナはこれをホロドモール虐殺事件として記録し資料を整備し博物館を作っています。ところが旧ソ連を引き継いだロシアは一切の責任を認めていません。ウクライナ側資料によると1年半後に計画が全面撤廃されるまでの間にウクライナ人10.5百万人が死亡しました。(現在の人口が43百万人なので、その規模は巨大)。同時に独立心旺盛なウクライナ人を隷属されるために、空腹に追い込んで同時にウクライナ語禁止、民族服等のウクライナ文化弾圧も実施されたというのがウクライナ側の主張です。餓死した家族の悲劇を記録した日記を書いたウクライナ人が「反ソビエト的行為を行った」という理由で処刑されたが日記は今に残り博物館展示物に、というレベルの共産党独裁政権の狂気が展示されています。

Source: photo by the author, JAN-2022
ホロドモール虐殺博物館。キエフにて
Source: photo by the author, JAN-2022
ホロドモール虐殺博物館。キエフにて
Source: photo by the author, JAN-2022
ホロドモール虐殺博物館。キエフにて

現時点で世界の18か国がこの虐殺の史実をウクライナ側の主張に沿って認めており、米国は批准、日本はまだ(らしい、未確認)。プーチン氏は「ウクライナとロシアは一体の民族だ、それを切り離そうとする欧米は間違っている」と論文で主張していますが、一方でホロドモール虐殺のような歴史的背景を把握するとプーチン氏のロシア帝国時代の懐古的な主張が如何にウクライナ人の神経を逆なでするかが理解可能であります。なお、この博物館の隣にはユネスコ世界遺産である洞窟教会群があります。

Source: photo taken by the author, JAN-2022
Kiev Pechersk Lavra, UNESCO World Heritage, Kiev, Ukraine


6. ロシア軍10万人がウクライナ国境沿いに集結2022年1月

 旧ソ連崩壊後、ワルシャワ条約機構諸国はほどんどが雪崩のように米国主導の西欧的民主主義国家の防衛連合体であるNATOに加盟しました。ハンガリー動乱で旧ソ連戦車に蹂躙されたハンガリー、歴史的にロシア帝国と衝突してきたポーランドは当然としても、ロシア帝国にオスマントルコ支配から解放してもらった歴史的経緯のあるブルガリアもNATOに加盟したわけです。またロシアにとってショックだったのは旧ソ連を構成してきたバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)もNATOに加盟したことでしょう。70年間の旧ソ連支配が如何に嫌悪されてきたかの裏返しです。

Source: https://library.scotch.wa.edu.au/modernhistory/year12/coldwar/nato 

国家は主権があれば誰と仲良くするかを自分で決定出来ます。旧ソ連諸国でロシアと親しくしているのは、専制・独裁国家体制を維持する中央アジア諸国と欧州最後の専制国家といわれるベラルーシ、外交選択肢が少ないアルメニアだけです。民主主義が根付いてきて国の生活水準も上がってきたウクライナは、専制国家ロシアの横暴を見ると旧ソ連の悪夢が蘇るわけです。家庭内暴力を振るわれてきた妻が離婚して自由になったら、かつての夫が「xxとは付き合うな」と介入し、また暴力をふるうぞと脅している状況です。

現在のロシアが気づいていない点は、国家イメージやマーケテイングの観念でしょう。暴力をふるうぞと近隣国を脅したら、当然に「そんな人(国)とは付き合いたくない」と思う訳で、逆に誰が敵なのかがより多くのウクライナ国民には明確になってしまう訳です。

Source: BBC "Ukraine: How big is Russia's military build-up?"

7. 実際にウクライナ国内を回遊して気づく国民感情と独立後の民主化

数多くの記事や論調がウクライナ情勢について報じていると思いますが、実際にウクライナ国内を回遊して来ると見える部分があります。それはウクライナ人の対ロシア感情です。

「帝政ロシアへは反感より郷愁」

短く言うと、帝政ロシア時代に対して反感を持つウクライナ人は少ないです。もっと具体的に言うと例外はかつてオーストリアハンガリー帝国領土だった欧州色豊かなウクライナ西部です。こちらにはとにかく帝政ロシアも旧ソ連も諸悪の根源だという気風があり、現在のロシア人も嫌いな人達が居ます。Lvov(Lviv と英語表記されることもある)市の旧市街はプラハのような雰囲気で、まさに欧州石造りの街並みにしゃれたカフェやビヤホールがある雰囲気です。

