オタクという生き物3匹

どうも。昨日の記事を読み返して他の方々の記事を読ませて頂いた結果、自分の低能さに打ちひしがれた只野御宅です。でも書くのは辞めません。

さて昨日予告した通りと行きたい所ですが、俺の低能のせいでまだ個々の作品を紹介する心境には踏み切れていません。アホです、アホ  なので今日は一つ、 オタクという人種の生き方に1ミリ程触れてみたいと思います。

ところでこれを読んでいる貴方はどのようなお方でしょうか。恐らく俺より百倍頭が良くて華麗に世間の世迷い事や楽しい物を摂取している素敵なお方だと思います。そうであるなら先ずオタクだ何だと名札を貼られる事は無いと思いますけど。然しながら、俺の様にこれと言った取り柄や物理的長所、即ち金になる物が無く、只或る事に狂信的好みを抱いていると世間一般には「オタク」という名札を付けられる物だと思います。この名札は非常に生き辛くなる物であり、社交に於いては邪魔でしか無いでしょう。事実俺もそうでした。特に俺の場合小学校とか、社交を学ぶ前にオタクの基礎が出来てしまったので世間を見られる様になるまでは割と困った人間でした。ガチの黒歴史です。うわつら。そんな俺が人生の一つの分岐点に立ったのは音楽を聴き始めてからでした。その以前にも、所謂ボカロという物は聴いていましたが、俺からすると当時は、音楽をきちんと聴けていなかった時期だったと思います。黒歴史だし。

音楽を聴き始めて、最初に好きになったバンドはRADWINPSでした。最悪な事に例の映画が入口になってしまいましたが、それからは元のRADの曲も聴き漁り、CDまで買って毎日聴いていました。本気で好きになりました。今考えると浅いけど。そのRADの曲の中でも、ハードな曲が特に気に入っていました。当時自分に足りなかった物を教えてもらった気になっていました。然し今でも思い返すと、あの時聴かなければここまで深く考える事はしなかっただろうと思います。大事な出来事だったと思います。何を言っているのかさっぱりな方は「おしゃかしゃま」「DADA」「G行為」を聴くとお分かり頂けるかと。つまりアレです。

それからは色々な音楽を貪る様に聴きました。  邦楽の有名なバンドを一通り聴いたら、その後は偶々見つけた凄いROCKで渇いた感じのめっちゃすこなボカロPにハマり、全曲聴かせて頂いた後それに加えて「ロッキンユー!!」にも並行してハマりナンバガ、ゆらゆら帝国、神聖かまってちゃんなど少し深い邦楽のバンドの方々を聴き、  洋楽を聴き始めてからはライブラリが洋ロックで埋め尽くされました。あ、あかん語り過ぎたわ。

兎に角その様にして、俺は見事限界オタクに進化しました。 いぇい。   ネットの掲示板も子供の頃からずっと見てきたのでホントにクソみたいな人になりましたね。お母さんすみません。

で、その頃から様々な事を観てきて思うのは、  自分の常識は他人に通用しない、という事です。自分が見ているのは社会のほんの一握りであり、例え友達であっても家族であっても全く違う物を握っている。これは大体の人は分かっている事で即ち「常識」です。この様に他人と共有出来る物は幾らか有ります。人を×しちゃダメとかね。

俺が思う問題はその先です。例えば今上の段落で殺人は絶対悪と書きましたが、それは飽くまでも「健全な社会」という1グループでの常識です。 世界には幾らでも非健全な社会はありますから。ここで或る常識を共有する物の共同体を「社会」と名付けます。我々がよく「日本社会」だとか、「欧米社会」と呼ぶ物です。丁度その2つにも、「一般人の銃の所持」という明確な常識の差異がありますね。この様に各「社会」には差異というカーテンが引かれています。誰もが認める事。

さてここで「社会」の規模を最小にすると、結局この「社会」は1人ぼっちの集団、即ち自分と他人の様な関係に戻るわけです。前段落の話から言えばこの自分と他人にも明確な差異、つまりこの話の最初の、俺が気づいた事に戻れるわけです。  なんか自分でもこんがらがって来たけどクソ駄文って書いてるので無視しますね(暴論)

話を戻すと、「社会」の規模に関わらず常識の差異は存在するという事でした。又例を挙げると、「日本」では女性の水着は胸当があるが「オランダ」には無い(今はどうか判りませんが)とか、  「関東圏」では知らない人に迷惑をかけないのが(微弱ですが)慣習としてあり、「関西圏」の人は大概知らない人にでも話しかけたり飴ちゃんあげたりなど赤の他人への関わりが強かったり。まぁこれは言い過ぎかも知れませんね。少し話が逸れますがこういう社会間を「常識」で分断するのも良くないですし。ところでこの比較は、「自分」と「世界」に対しても当てはめる事が出来ます。

例えば今「世界」の常識としては有り得ない事が「自分」の中に有ったとしたらどうでしょうか。「自分」という社会は1人だけなので、想像したりする事は可能ですよね。そうすれば、その2つの社会を囲む常識のカーテンの、自分の側だけ開けてみるという事も出来るわけです。思想の自由があるので考える事は出来ますし。   で、この事に気づけると何というか気持ちが楽になりますね。「何で皆こんな事に囚われてるんだ」と至って、ギチギチの「社会」が馬鹿馬鹿しく思えたり。

これが良い方に傾けば、我々人は既存の社会から抜け出そうと海外留学したり会社を興したりして「自分」と「世界」にとって良い結果となるはずです。問題は悪い方に傾いた時です。こうなると人は犯罪犯したり取り返しの付かない事になってしまったり、と俺は思うわけです。依って常識を抜け出すのはリスクが非常に高い。当然です。

ここまで読むと貴方は「おいタイトル詐欺じゃん○ね」とか言うでしょう。   俺がこのタイトルにした理由は、この常識の逸脱をする可能性が一番高い人種はオタクだと思うからです。勿論俺も。先に書きましたが俺は小学生の頃からオタク文化というのに触れ、対人関係で取り返しがつかなくなりました(冗談)。そんな事だから人と会話してると若干ですがあ、人と違うなと感じる事が偶にあります。もう常識逸脱してね?と感じる事が。勿論それは些細な事でありますし俺は犯罪なんて絶対しません。ただ、普通の人と比べて疑われてもおかしくは無いでしょう。オタクだから。

よって俺は、オタクという人種には絶対に理性や思考を放棄してはいけないという暗黙のルールがあると思います。オタクの何割かが頭良いのにはこれがあるかと。で、思考を放棄した結果が昨今のニュースに出てますよね。他人事だと思わない方が良い。況してや、今の世の中では多くの人が簡単にそれなりの情報を手にすることが出来て、それが原因となって常識の逸脱を起こしている。一概に悪いとは言えないが、ニュースを観ていてそう思う。まぁ、その辺りの話はまた今度に。

兎に角今日の駄文を纏めると、  俺たちオタクは危険因子予備軍だ、意識高い系でもいいから常識の逸脱を悪い方に向けるな、てな感じですかね。然しこの意識高い系オタも、クソうぜえんだよなぁ??(太陽系サイズブーメランの音)

只野御宅

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