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【散文・考察】詩の前に立ち止まってみて

最近、迷いが生まれ始めているようだ。

詩を書くとき、出てくる言葉を書きとめた。それだけでよかった。それだけで楽しかった。感覚的に書くことを重視していた。

次に世界をそこに現し、それを感覚的に感じ取れないかと考えた。つまり、脳に言葉が入り、その言葉に瞬間的に反応して世界が現れる。その連続によって世界を感じ取れないか。短歌や小説とは違ったプロセスで世界を感じること。

そこで思ったのは、感覚的に書くことは100%表現の行為。けれど世界をそこに表現するために調整することは、瞬発力・感覚的に書くことではなく、調整・推敲することであり、編集が入る。

「世界を現す」という目的が発生している。感覚的に書く、という目的から、世界をそこに現す、へ変化している。

感覚的に書くことは自分のため。

世界を現すのは、その世界のため。その世界と未来の自分のためにデザインする。

詩は自由であるがゆえに様々な言葉や世界があり、その目的や手段、表現やプロセスも人それぞれだろう。

この2つの行為を同時にすることは私には難しい。ように思う。

そうすると、

  1. とりあえず、書く。

  2. そこから、表現したいことを知る。

  3. 推敲する。あるいは、表現を変える。

という方法になる。
これは私の小説手法ににており、結局はやり方は変わっていない、ということになるのだろうか。小説側から来た人ゆえにこういう手法になるのか。この方法で創作すると、本当に詩で表現する必要があるのか、という疑問が浮かんだ。

迷いが生じている。

とりあえず、こういった迷いも含めてやってみようと思う。

感覚的に書いた無垢の詩がいいのか。

デザイン思考が入った作品に近いほうがいいのか。
(もし、プロを目指しているならばこれもいいと思うが、そうではないし、まずは純粋な表現者、アマチュア精神として考えたい。)

結局は詩という手法というか行為というか、これで自分が何をしたいのか、ということなのだと思う。いろいろな詩に触れる機会が増えたゆえの迷いとも言える。

心象風景に特化するのもおもしろい。

詩というのは、ルールや様々な境界がなく、本来と違う組み合わせができるのがいい。

いろいろと実験をしながら楽しもうと思うこのごろ。


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