一方南部のオデッサは、ロシア帝国時代に伊仏の技師を招いて南欧のような都市計画をした街で、町の中心部にエカテリーナ大帝の立像が今でもきれいに整備されて鎮座しています。オデッサだけでなく南部の都市はKhersonもNova Khahovkaもそうですが、当方の聞く限りでは皆ロシア語を話しています。帝政ロシアに反感を持つならばそのような立像は撤去されるか、落書きされるかで、かつてどこの街中にもあったレーニン像と同じ運命になるはずですが、当地のエカテリーナ大帝立像はきちんと清掃されて街の一番目立つ所に鎮座しています。ちなみに、このNoteの見出し写真は帝政ロシア時代の1887年に完成したオデッサのオペラハウスで、綺麗に維持管理され、街の象徴的な建物の一つです。

Source:photo by the author NOV-2021
Statute of Ekaterina the Great in Odessa, Ukraine
街の中心部一番良い場所に露土戦争でオスマントルコ帝国からこの地(漁村だった)を奪い、都市を開発したロシア帝国エカテリーナ大帝の全身像が鎮座するオデッサ。フランス革命で失業した貴族や技師を雇用し、仏伊の都市計画者に設計させた港町なので南欧の雰囲気。市長にフランス人貴族を登用するあたりの開明さが市民に今でも評価されているため、レーニン像のように引き倒されずに清掃されて今だ中心部に鎮座している。

ほぼ全ての住民がロシア語を話すKhersonでは街の中心部ドニプロ川岸に立地するホテルがFrigatホテルで、それはロシア帝国時代に当地に入植者や資材を運んできたロシア艦隊に由来する名称ですし、その横にはロシア帝国海軍の帆船像がそのまま残っています。数回往訪した東部のロシア国境に近いカーキブもウクライナ語はほぼ聞かなかったです。

「旧ソ連共産党体制に嫌悪感持つ多数と郷愁を持つ高齢者」

旧ソ連が崩壊したのが1991年、ほぼ30年前ですので、現在50歳以上の世代は大人になった時にソ連があった訳です。自分の良く知る南部ウクライナ男性は、何かと理由をつけてモスクワに出稼ぎに行っていました。それがソ連時代から当たり前だったという感覚です。現在70歳以上の世代はソ連公用語ロシア語で働き盛りを勤務した訳で例えば元運動選手やバレー等の芸術でソ連代表だったような人の話を聞くと、それは昔話に花が咲く訳で、ソ連が悪かったというのは自分の人生の大半を否定することになりますのでそういう批判的なトーンは無いです。ただ、ウクライナの多くの人達の心情を聞くと、ロシア人が威張っていた旧ソ連体制と自由が無かった共産党独裁下の閉塞感には嫌悪感があります。そういう威張った態度を今でも取る人は嫌いという事で、プーチン大統領の強引な態度には強い反感を持つようです。現代のロシア人皆が嫌いという訳ではなく、威張ったロシア人には反感を持つという微妙な心持です。

Source: photo taken by the author at Chernobyl, Ukraine NOV-2021
 かつて各市町村の一番中心の広場に必ず鎮座していたレーニン像はウクライナ国内ではほぼ撤去され、チェルノブイリ原発ツアーで回遊する場所(旧ソ連のデユガレーダー基地跡)に一基が残る。「インスタ映えするので、だれかがここに持ってきた」とのこと。


「旧ソ連崩壊からの独立国家意識熟成と経済発展」

当方が初めてウクライナ往訪したのが1995年でした。その時は街中で雑貨(飲料物)を買うのが大変で、タクシーはロシア製のラダばかりで交渉制、建物は旧ソ連時代のままでトイレ探すのが大変でした。但しその時期に旅した中央アジア、バルト三国やアゼルバイジャンもまあ似たようなものでした。クリミアではロシア人警官に賄賂要求された事もありました。

その後1年に一度程度の頻度で2016年頃まで往訪していましたが、この10年間程度でのキエフは変貌してビルの一階に欧米日本と同じような内装の改装をし、人々の服装も欧米風のカジュアルな感じになりました。車もタクシーだけでなくUberも多く、インターネット回線速度はどこでも早く、小綺麗なカフェやレストランがキエフだけなく人口20万人程度の地方都市でも見られるようになり、首都キエフだけでなく日本人滞在者がそう居ないような地方都市にも日本料理屋が複数出現しています。

