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【散文・考察】詩や短歌の経過観察

短歌を始めて約2か月がたった。
1か月前は以下の通り。

2か月やってみて、感覚がずいぶん変わった。創作手法なども変化が出てきた。1か月目は短歌を表現できるだけで楽しい、という段階だったが、その過程を通過して、表現することを意識するようになった。歌おうとしていることについて、本当に表現できているのか、自分は何を表現しようとしているのか、そのためには、この言葉でいいのか、この順番でいいのか、接続の仕方や助詞はこれでいいのか、どのあたりまでわかりやすくすればいいのか、あるいは読み手を信じてそこまでしなくてもいいのか。

場合によっては何回も推敲して言葉を探している自分がいた。

基本的には自分に対しての行為で、自分がある程度納得できるのか、世界を表現できているのか、というところで、受け手側まではあまり意識していない。

31文字の世界で、表現者の世界観を出すとなると、そうなるんじゃないか、と思いつつ、継続していく。

現在は、短歌と詩をやっているが、短歌には短歌にしか表現できないことがあって、短歌にしかない世界観があって、読後感も短歌にしかないものがある。

けれど、31文字という世界は、表現するポイントはほんと限られたピンポイントなので、本当はもっとこういった世界について歌っているつもりだけれどもうまくできない場合も多い。

そういった場合には、世界がより広く深く複雑な詩のほうが適している。
1か月前の詩の感想は以下の通り。

以前は詩を書くとき、どこか身構えていた気がする。けれど、すこしずつ気軽に書けるようになってきた。

実験的に短編でやっていた手法も取り入れたりして詩を書いていたけれど、そういった手法はあまり使わなくなってきた。表現しようとする言葉と表現しようとする世界や感覚がうまくリンクするというか、スムーズに出てくるようになった。けれど、テーマや題材によってはうまくいかないときもある。

詩に関しても推敲をするようになった。けれど、短歌ほど書き直したりはしない。出てきた言葉や流れやイメージをそのまま使いたい、というのがあるのだと思う。

短歌や詩を書いていると、ときどき、小説を書いていたときのことを思い出すことがある。短歌や詩では表現できない世界がある。

一番の特徴は時間の流れの有無。

小説というのは時間の流れがあって、もちろん、詩や短歌にも若干はあるけれど、小説のような長い時間は、この表現手法でないとできない。世界に時間があることによって、表現の世界は大きくなる。
(たくさんの詩や短歌を繋げて、ひとつの世界をつくることは可能だとおもうけれど、やはり、別の表現世界)

時間を使わないと表現できないことがたくさんある。言葉ひとつひとつの世界は正直薄まるけれど、それがまたいい。間やその空間・余白があることによって表現できることがある。より実感的に感じることができる世界。

もう少し、詩や短歌ができるようになって、少し余裕が出てきたならば、短編やショートショートをやりたい、と思いつつ、今は、詩や短歌を続ける。

また何か変化があればここに記録していく。

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