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文脈がミソ

すえちゃんに会うのが楽しみだった朝の連続テレビ小説"らんまん"が昨日最終回だった。
セリフは今ひとつに感じていたが、とにかく可愛くて美しい、ちょっと勝ち気でやり手のすえちゃんが私にとってこのドラマの主人公だった。

消息筋によると、実際はドラマのような人物ではなかったらしい…?
まあそのあたりはのっけから、作り話として楽しんでいるので構わない。

秀逸に感じたのは、震災後の晩年(と言ってもたぶんそれほど高齢ではない)のすっかり老いさばらえて病に侵されている風情だ。
頬の周囲にシミまで描いてあるのは、そこまで演出しなくても!正直思った。
何かの罰ですか?
ラストに森のシーンで、かつてのすえちゃんを見ることができて嬉しかった。
思えばすえちゃんこそ、雑草の如く逞しく生き、名を残しやがて燃え尽きる生を体現してはいなかったろうか…

さて、ドラマの要となっていた有名なことば

雑草という植物はない

について。
頭が悪い、捻くれ者の私でも、何を言いたいのかくらいは分かる。
そうは言っても、逞しく蔓延る植物の名前を知りその一つ一つに命を吹き込んでいては、雑草が生い茂り藪蚊が蔓延してしまう。
名もなき草と思うから抜いたり刈ったり焼いたりできる。

要は文脈、使いどころである。
同じようなことを、やはり有名な詩の一節からも思う。

小鳥と鈴とそれからわたし
みんなちがって
みんないい

種類や用途の違うものは、比較しようがないと思う。
タライとバケツと洗濯機
タワシとブラシと竹製ササラ
トランペットとお琴とシンセサイザー
パスタとナンとお好み焼き

なら分かる。
逆立ちしてもわたしは小鳥にも鈴にもならないし、その逆も然り。
まあ、生まれ変わったらわからないね。

"大漁"もそうだ。
獲れたてのピクピク尻尾が動いている活魚の舟盛りを前にこの詩を諳んじるのは悪趣味が過ぎる。

ときおり、そういう野暮をやらかして気の利いたことを言ってる気になっていることがある。
そうは言っても、そんな風に憶ってみるのは、忘れないようにしたいものだな。


※ヘッダー画像はポピットさんよりお借りしています。
ありがとうございます♪


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