 Source:photo by the author
地方都市でも高品質なカフェが出現、日米大都市と同じ内装・サービスレベル、価格は1/4程度。
Source: Photo by the author
ウクライナ東部、ロシア国境に近く、都市規模第二位のカーキブのショッピングモールにて。2019年1月頃

2019年に東部の大都市カーキブに行った際に、地下通路で制服の警察官2名に尋問され、窓のない地下室で全ての所持品を机の上に並べろと言われ米ドル現金等も全て財布から出して陳列した際には、久しぶりに旧ソ連崩壊直後時代のように賄賂が必要かもと思いましたが、検査が終わると「申し訳なかった。外国人を含めた麻薬取引の情報があってそこに貴方が現れたので、こうなった。お金全部きちんと財布に入れて持って行って。」と謝罪され、一銭も取られなかったです。

また今月初めにキエフで役所に行く用事があったのですが、賄賂は全く不要で、窓口は綺麗で職員が氏名のIDを着用しているだけでなく、各窓口に氏名札を提示して「業務内容につきお気づきの点は意見窓口か電話でどうぞ」という表示があり、少なくとも日米役所水準に匹敵するサービス水準になっていました。旧ソ連時代のままだった1990年代とは様変わりです。

現地の友人知人は多いのですが、多くは日米の人達と同じで、より給料貰って生活良くして、家族持ちは子供にいい学校に行ってほしい、息抜きにカフェ行ったりレストランにたまに行きたいという全く普通の感覚の皆様と同じような人達です。

Source: photo by the author
Christmas Event for kids at a shopping mall, in Cherkassy, Ukraine, JAN-2019
正月からクリスマス(ウクライナ正教は1月7日)前後は各地のショッピングモールで子供向けのイベントが開催されます。
Source: Photo taken by the author in Sofievskaya Square, Kiev, JAN-2022
正月からクリスマス(ウクライナ正教は1月7日)前後はキエフの場合はユネスコ世界遺産である聖ソフィア聖堂前の広場に巨大なクリスマスツリーが立ち、照明が設置され露天商が出て多くの人が集まります。東京だと明治神宮前とか浅草とか、そういう雰囲気の場所です。

「ロシア皇帝の発想」

ロシア帝国のロシア指導者の心情をウクライナ人が上手く言っていました。「ロシア皇帝の世界観では世界には自分の属国と(それ以外の)敵国しかない」。確かに主権独立国家に戦車を送って国境変更をするという発想は、20世紀の第二次世界大戦で終わったと思っていた欧州諸国にとってまさか21世紀にロシア皇帝の発想の人が出てくるとは予期していなかったでしょう。現ロシア大統領は2022年のウクライナ侵攻は前述した1709年ピョートル大帝によるポルタバの戦いの再現でウクライナを属国化又は併合するという発想なのでしょう。今回はスウエーデン王相手ではなく、ウクライナ人だけなので簡単と思っているかもしれません。

Source: photo by the author, JAN-2022 at the Church Saint Sampsons, at the Museum of the History of the Poltava Battle, Poltava, Ukraine
ポルタバの戦い博物館横にある聖サンプソンズ教会の外壁にあるロシア帝国ピョートル大帝壁画。ウクライナ人達により綺麗に掃除・維持され、ロシア語表記のまま保存。

ロシア帝国は連戦戦勝で領土を拡大した訳ですが、帝国衰退・崩壊のきっかけになった敗戦が二つあります。一つは1904-05の日露戦争敗戦ですが、もう一つが1853-56のクリミア戦争敗戦です。クリミア戦争ではロシア帝国は88万人の兵士を派遣、一方オスマントルコ・フランス・イギリス・サルデーニャ(イタリア)の連合は67万人を派遣し、死傷者は連合国側が22万人だったのに対し、ロシア側は半分以上の45万人を戦闘と疾病でも失って、敗北した歴史があります。この敗北でモンゴル帝国から引き継いだ戦法は欧州の近代的機械化軍団に劣る事がわかってしまったわけです。現ロシア大統領の賭けがポルタバの戦い再現とクリミア戦争再現のどちらになるかはわかりませんが、ウクライナを属国化する意図とは逆にウクライナ人の独立国家意識と欧米日本のような民主主義文化の心地良さの評価と指向は上昇すると思います。 

 Source: photo by the author
Central Kiev before Christmas, JAN-2022
キエフの中心部、正月からクリスマス時期はお祭りムードになり、子供を連れた家族が出歩きます。

「ロシア皇帝の発想を引き継いだ現ロシア大統領のウクライナ侵攻の動機:歴史的観点からの憶測」

歴史上の雑学があると、ふと現在何が起こり得るのか、何故なのかがより見えてくると思います。そこでまた史実を繋ぎ合わせていくと興味深い事が見えてきます。

2020年に発生した地域紛争でナゴルノカラバク紛争があったのを覚えておられますか? 旧ソ連構成国アゼルバイジャン(トルコ系のイスラム教国)領土内にキリスト正教徒アルメニア人が住んでいた地域がナゴルノカラバクですが、アゼルバイジャン側がトルコの援助を得て攻勢し、ロシアがアルメニア人を守れずに敗退した地域紛争です。

何故これが今のウクライナと関係があるのかは、もっと歴史をさかのぼると見えてくる点があります。

トルコ民族はもともと中央アジア、ウラルアルタイ山脈あたりに居たのが、彼らの伝説によると月夜に現れる銀色の狼に引き連れられてユーラシア大陸を西に移動し、今のアナトリア地方に来た訳です。ただそれは神話ではなく、確かに今の中国ウイグル自治区は東トルキスタン(「東にあるトルコ人の土地」、の意味)ですし、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、カスピ海を西に渡ってアゼルバイジャンとトルコ系イスラム教国家がずっとユーラシア大陸の東西の帯のように続きます。(ここにタジキスタンも列挙しておりましたが、タジキスタンはペルシャ語系のタジク語でイスラム教国だがトルコ文化圏ではない旨のご指摘頂き、その通りである故、訂正明記してここのリストから外します。中央アジアで往訪していない唯一の国であり、お詫びして訂正します。有難うございます)。

Source: Rand McNally: https://afp-cv.blogspot.com/2017/05/map-of-asia-political-with-capitals.html 
ウラルアルタイ山脈は地図上で言うと、モンゴル、中国、カザフスタンとロシアの4国が交わる辺りの山脈。南に行けば現在の中国ウイグル自治区(東トルキスタン)そこから西進すると、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン、カスピ海を超えてアゼルバイジャン、更に西進してアルメニア(ここはトルコ系イスラム強国ではなく、正教徒国)を超えると現在のトルコであり、トルコ文化圏がロシアの南に東西に帯のように拡がっている。 その更に南にはイラン、アフガニスタン、タジキスタンとペルシャ語系国家が。
この地図は「アジア地図」とタイトルがついており、ロシアはウラル山脈東部までがアジア、コーカサス地方(カスピ海と黒海に挟まれた、トルコの右上)はアジア扱い。日本人が考えるアジアと欧米人が考えるアジアの範囲に若干乖離があると感じるかも。

トルコ系文化圏なのに近年はずっとロシア帝国勢力圏で、旧ソ連にも編入されていましたね。何故か? ロシア帝国とオスマントルコ帝国は勢力圏が重なる部分があったので、ライバル関係にあります。露土戦争は16世紀からなんと10回以上も勃発しています。基本的には黒海沿岸、コーカサス地方・カスピ海沿岸、東欧バルカン半島、そして中央アジア地域の勢力圏争いです。概して言えばオスマントルコ帝国の衰退にロシア帝国が乗じて領土広げるパターンでしたが、クリミア戦争は欧州他国のオスマントルコ帝国援助もありロシア帝国が負けています。そんな歴史上400年以上ライバル関係にあり、お互いの帝国は消滅してもライバル意識のある両国が、何故に帝政ロシア体制後も中央アジアトルコ系諸国がソ連勢力圏内に留まり、中央アジア諸国と文化的つながりのあるトルコが介入しなかったのか不思議に思いませんか? オスマントルコ帝国が崩壊した時期の欧州は激動の時代で敗戦したら下手をすると他国に吸収されて国が無くなるような時代でした。そこで優秀な将校ケマルアタチュルクが登場し、イスラム色を排除した近代的国家をアナトリア地域に設立しようとした訳です。ところが新生国家の国際社会での承認はそう簡単ではなく、その困ったトルコに早速承認を持ちかけたのが 自らもロシア帝国を転覆して出来たばかりのソ連(1922年)でした。露土戦争でトルコをよく知るソ連は新生トルコの足元を見て「中央アジアとコーカサス地方やカスピ海等、伝統的にトルコ文化圏の地域への権益要求を一切放棄するならば、国家承認してやるよ」という条件を出したのです。プロシアが消滅したりする激動の欧州時代背景でトルコはそれを飲み、トルコ系地域は自分の文化圏だがそれは主張せず、それら地域が帝政ロシア時代から継続してソ連の勢力圏に入ることを容認する密約が出来たのです。以上の400年前からの露土戦争、100年前の密約を知った上で、2020年のナゴルノカラバク紛争敗戦をロシア側から見ると、100年間弱守ってきたトルコ系民族地域紛争への不介入をトルコが破って自分は属国を守れずに惨めに負けた、それは西側メデイアに報道される以上に旧ソ連中央アジア諸国(トルコ系)に対して皇帝が属国を守れずに負けてメンツを失った、という被害者意識になる訳です。(もちろんトルコ軍は現場に居ませんでしたが、トルコが供与した最新鋭自爆ドローンがアルメニア側のロシア製戦車や武装車両を次々と破壊した画像を見たことを覚えていらっしゃると思います)。

すると「ロシア帝国・ソ連の伝統文化歴史領土勢力圏を引き継いだ自分が、先代が築き上げた勢力圏をこれ以上失ったら更に面目丸つぶれ」という発想になるのが推察できます。個人的な面子のレベルであり、ロシア国民全体がそう思っている訳ではないのです。もう西側メデイアでは早くも忘却され始めていますが、数週間前にカザフスタンでの大規模反政府デモをカザフスタン政府の要請に基づき戦車送って鎮圧した事で、少しはメンツを回復したかもしれませんが、ナゴルノカラバクのアルメニア人を守れず敗戦した屈辱はロシア帝国の皇帝と同じ発想のロシア人にとってはクリミア戦争敗北と類似の感覚なのかもしれません。故に「属国ウクライナ(論文ではっきりと同民族だと言っています)が自分の意見聞かずに遠ざかっていくのに懲罰を加えて自分の言う事をきかせてやる」、という個人的なエゴ充足の為に国家資源を投入する行為にブレーキを掛けられる側近もいないのでしょう。

8. 最後に

今話題のロシア・ウクライナですが、現キエフで東ローマ帝国の正教を国家宗教と定め、現ロシア・ベラルーシ・ウクライナの起源となったキエフ公国王の名前はVolodymyrでしたね? 今のウクライナ大統領の名前がVolodymyr Zelenskyy、つまりこの王様と同じ名前。でロシア大統領が、Vladimir Putin。Vladimirという名前はVolodymyrのロシア方言。つまり皆同じ名前なのです。それだけでも元は一緒の王国だったルーツが見えますし、スラブ文化の共通の発祥はキエフ公国な訳です。

当方はロシアには最近行っていないのでウクライナほど雰囲気はわかりませんが、現地のニュースを見ているとモスクワ街角インタビューがあり、そこではロシア人一般市民が「なぜ同胞に戦争仕掛けるのか?」「親戚関係が多いのに今後どういう顔して会いに行けというのか?」「ウクライナがロシアを攻撃する可能性があるのか、それはゼロだろう。なぜ同胞の子供や老人をいじめる必要があるのか不明」等の懐疑的な意見が8割程度で、ロシア人も醒めています。

日本が今、何をしたら喜ばれるのか。軍事援助をすれば喜ばれますが、日本国内の状況や今後の対ロシア関係(北方領土返還と平和条約締結)を俯瞰すると、欧米と殺傷兵器の軍事援助で足並みを揃えることは困難なのが現実でしょう。米国は2014年から25億ドル(2800億円)の軍事援助をウクライナに与えており、過去1か月だけでも230億円程度の無償軍事援助です。ロシア産天然ガスへのエネルギー依存度が欧州で突出して多いが(50%超)、それと因果関係があるかは不明な理由でドイツはウクライナへの武器供与を拒否して、ヘルメット5千個供与すると申入れて、ウクライナの失笑を買っています。すると、日本が遺憾声明や紛争反対・外交解決支持という声明を出すのは当然としても、日本が軍事物資ではないが危機発生時にウクライナ市区町村レベルで役立つ民間向け「物品」を供与する内容としては、ピックアップトラック、ミニバン(乗合バスに使える)や四輪駆動車、小型発電機の類でしょう。キエフではパトカーがプリウスですし、日本は結構存在感があります。街中も旧ソ連時代からあるラダが減った分、ドイツ車や日本車が増えています。

Source: Photo by the author, JAN-2022 in Kiev
We see more German and Japanese cars in Kiev replacing Russian-made Lada. ここ10年程度で走っている車は大きく変わりました。ロシア製は少なくなり、ドイツ日本フランス等欧米の車が増えました。

日本が出来る意外なウクライナへのサポートとしては、まだ世界で18か国程度しか認定していない旧ソ連時代の1933年ホロドモール虐殺の存在を日本国として認めて、学術研究や奨学金用の使途限定資金援助をしてあげるという手があります。ロシアには全くダメージを与えませんが、ウクライナ人にとっては心情的にとても重要な独立国家のプライドを感じる件です。現地の同業の大学教授にも確認しましたが、これを今のタイミングでやるとウクライナ人の心に深く響くとの事です。

Source: photo by the author. 
The only Mcdonald in this city is always packed even during the pandemic.
November 2021 in Kremenchug
首都キエフだけでなく地方都市にも米国系世界チェーンが進出し、子供と家族連れに人気です。従業員の勤務姿勢・スピードは米国より早く、日本並みに素早いです。

9.付録 - 「憶測」

 Source:Google map of Ukraine with the author's marks

一体ロシア軍は何処に侵略して来るのかという憶測記事が増えていますが、当方は専門家以上の情報を持っているわけではありません。但し、ウクライナ国内多くの地域をレンタカーや友人の自動車で自分で走破した経験があるのと、地元友人知人がそこそこ多いので話は伝わってくる部分があります。
地図に三つ丸があります。一番上がキエフからチェルノブイリ原発事故のあった場所でベラルーシ国境です。ここはキエフからバスで2時間弱の距離です。首都キエフを脅すにはベラルーシ国境に近いチェルノブイリ原発近隣から真っすぐ南下がキエフへの最短コース。山も無くほぼ平坦で大きな河川を渡る事も無くキエフ市街地まで来れますが、キエフに来ると小高い丘がうねるようになります。日本で言うと宇都宮から東京に進撃するような感じですが、河川横断は無いです。

右の大きな丸が既に2014年から親ロシア系民兵に占領されているウクライナ東部ドンバス地域。ドネツクとルハンスクが大都市です。ここに親類の居るウクライナ人に聞くと「親ロシア民兵がロシアパスポートを取得するように現地市民に呼び掛けて配っている」のだそうです。クリミアで行ったように、ロシア人が大多数だというアリバイ工作をして、あとは自由でない形式的選挙でロシア併合賛成投票を強要されて、その後ロシアが「民意に基づいて」併合するというシナリオにはロシア人の人口をロシアパスポート保有者で膨らますという工作が必要ですので、それが1月の時点で行われているそうです。
ロシア側の情報だけを聞いていると「ドンバス地域は歴史的にもロシア語を話すロシア人住民だけ」と単純に認識してしまうかもしれませんが、ウクライナ南部と東部に実際に訪れて人々と話をすると、それは事実と異なることがわかります。「ロシア語を話すからロシア人」ではないのです。筆者も実際にウクライナ人の知人(医師)が今もドンバス地域に居ます。ウクライナ側の言い分(国勢調査)をキエフの新聞が述べていますので、引用しておきます。

Source: "Is Donbus really a "Russian place" in Ukraine?" Kyiv Post https://www.facebook.com/KyivPost/videos/2198438000482255 

なお、ドンバス地域から300キロ強、日本で言うと東京から名古屋、大阪から広島程度の距離のウクライナ東部最大の都市カーキブでは街中で聞こえる限りはほぼロシア語ですが、ここの人達はドンバス地域からの避難民も居れば親類や知人がまだドンバス地域に住んでいて人民共和国を名乗る親ロシア派武装民兵支配下に生活しているためにドンバス地域の現状がよくわかるのです。2014年には何が起こったかわからないうちに親ロシア派がドンバス地域を占領して、その後短時間親ロシア派が政府庁舎を占拠したが、ウクライナ側が主権を守ったカーキブ市はその後生活水準が上がり求人が多く、似たような都市だったドンバス地区のドネツク市とルハンスク市は経済状態が悪化し良い仕事も無い、且つ親ロシア武装民兵は旧ソ連のような警察国家型統治で体制批判も許されないという状況を現地住民が把握しているので、大多数がロシア語を話すカーキブ市住民は自由のある民主主義ウクライナの繫栄する自分の都市・生活を守るという意識が高いのです。
別の言い方をすると、親ロシア派が占領後、ロシアが本気でドンバス地域の経済発展に投資していれば、現状ほど親ロシア民兵とその支援を続けるロシア政府への反感がウクライナで拡散しなかったのかもしれません。ウクライナ側の主張では、ドンバス地域の人口は半分が流出、GDPは占領前と比較して70%が消滅しかつての30%レベルに落ち込んだとの事です。 

最後に地図での下の丸ですが、クリミア半島の付け根上にキエフから流れてくるドニプロ川があり、そこに赤印をつけています。そこはNova Khakovkaという人口4万人強の小さな町です。ここはソ連時代に水力発電所を建設するために創られた町です。地図をどんどん拡大すると、その町から運河がずっとクリミア半島に向かって道路沿いに並行しているのが見えます。当方も自分の運転で2往復したことがあります。
この道はクリミア半島にドニプロ川方面から入る道で、運河は2014年ロシアの不法なクリミア半島併合後にウクライナが水流を止めています。(ウクライナ側の言い分はクリミア側の水料金滞納。)これにロシア系クリミア住民が不満を持っていて、途中にほぼ町・市街地が無いため、ドニプロ川南岸まで水補給確保のためにロシアがクリミア半島から限定的な進撃をNova Khakovka或いは運河取水口占領目標に行う事をNova Khakovka住民と近隣Kherson市住民は恐れています。以下にその地域の拡大地図と運河が赤線で示されている地図を添付します。ロシア軍の立場からすると、前述のカーキブやオデッサに侵入すると市街戦でウクライナ民間人犠牲者と自軍の犠牲者も多く出ますが、クリミア半島からドニプロ川への進撃は市街地が無い分、そのどちらも低く抑えられ、また以下の地図のクリミア半島西側の黒海に軍港セバストポリから軍艦を派遣すれば、艦砲射撃やミサイル等で支援が出来るので、という計算はしているかもしれません。
旧ソ連時代外国人立入禁止の戦略的軍港セバストポリには2回往訪しましたが、カーキブやキエフ、オデッサと人種が異なるというか、これは本当にロシア人住民が多いという雰囲気を体感しました。同じクリミア半島でも背後に北風を遮る高い山を抱え南斜面で温暖、温泉もあり、日本で言うと別府や熱海のような感じのリゾート地の雰囲気満々のヤルタとは違う雰囲気でした。(本文以上)

Source: Photo used from https://en.wikipedia.org/wiki/North_Crimean_Canal 
この赤線の上部起点がドニプロ川に面するノバカコフカ町。この町はドニプロ川に水力発電所を建設するために出来た町。そこから取水してクリミア半島北部を横断してクリミア半島東端のケルチまで続く。クリミア半島の農産物育成にはこの水は重要。クリミア半島からこの運河(一部はパイプライン)取水口の街まで途中市街地は無く、信号もない道路がずっと続く。


Source:Photo by the Author JAN-2022
ウクライナ国内をレンタカーで移動する際はGPSカーナビも借りておくと役立ちます。案内板表記はまだロシア語とウクライナ語併記版が多いので、若干キリル文字が読めると便利です。右折が駅、直進が旧ソ連時代外国人立入禁止だったミサイルやジェットエンジン製造工場のあるドニプロ市(旧名ドニプロペトロブスク)、左折がポルタバの戦いの有ったポルタバ市です。
Source: Photo by the author JAN-2022
キエフ中心部から10分ほど歩いた所、地下鉄一駅。東京だと虎ノ門・神谷町のような地域の早朝。古い旧ソ連時代の建物は改修され、一階にはこ綺麗なカフェやパン屋が入居し、高速Wifiはほぼ全店に設置。かつての空き地には新築タワーマンションが建ち始め、かつて道路を埋め尽くしていた旧ソ連・ロシア製ラダはキエフでは希少車種。左手は高級品扱う高級スーパー(日本だと成城石井、米国だとWhole Foods)とワイン小売店で昼間にはドイツ車日本車に乗った人達が駐車場待ちで長蛇の列。

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大変恐縮でございます。拙文、宜しくご笑納頂ければ幸甚です。原 忠之(はらただゆき)